voice of mind - by ルイランノキ


 未来永劫3…『良子のいない世界』

 
桜井良子。彼女の存在が消えたことで、彼女に関わる環境に穴が生まれた。その穴を埋める偽りの記憶が作り出される。偽りの記憶はすべてのものに影響のないカタチで作られ、辻褄が合わない部分は失われたまま、記憶に穴を開けている。
人はすべてのことを記憶しておけない。記憶の一部に穴があっても、不自由なく生きていける。
 
バス停で通勤のバスを待っていた坂上雪斗は、開いていた携帯電話を見て不意に「なにしようとしていたんだっけ……?」と記憶が飛んだ。
顔を上げると遠目にバスの姿が見え、携帯電話を閉じてズボンのポケットに入れた。
何をしようとしていたのか忘れることはめずらしいことではなかった。思い出せないのはそれほど重要なことではないからだろうと考える。
 
そこに、大切な人へメールを送ったという事実も、大切な人そのものの存在が消えたなど、考えもしない。
 
バスが停車した位置がちょうど自分が立っている正面に乗車口が来たため、少し嬉しい気持ちになる。一番に乗り込み、すぐに降りれるようにドア付近の窓際の席に座った。最後に乗り込んで来た客が席に座ったのを合図に、ドアが閉まり、バスは走り出す。
 
雪斗は流れていくいつもの景色を眺めながら、なにか大切なものを忘れているような気がしてバッグの中身を確認した。特に忘れ物はなさそうだ。さっき携帯電話を開いた理由が関係しているのだろうか?と、ポケットに入れていた携帯電話を開く。“なにか”を探ってみても、特に返し忘れているメールも電話もない。
 
職場までは15分ほどで着く。何気なく、携帯電話のアルバムを開いた。友達と撮った写真ばかり出て来る。そしてまたここでも、心に違和感を覚えた。
チクリと針で刺されたような痛みと、そこからじわじわと広がる寂しさ。
今までこれといって寂しいと感じたことはなかったのに、なぜか急に物寂しさを感じる。ここが自室だったら、涙が出てしまいそうなくらいだった。
 
疲れているんだろう。そう思った。
携帯電話を閉じて窓の外を眺める。
 
そろそろ彼女でも作ったほうがいいのかな。そんなことを思ったと同時に、目頭が熱くなった。
 
「…………?」
 
なんだろう。堪えないと涙が出る。俺はどうしてしまったのだろう。
ドクドクと心臓が脈打った。嫌な汗が滲む。息が苦しかった。停車ボタンを押し、次のバス停で逃げるようにバスを降りた。
 
「大丈夫ですか?」
 たまたま同じバス停で降りた女性が心配そうに声を掛けて来た。同い年くらいだろうか、上品な紺色のスカートスーツがよく似合っている。
「あ……大丈夫です。すいません。ちょっと、急に体調が悪くなって」
「救急車呼びますか?」
「いえ、そこまででは……。少し座って様子を見ます。ありがとうございます」
 頭を下げ、バス停のベンチに腰を下ろした。女性はこちらを気にかけながらも、腕時計を見遣り、足早に去って行った。
 
職場に遅れるかもしれないことを連絡しなければ、と思ったとき、携帯電話が鳴った。メールの音だ。なぜかドキリとする。開くと、女友達からだった。
 
【 元気〜? 近々帰ろうと思うんだけど、会える? 】
 
二人で? と思う。でも確か、彼女には彼氏がいたような気がする。東京の大学に通っている彼女とは高校で知り合った。
 
【 急にどうした? 彼氏と別れた? 】
 
単刀直入すぎるかなと思ったが、そのまま送信した。次第に、動悸が治まっていくのを感じる。
 
【 そういうわけじゃないんだけど、なんか急に寂しくなってさ 】
 
俺と同じ……?
強めの風が吹いて、足元に薄紅色の花びらが落ちて来た。顔を上げて周囲を見遣る。少し離れた場所に公園があった。桜の木が見える。
 
【 俺も。春だからかな 】と、メールを返した。
 
春は自律神経が不安定になりやすいと聞く。おかしい人が増えると言われているのもそのせいかもしれない。
 
【 かもね。会おうよ。 】
【 了解。帰って来るときにまた連絡してくれ 】
【 OK! 】
 
携帯電話を閉じて立ち上がると、バスの時刻表を確認した。間に合うだろうか。念のため、会社に一報入れる。
バスが来るまでの間、公園の桜を眺めた。懐かしいと思うのは、1年ぶりだからだろう。
心に隙間風が入り込む。なぜか泣きたくなるのも、すべて春のせい。
春が終わる頃にはきっと落ち着いて、いつもと変わらない日常が戻って来る。
そう思った。
 
━━━━━━━━━━━
 
横断歩道の前で携帯電話を閉じた村富久美は、突然吹いた春の風に目を細めた。
 
──急に春が来た気がする。
それは不思議な感覚だった。春までの記憶が抜け落ちて、気が付いたら春が来ていた、そんな違和感と、自分を置きざりにして季節だけが通り過ぎて行くような寂しさがあった。
 
高校時代の友達に連絡をしたくなったのは、大学生活に少し疲れていたからだ。誰かに話を聞いてほしいと思った。でも思い浮かぶ人があまりいなくて、私はこんなに孤独だったっけ? なんて思った。
親友らしい親友も作らずに、これまでよくやってきたなと思う。
寂しい時、これまでどうやって乗り越えて来たんだっけ。そもそも寂しいなんて今まで思うことあったっけ。急に自分のことがわからなくなった。
やっぱり疲れているんだろうなと、ため息を吐く。
 
信号が青に変わり、歩き出した。不意に桜の花びらが視界の片隅を流れて行った。久美はそれを目で追った。
 
今からでも、親友って作れるものかな。
恋愛相談し合って、くだらないことで電話して、一緒にお買い物に行ったり、嫌なことがあった日は飲みに行ったりして、沢山の思い出を共有できる友達……。
 
「…………」
 
春の風って、こんなに冷たかったっけ。寒さが身に沁みて、鼻をすすった。
心にまで吹きすさぶ風が頬を撫でていく。
 
━━━━━━━━━━━
 
台所で食器を洗い終えていた桜井佐恵子は、掛け時計を見遣った。8時50分。
大慌てで居間に移動していつもの鞄に財布と化粧ポーチと携帯電話を入れ、手ぐしで髪を整えながら家を出ようとして、携帯電話を持っていないことに気が付いた。
 
「あれ……? どこにやったかしら……」
 と、家の中を歩き回り、台所のシンクの横に置いてあるのを見つけた。
「……?」
 いつもはリビングで充電しているのに、どうしてこんなところに置いたんだっけ。誰かにメールか電話でもした?
 
パートは朝9時からだ。自分の行動に小首を傾げながら、家を出た。
いつも6時には起きているのになぜこんなに慌ててしまうのだろう。娘が一人暮らしをはじめてから、時間に余裕が出来たはずなのに。
車に乗り込んでエンジンをかけた。幸い、職場はすぐ近くにある。
 
車を走らせながら、朝の準備を思い返してみた。6時に起き、服を着替えて洗面所で顔を洗って歯磨きをし、洗濯機を回す。それから夫と自分の朝食を作って、テレビのニュース番組を観ながら食事をし、夫を見送る。いつもはその後ですぐに食器を洗うが、今日は寝癖が酷かったため、先に髪を整えたついでに化粧を済ませた。それから食器を洗い、洗濯物を干した。
大家族ならまだしも、どう考えても3時間はかからない。
一体どこで時間が溶けてしまったんだろう。テレビを観ながら身支度をしたのが悪かったのかなと、時間の使い方を見直す。
 
風に乗って流れて来た桜の花びらがフロントガラスの上を滑った。
──いつの間に桜が開花したのだろう。
ここ最近、これといって忙しかったわけではないのに。毎朝ニュース番組だって見ているのに、知らなかった。
 
「サクラ……」
 
赤信号で車を止めた。お腹に右手を添えると、胸の奥がズキンと痛んだ。
娘の美鈴は今度いつ帰って来るだろうか。いつか話さなければいけないと思いながら、無理に話す必要はないという夫の言葉に甘えている。
 
将来結婚をして子供を授かることがあったら、『咲良(さくら)』という名前を付けたいと思っていた。日本人らしく、響きも綺麗だからだ。でも、出会った相手の苗字に既に『桜』があったから、授かった命を前に名前をどうしようかと互いに譲れないまま時が過ぎて、そしてその命は名前の無いまま産まれて来ることなく失われてしまった。流産だった。
 
些細なことすべてが原因に思えて、あの時あんなことをしてしまった自分のせいだと、あの時もっとこうしていればと嘆き続ける私に、夫はいつまでも寄り添ってくれた。君のせいじゃない。きっと、あの子は忘れ物を取りに戻ったんだ。だからまた、僕たちの元に戻って来てくれるよと、そう言って。
 
けれど私はどうしても、もうあの子とは会えない気がして仕方がなかった。
あの子の代わりはいない。あの子はあの子。そしていつかまた新しい命が私のお腹に宿る時、それはあの子とは違う、あの子の代わりじゃない、新しい我が子なんだろうと。
 
あの子のことを忘れた日はない。この手に抱くことはできなかったけれど、確かにこのお腹の中にその命は存在していて、短い間だったけれど、大切な私の子供だった。
思い出す度に、産んであげられなかったことを悔やんで、仏壇の抽斗にしまってあるエコー写真を眺めては我が子の幸せを願った。どうか、多くの人から愛され、慕われ、あなたも多くの人々に愛を与える、そんな人に、そんな世界に、生まれますようにと。
 
後ろの車がクラクションを鳴らした。青信号だ。慌てて車を走らせた。
 
あの子のことを忘れた日はない。──本当に?
どうしてか疑問が浮かんで、涙が溢れた。
失った痛みはもうとっくに消え去ったと思っていたのに、なぜだか急に悲しくなった。
車を道の脇に止めて、袖で涙を拭いた。
 
私の人生の大切な部分が大きく欠けてしまったような喪失感に苛まれる。
居ても立っても居られずに、鞄から携帯電話を取り出して娘に電話をかけた。もう仕事に行っただろうか。電話に出る気配がなく、電話を切った。
 
心が痛い。心を埋め尽くしている後悔の念。これは誰に向けられたモノ……?
あの子? それとも、美鈴? それとも私自身?
 
「…………」
 
わからない。
呼吸が浅くなるのを感じて窓を開けた。桜の花びらが入り込んできて、お腹の上にひらりと乗った。
 
年のせいか、最近お腹が出て来た気がする。ダイエットしなくちゃと、花びらを拾い上げて窓の外を流れる風に乗せた。ふわりと舞いがった花びらの行方を目で辿っていると、すっと心が軽くなっていくような気がした。
メール画面を開いて美鈴にメールを送った。
 
【 今度いつ帰ってきますか? 連絡くださいね 】
 
その返事は職場についてから受け取った。
 
【 着信あったから何事かと思った。お父さんと喧嘩でもした?
  仕事終わったらまた連絡するね 】
 

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