『怪異』――それは、人間にとって…認識する間もなく襲い掛かる恐怖。じわじわと人間と人間の恐怖心を媒介し、繁殖していく『それ』はまさにパンデミックだ。

 学校からの帰り道は、人通りの少ない道を歩く。数年前まで謎の疫病が流行ったことにより、周辺にあった学校が潰れた。そのため、一番近い城下町の学校まで通わなくてはならなくなったのである。西には田畑と自然に囲まれた景色が広がり、この国の中心に建つ城を介して東の方角には工場が大きな津波のように建ち並び、咆哮を上げていた。

「おや、君迷子かい?」
いつの間にか、隣には見知らぬ男の人が立っていた。男の人、いやもしかしたら女の人かもしれない。顔を見ているはずなのに、なぜか認識できないのだ。
「今日は月が青いね、そんな日は気をつけなさいと教えられなかったかい」
優しい口調と合わせてくれているとわかる歩調。自分が履く下駄の音が、不自然に鳴り響く。
「…神隠しに遭ってしまうからね」

 顔を認識できないはずなのに、その赤い瞳が印象的だった。
「しょうがないからワタシが君を安全なところまで送り届けてあげようね」

 言葉が出なかった。背中の汗が止まらない。自分が感じている感情が何かもわからなかった。
 どれほど歩き続けただろうか。長いような、短いような時間を男とも女ともつかないなにかと共に歩き続けていた。
「さ、戻ってきたよ。無事に辿り着けてよかった」
ハッと気が付くと、今まで知らない道を歩いていたことを知る。見えてきた馴染みのある景色に安堵がどっと押し寄せた。思わず、走り出す。

 早く、早く帰りたい。

「あ」

 気が急いて、思わず転んでしまった。膝を擦りむいたようで、その傷を見た瞬間ジリジリとした痛みを感じる。足を掬い取られたような感覚。

「転んだの?」
「え」
「転んだ? ねえ、転んだ?」

 そのジリジリとした痛みとともに、地の底から這いずり上がってくるような恐怖心に襲われる。ゆっくりと振り返る。そこには、赤く光る瞳、裂けた口、白い毛並み…さきほどまで一緒にいたあの人はどこにもいない。いるのは大きな大きな狼のような化け物。あまりの恐怖に声なんて出やしない。青い月に見下ろされ、静かな悲鳴が木霊する。





「たまちゃん先生、課題持ってきたよ〜」

 国語科準備室と書かれた部屋に入ってきた生徒は、持ってきたクラスメイト全員分の課題を適当な場所に置く。この部屋の主の返事はなく、生徒は部屋の中へと入っていく。

「たまちゃん先生〜?」

 暗い準備室の中央にデカデカと置かれたソファを覗き込むと、そこには目当ての人間がいた。

「も〜、先生。まーた授業ない時に寝てたら森チャンに怒られちゃうよ?」

 森チャンとは、二年生の学年主任である。モソモソと動き始めたソファの主は、「ん”〜〜〜〜」と唸りながら起き上がった。毛布に包まっていたオールバックはぐちゃぐちゃに崩れているが、男は気にもせずに頭を掻いている。質の良さそうな袴も、皺がはっきりとついていた。

「あ”〜〜? 須藤(スドウ)か…?」

「そうですよ! アンタが課題持ってこいっつーから持ってきたんだよ…」
あきれた顔をした生徒…須藤 成(スドウ ナリ)は溜息を吐く。男はその様子を気にすることもなく、服の内側に手を入れて腹を掻きながら立ち上がり、温かい緑茶を淹れ始めた。

「ご苦労ご苦労」
普段のオールバックはどこへ行ったのか、乱れた前髪からは真っ青な瞳が覗いていた。

「…じゃ俺授業あるんで…ちゃんとしてくださいよ? 玉得(タマエ)先生」

 国語科準備室では玉得と呼ばれた男が、ひとつあくびをする。時刻は、12時21分を指している。左の口角だけを上げた男がカーテンから覗く空を見上げると暗闇に浮かぶ月が白く光っていた。



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