帰りのホームルームが終わり、俺はいつもとは違う電車に乗っている。いつもは降りない駅で降り、助手席からは見慣れた道を歩いた。普段は車で来る場所だから駅から徒歩で向かうのはなんだか新鮮で、知らない場所みたいだ。
 「ヤマダ法律事務所」、そう書かれたビル。二階へと階段を上がっていくと、すぐに事務所の扉が見える。
 ノックを三回。事務所の中の空気が止まったような気がして、入るのをためらう。しかし今日ここに来たのは目的があって来たわけで、扉の前で止まっていても意味がない。

「失礼します」

 扉を開けると、目の前のデスクに座った山蛇がこちらを見ている。それも、少し驚いたような表情だ。思わぬ形で、この男の意表を突くことができたようで少し嬉しくなる。
 途端に厳しい表情を向けた山蛇さんに、やはり来てはいけなかったのかもしれない、と後悔が過る。しかし自分だってここに遊びに来た訳じゃないのだ。

「…俊平君、しばらく来なくていいって言ったよね?」
「来なくていい、とは言いましたけど、来てはいけないなんて言ってないじゃないですか」

 違う、別にそんな言い方をしたいわけじゃないのに。山蛇の顔がますます怖くなっていく。

「君は、『来てはいけない』と言わなければいけないほど子供だったか?」

 この男のことが嫌いなはずなのに、大っ嫌いなはずなのに、目の前の大人に「子供」と言われたことがこんなに傷つくなんて思わなかった。俺は山蛇に連れてこられないと、山蛇の目の前に現れてはいけないのか。この男は俺が嫌だと言っても、現れるのに。

「……アンタに、どうしてもお願いしたいことがあって、来たんです」

 山蛇の片眉が上がり、キーボードを叩いていた手が止まる。

「『あの施設に手を出すな、なんでもするから』と言った上に、さらに俺に頼みごとをするのか? 随分おねだり上手なようだ」
「施設の子供が、親に引き取られそうなんだ」
「それは実に良いことじゃないか。施設暮らしよりも、親の元で暮らした方がその子供のためだろう。それを何故、止める? 君のエゴではないのか」

 心臓が痛い。言葉の包丁が刺さった。

「…でも、その子たちは双子でとても仲が良いんです。なのに、引き取るのは片方だけって…そんなのあんまりじゃないか。ふたりは何も言わないけれど、行きたくないと泣いていた。俺には何もできない…でも、どうにかしてやりたくて」

 いつの間にか、山蛇の顔がすぐそこにあった。この男は本当に気配を消すのが上手い。

「『そんなのあんまりだ?』『どうにかしてやりたい?』…ハッ、君はいつからそんなに偉くなったんだ?」
「ちがっ」
「なにが違う? 随分傲慢な志を持っているようだ。この世はそんな甘いモンじゃない。どんなに現状に嘆き、『あんまりだ』と言っても現実は非情だ。君のような子供にできることはなにひとつないはずだろう。俺の手を借りて、ヒーロー気取りか?」

 何も言い返せない。俺はここで終わってしまうのか?俺の大事なものを傷つけることを知っているのに、なにもできないまま、指を咥えているだけなのか?

「…ッ、その双子の親の男の名前は『御園 圭吾(ミソノ ケイゴ)』。大手製薬会社の代表取締役社長。俺はこの男と紅月組が繋がっている証拠を持っている…! その意味がわかるだろ! アンタなら…!」

 山蛇はいつものようにその蛇のような瞳を細めず、真っ黒な目が俺を貫いた。


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