猩々緋は自身の懐から煙管(きせる)を取り出し、口づける。紫煙を燻らせ、シキに顔を近づける。角度によっては、口づけしているように見える。
 数秒、見つめ合い煙をシキの顔に吹きかける。
「君は自分がこの世界に根を張れておると思うてるんか?」
猩々緋が聞く。

 その質問に、シキは下唇を噛む。
「お前に何がわかる」
苦し紛れにそう吐き出した。間近でその表情を見、その言葉を聞いた美しい男が笑う。
「常套句やなあ…自分がこの世界で一番苦しい思いをしとるとでも思うとんのか?」
「そんなこと、一言も言ってない…!」

 黒薔薇がシキの顔を覗き込むようにして、彼らを囲む。薔薇の濃い匂いが鼻についた。
「せやな、でもお前の頭の奥では思うてるはずや、シキ。なんで、自分がこんな目に。なんで自分ばかり損な役回りをせなあかんのや。

そしてなにより、なんで『こんな世界に来てしまったのか』ってな」

 猩々緋の猫の目が、三日月のように歪んだ。なぜお前がそのことを知っているのだ、とシキの目が訴えている。しかし、その震える口からは言葉が出てくることはない。
「なんで知っているのかって?」
 シキはこの世界に来て、自分が異世界人であることを 口にしたことは無かった。
 シキは怖かったのだ。ようやく第七師団三番隊という居場所ができ、任務先である軍事学校で友人ができた。

 自分が異世界人だと彼らに知られた時、彼らがどう思うのか。本来、交わることのなかった縁。本来出会うことのなかった彼らに対して、一体どう説明すればいいのだ。そう思っていた。

「君は、私と同じ匂いがする」

 同じ匂い、つまりはシキと同じ生まれとでも言いたいのか。猩々緋もまた、シキと同じ日本に生まれ、日本で育った男だと言うのか。

「シキ、君は日本でごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の両親に育てられ、ごく普通の弟妹とともに育ったはずだ。そのことを幸せだと感じることもなく、君は苦しかった違うか?」

 猩々緋によって語られる自身の記憶がその場に響いて、耳鳴りがする。なぜこの男が自分のことを詳しく知っているのか、なんて疑問すら浮かばなかった。

 男の声をなぞって、自分の記憶をたどった。






 東雲子規は、ごく普通の家庭で育った。父親は物流関係の会社に務めており、母は飲食店にてパートをしていた。決して裕福とは言えないが、弟が一人妹が一人と賑やかで温かい家庭だったと思う。
 虐待をされたわけでもなく、ただただ普通の家庭。小学生の子規には自分の家の経済的な事情なんて理解できたわけではないが、両親が大変そうだというのは漠然とした印象として抱いていた。そのため、弟たちの面倒は積極的にしていたのだ。
 弟たちの面倒を苦だと思ったことはない。いつも夜遅くに帰ってくる両親の方が大変だと思ったからだ。少なからず、子規はそう思っていた。

「…子規、お前は忘れとるかもしれんが本来君にはもう一人、弟がいたはずや」
「弟…?」

 弟…?俺には一人しか弟がいなかった。そして、妹が一人。コイツは何を言っている。子規は訝し気に猩々緋の誰かに似たその目を見つめた。

「正しくは、弟が生まれてくるはずやった。お前がこの世界に来る前、お前の母親はお前になんて言ったんや」

 ずっとぼんやりとしていたものに輪郭が現れたような気分だった。ずっと自分がいた世界の記憶はどこか靄がかかって、まるで自分の記憶が誰かに抜き取られたようだった。

 ずっと忘れていた。母は俺に自分の腹の中には子供がいるのだ、と。母の深刻そうな表情に子規は『この子は望まれた子供じゃないのか』と悟った。十二歳の子規は、聡明だった。両親には、子供三人を養っていくのに精一杯であるということを理解してしまったのだ。

 あの時、母は俺になんと言ったのか。子規はゆっくりと息を吸った。
 
 記憶の中の母の口がこう動く。
『もうひとりなんて、むり。あんたなんかうまなきゃよかった』

 東雲子規は、直後交通事故にあい、姿を消したのだ。


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