欠伸が止まらない。今日何回目だったなんて覚えてはいないが、何回目かの欠伸をすると、丁度教室に入ってきた先生と目が合った。
「あれ、子規君。早いね」
「牧先生、おはようございます」
首のあたりに、綺麗なキスマークがついている。随分と幼稚で独占欲が強そうな彼氏様だ。挨拶を返してくれた先生から目を逸らし、また欠伸をする。
「昨日はリン君が迷惑かけたみたいだね」
そう言って、ふわりと笑った先生は花のようだった。もう三十代だというのに、恐ろしい。先生の言う「リン君」とは、昨日俺に合コンを押し付けやがった久賀のことである。
「本当ですよ、もう二度と行かねえ」
「ふふ、でも楽しんだんじゃないの?」

 昨晩、お開きになる前に「まだ帰りたくない」と言ったストレートの黒髪を靡かせ、俺の手を握った女の子を思い出した。その大きな目を潤ませ、今にも眼球が零れてしまいそうなほどだった。
「すぐに家に帰りましたよ」
そう言うと、先生はまた笑った。なんのことかわからず、首を傾げると先生は「服」と一言言った。ああ、なるほど。昨日と同じ服だからか。
「子規君も、やっぱり男の子なんだね」
「なんの話してるんすか」
機嫌が悪そうな久賀が、俺と先生の間に割って入ってきた。こちらが「おはよ」と言うと、俺を人睨みしてから「はよ」とぶっきらぼうに返してきた。昨日お前の代わりに言ってやったというのに、酷いヤツだ。
「コラ、リン君。子規君にありがとうって言ったの?」
まるで子供を叱るように、久賀の顔を覗き込んだ先生に久賀は耳まで顔を真っ赤にしている。恋愛童貞め。この二人、隠す気はあるのだろうか。俺が二人の関係を知っているからといって、こうもあからさまだと心配になる。

「…東雲、助かった」
目も合わせず、またしてもぶっきらぼうに言い放った久賀に俺はニヤリと笑う。
「ま、今日の昼奢りだから許してやるよ」
まあもう二度と行かないけど。

「あ、そうだ。君達、面白い話に興味はないかい?」
牧先生は民俗学専攻の先生だ。つまり、この人の「面白い話」はかなり面白い。こうやって、生徒に「面白い話」をいつもしてくれるところが好きだ。
 久賀もツンケンしているわけにはいかなくなったらしく、大人しく俺の隣に座った。こうしていつも先生の特別授業が行われるのだ。先生の話の切り出しは決まって「面白い話に興味はないかい?」だ。
「パラレルワールドって知っているかい?」
「パラレルワールドって俺達が今いるこの世界と、また別にある世界のことだろ?」
久賀が目をキラキラとさせながらそう言った。コイツはこういうオカルトチックな話が好きなのだ。かく言う俺も、内心ワクワクしている。
「簡単言うとそうだね。パラレルワールドは「並行世界」とも呼ばれていて、僕たちがいるこの世界と呼び名通り、並行に複数存在しているんだ。そしてその世界が実際にあると証言している人たちもいる。それが事実かはなんて、証明できないけどね。
 その「パラレルワールド」から帰還したという人の証言がね、とても興味深いものなんだよ。彼が言うには、気が付くと自分の知らない世界にいた。そこでは自分が今まで過ごしていた常識も、言葉も通じない。そして気が付くと、また自分がいた元の世界に戻っていたってね。でも戻ってきたはずの世界はどこか様子がおかしい。酒嫌いの両親は毎晩酒を嗜んでいるし、仲が良かったはずの友人も存在すらしていない。カレンダーを確認してみれば、自分は15歳だったはずなのに、20歳になっている。彼は思ったんだ「自分は元の世界に帰ってきたのではなく、違う世界にまた来てしまった」のだとね」
よくある都市伝説のような話だが、先生が話すとやけに現実味を帯びている。
「趣向は違うが、こういう話もある。彼は『突然、自分ではない記憶が流れ込んできた』と言った。それも、既視感を感じる記憶ばかり。18歳まで至って普通に過ごしていた彼は自分が18歳まで戦場で戦っている自分を『思い出した』そうだ。剣をこの手に持った感触も、その世界で食べた乾いたパンの味も全て『覚えている』。
 前世の記憶ではなく、正真正銘『自分』が戦場で戦っている記憶なんだそうだ。
 では、この世界で過ごしていたこの記憶はなんだ? 自分はおかしくなってしまったのか。
 僕はその現象をこう考えたのだよ。彼は『無意識のうちに異世界の自分と入れ替わってしまっていた』。入れ替わりのタイミングがいつかは不明だが、現在の彼の周囲に異変があるわけではないからね。どういう形かはわからないが、彼は異世界の自分の記憶を引き継いだ状態で『無意識』に入れ替わりを果たしてしまった」
そこで先生は、一拍置いた。
「では問うが、君たちが正真正銘自分であることを証明できるだろうか? もしかしたら、違う世界の住人だったという可能性もあるかもしれない。それを君たちは否定しきれるかい?」
馬鹿げた話だ。ネットのホラ話のような話なのに、先生の声はリアルを帯びていた。

「なんてね」
先生は最後にそう言ったが、どこか先生の表情は固く、不思議なことに俺も今の話をスルーできる気がしなかった。

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