あんたなんかのために、ママもパパも馬鹿みたいね。
 如何にも酷薄な罵倒を口にする姉は、たった今蔑視を投げかけてやったばかりの弟へ食べかけのチョコレートを投げてよこす。「食べな」あんまりに素っ気ない口ぶりなので、リーマスは姉が自分のことを如何思っているのか分からなくなってしまうのだった。

 ごく幼いころから姉は“ユーモア”を好まない人だったし、記憶を漁ってみても退屈以外に思い出すものはない。どこかの誰かさんみたいに危険物を渡してくれるひとでないことは幼い頃からよくよく知っていた――しかしリーマスは手渡されたチョコレートの包みを暫し検分した。薄い銀紙とつるつるした包装誌の下にある溝を指でなぞる。破れた箇所から零れる甘さと同じものを感じた。チョコレート以外の何物でもない“それ”の包みを修行僧染みて厳かな面持ちで剥ぐ。頑なな顔のまま、むき出しになった塊を姉の歯型ごと頬張った。
「あまい」リーマスのあどけない眉間にしわが寄る。溶けたチョコレートが味来に絡んで話し辛かった。「ねばねばして、糊みたいだ」
 途切れ途切れの不満を口にすると、リーマスは上あごで舌を擦った。口の中でにちゃにちゃと粘ついて、嚥下されるのを拒んでいる。特別美味しくも不味くもない、マグルの町でも買えるだろう退屈な菓子だった。少なくとも大なべのなかの蛍光色がグツグツ言っているのを背に、肖像画が淑女について説くのを聞き流しながら食べるものではない。凡庸に甘いだけの固形物がリーマスの舌の上で崩れ、口腔内の水分全てを絡め取って喉の奥に落ちて行った。リーマスは唾液で喉を洗った。「ナマエ。そこのマグを取って」

 ナマエほどとまでは思わないが、リーマスも子供らしからぬところがあった。味雷が鈍かったのか、それとも“ガツンと喰らわされた”後遺症で全ての感覚が麻痺していたのかもしれない。同世代の子供達が甘味の虜となっていた頃、リーマスはストレートティーを好んでいた。甘いものが嫌いというわけではなかったが、チョコレート一枚に閉じ込められているだろう山盛りの砂糖は刺激が強すぎた。

「ナマエ……」リーマスは自分の要求を無視する姉を睨んでから、魔法の言葉を付け加えた。「お願いだから、マグを取ってよ」
 椅子へ後ろ向きに跨るナマエはチラと側方を伺っただけで、背もたれの上で組まれた指はぴくりとも動かなかった。応じる気もない癖、「うん」と相槌を打つ。ナマエは板張りの床に座り込み、自分に恨めしげな視線をくれる弟をじっと見下ろした。
「それ、何もかも持ってっちゃうみたいでしょう」
 紅茶と違って苦しくなるぐらいドロドロで、飲み下すのが面倒で、でもまた食べたくなるでしょ。姉の台詞を無視して、リーマスは手に残るチョコレートの破片――大部分――を見やった。自分の温度に負けて、少し柔らかくなっている。もう一度食べたいとは微塵も思わなかったし、姉の言う通りにするのも癪だったが、リーマスは自分の歯型の残るチョコレートを頬張った。甘い。
 ナマエは口端にチョコレートをつけた弟が咀嚼するのに目を細めると、何もかも見通すように口端を歪めた。「気持ちが悪くなると何も分からなくなる。私はそういうの好きだな」感情の見えない声で呟いた。そのままテーブルのほうへ振り向いたナマエが蓄音器を弄り始める。嵐の夜には隙間風が招かれるほど古びた家へドヴォルザークの「家路」が満ち、外界に溢れていった。
 食卓に肘をついたナマエはくるくると針に踊らされる盤面を眺めていた。背後にいるリーマスには姉の表情が見えないが、姉はリーマスがどんな顔をしているかお見通しで、リーマスが両親の間にある違和感を気にしているのも知っている。今朝リーマスが台所へ足を踏み入れると食卓にはトーストやジャムと一緒に薬学雑誌が並んでいて、奇怪な新聞で顔を覆う父親とコーヒーを啜る母親は互いに無言だった。長らく放置されきりだった薬学雑誌を手に取ったのは、持ち主の父親でも、増してや母親でもなく、欠伸をしながら椅子を引くナマエだった。ナマエは片手で器用にパラパラ捲ると、「わ、煽情的ぃ」と水着美女が声高に宣伝するページを両開きのまま戻した。胸を強調する際どいポーズでウインクを飛ばす魔女にリーマスは赤面した。勿論両親は一緒になってナマエを叱った。この子は本当に突拍子もないことをするんだから。それも前に一度叱られてることを何度も繰り返すんだ。娘を窘める台詞をブツクサ口にし合った後でようやっと“いつも通り”が始まった。リーマスはもう一口チョコレートを齧った。今思い出した何もかもが分からなくなる。
 ナマエが上体を捻ってリーマスを振り向いた。「ゲーって吐くならトイレね」それが何かの魅了呪文だったのか、リーマスはそれ以来甘味を好むようになった。姉の思惑にはめられたらしいこと、その思惑が見えないのは不服だったけれど、悪い気はしなかった。

 両親はナマエの口のきき方をたしなめるものの、リーマスは姉の乱暴な話し方が好きだった。どんなに酷い悪態を吐かれても、姉の声というそれだけで腹立たしく覚えることはなかった。きっと魅了呪文が使えるんだろう。
 盤面に針を乗せる手つき、からかうような声音や軽快な嫌味――それに自分を嘲笑って細められているのに優しささえ感じる瞳。リーマスにとってナマエの些細な仕草の何もかもが大人びて見えた。否“見えた”等ではなく、実際誰の目から見ても客観的事実として“その通り”だったのだと思う。ナマエは誰相手でも物おじせず話すことが出来たし、最初彼女を子供扱いして喋っていた大人達は最後の最後には同年代の友人へするようにナマエをからかい、そしてやり込められていくのだった。
 たった二歳違いなのに、ナマエは自分よりずっと多くのことが出来た。しかし両親がそれを認めて誉めるのは極稀なことだった。彼らは殆どの場合ナマエを「ませすぎている」と評したし、子供ぶろうとしない娘を何とか枠にはめようと努力していた。
 リーマスは一度母親が抑えた声で姉を叱っているのを聞いたことがある。ねえナマエ分かるでしょう? 私達はリーマスのことで手いっぱいなのよ。あの子は……ちょっと厄介なものを抱え込んでて、それですこーしだけ人と違う人生を送らなければならないわ。だからナマエ、貴女まで人と違っていては困るの。母親に両肩を掴まれたナマエは母親の腹のあたりを見ながら頷いた。
 母親は他人と違っていることを執拗に恐れる性質ではなかったが、彼女の家庭はあまりに親戚たちと違い過ぎたのだ。夫は魔法使いだったし、それに息子は狼人間だった。彼女が口やかましいマグルに会わせられるのは唯一娘だけだった。

 リーマスが母方の親戚について聞くと、ナマエは決まってチョコレートを齧りながら「くそつまんない人ら」と呟く。

 魔法省に務める魔法使いである父と証券会社に勤めるマグルの母がどこで出会ったのかは分からないが、リーマスも、ナマエも、自分達が生活習慣の食い違う二人の間に生まれたのだということは理解していた。玄関を使うのは母親とナマエだけだったし、暖炉を使うのは父親だけ。そして玄関も暖炉も使うことのないリーマスを中心にこの家は回っていた。
 勿論リーマスが生まれる前はそうではなかったし、ナマエが生まれて、そしてリーマスが生まれた時にもまだ民主主義は存在していた。議会が滅び王政が蘇ったのはリーマスが五歳の冬だ。掘り起こしたところで争いの火種にしかならないので詳細は黙しておくが、“それ”を切っ掛けにリーマスはこれからの人生を差別と不自由の内に沈んでいかねばならなくなった。罪悪感を覚えた父親は家に寄り付かなくなり、面責が趣味の一つになった母親は夫を名前で呼ばなくなった。一方姉はと言えば民主主義最後の夜も、聖マンゴから帰って来た時も変わりなく、定位置のダイニングチェアに掛けて蓄音器を弄っていた。丸い爪がドヴォルザークに合わせてコツコツと机を叩く。
 包帯だらけのリーマスがしゃがれ声で「何をしているの」と問うと、「あ……そ、生きてたんだ」と素っ気なく呟いた。その台詞が母親の怒りを買ったのは言うまでもない。両親からこっぴどく叱られたナマエはその晩納戸で眠りについた。
 可哀想な弟になんてことを言う姉でしょう――背を撫でる母親の興奮を受け流しながら、リーマスは姉の声が自分と同じにしゃがれていたのを両親に言うべきか言うまいか悩んだ。しかしきっとリーマスが真実を告げたところで姉は納戸から出てこなかっただろう。
 謝罪と憐れみの子守歌にまどろみながら、リーマスは暗く固い場所で眠りにつく姉のことを想った。自分を憐れまない姉のことを。

 可哀想なリーマス。耳にタコが出来るほど繰り返されたわけではないが、王政復古の最大の理由は“同情”だったのだと思う。

 フェンリールに噛まれて以来リーマスは月篭りを強いられるようになった。安全のため、一家は狼の破壊力に耐えうる“別荘”を買う必要があったし、そうでなくともこれから先真っ当な教育を受けられないだろう息子の将来のために貯金をしなければならなかった。
 父親は少しでも我が子の苦しみを減らすため多くの文献を漁り、息子のための知識を持っていない母親は残業を増やし、どちらも滅多に家へ戻らなくなった。子供二人が困らないだけの食糧と緊急時の連絡先だけを置いて、何度もこちらを振り返りつつ出て行く。幸いにしてナマエは聡明だったし、リーマスも聞きわけが良かったので、二人の長い留守番は口やかましく賢い肖像画の指図を受けるだけで問題なくやっていけた。尤も肖像画が如何に英知を誇ろうと、夫婦間の問題は如何しようもない。
 どんなに顔を突き合わせたくなかろうと、同じぐらい、否それ以上にリーマスに不和を悟られたくないのだ。夫妻は渋々週に二三度は朝食の席を同じくする。週に三度と仮定して、朝の一時間。月に十二時間あるかないかの逢瀬だ。リーマスの前では何とか以前の関係を取り繕ってみせるも、平和は長続きしない。父親は妻から逃げたくて堪らないし、母親は夫を責めたくて堪らない。両親から耳打ちされたナマエはいつも通りの無表情で頷くと、リーマスの手を引いて居間を出ていく。
「部屋で勉強しよ」

「ナマエ。僕、紅茶が飲みたい」リーマスはずるずると自分を引きずっていく姉の背に話しかけた。「勉強なんて嫌だ。どうせ、」
 どうせ僕はこの家から出られないんだから、ママもパパもナマエも僕を置いて出てっちゃえば良いじゃないか。もうはっきり言ったら良い、こんな生活嫌なんだって、ママもパパも「もう貴方の親でいるのは疲れちゃった」って言えば良いじゃないか。泣きたい気持ちがナマエに握られた手首に引っ張られていく。ナマエが子供部屋の扉を足で蹴って開けると、リーマスをベッドに押し込んだ。ばふっと毛布に覆われる。「ぎゃーぎゃーうっさいな……」真っ暗闇の向こうから珍しくも苛立たしげな声が聞こえた。
 ギッと、ナマエの重みにスプリングがたわむ。「私がいなくて、あんた如何するの?」母親が父親を詰る声そっくりだった。
「あんた一人でごはん食べられるの? 誰があんたに勉強教えんの? 誰を理由にぎゃーすか喚くの?」
 喚いてなんかない。そう言おうと思ったけど、リーマスは唇を噛んで俯いた。泣いたってどうせナマエには見えないとは分かっていたものの、ナマエのことだから毛布を何百枚引っ被っていたって何もかも見通されてしまうに決まっている。そうやって堪えていると、ぐっと毛布を引っ張られた。ナマエが丸まっていた毛布を広げた瞬間僅かに光が射したが、ぱっと消えてしまう。吐きだした息が布目を抜けることなく溶けていった。目の前に誰かいる。「なに、泣いてんの」暗さに慣れた目が間近にあるナマエの顔を捉えた。
「な、ないてない」リーマスはそっぽを向いて目じりをこすった。乾いた目元が僅かに熱を孕んで痛くなった。「目がみえないんだ」
 リーマスの誤魔化しをナマエが鼻で笑った。「そりゃ外と同じようには見えないでしょうよ」流石のナマエもリーマスの頬が赤くなったのには気付けなかったらしい。皮肉や嫌みの代わりに冷たい指がリーマスの頬を撫でた。爪が耳を掠める。
「何も見えないし、何も聞こえないでしょ」

 本当は両親の言い争う声が遠くに聞こえる。それに、薄闇にぼやけた視界で姉が泣いてるのも見えた。

 ナマエが身じろぎして、台所のほうを見やる。毛布に覆われて何も見えない。声だけが聞こえる。珍しく父親が語気を強めていた。新薬がどうのこうの喋っている。母親は、今まで何人のお医者様が匙を投げたと言うのと泣いている。リーマスの話だ。魔法なんて嘘っぱち、私達の可愛いリーマスさえ救ってくれない。また、リーマスのことで喧嘩している。いつだってそうだ。リーマスがいるから喧嘩が起こる。自分が死んでしまったら、きっと両親は出掛ける前にキスをするだろうし、母親は在宅の仕事を増やして、利口な娘の成長を気に留めるだろう。父親は姉が子供ぶらないのを叱らず、自分が姉を大人扱いしているだけだと気づくだろう。ナマエはごくりと唾を飲みこむと、リーマスの腕を強く握った。「私がいなくて、あんた、どうするの」先ほどと違い、姉の声は弱弱しく震えていた。
 私がいなきゃ困るでしょと、そう言う姉のほうがリーマスに縋りついて泣いていた。魔法みたいに、姉の声しか聞こえない。
「口の中のチョコレートと同じ。あとはもう呑みこまれて、全部なくなるのを待つだけだよ」ナマエの声が引きつる。「何もないどん底の世界だから、これ以上何も怖くないし、何にも傷つけられないでしょ。私達もそれと一緒」一緒だよ、リーマス。これ以上何がどうなるって言うの。ナマエの囁き声に、リーマスの喉がうっと引き攣った。目頭が熱くなって、じわじわと涙が溢れてくる。
「泣いてんだ」ふっと、鼻のあたりでナマエの笑う気配がした。「馬鹿だね、あんたは」頬を伝う涙を甘い温もりが絡めとる。
「あんたが出てくまで、私もここから出てかない」
 温もりが唇に落ちた。

 だから早くどっか行っちゃってよ。リーマスのファーストキスを奪ったその口が素っ気ないことを言う。バサっと毛布をはねのけたナマエの頬にはもう涙の跡はなかったし、いつも通り何を考えているのか分からない無表情で一人泣いているリーマスを小馬鹿にしてくれた。世界は何もかもが元通りで、変わったことと言えば両親の争う声が止んでいることだけだった。
「あんたが思ってるほど世界はあんたのもんじゃないんだよ」ナマエはリーマスの本棚からいつかの薬学雑誌を引き出した。パラパラとページを捲るナマエは、今度は馬鹿げた広告を見せびらかしたりしなかった。「……週末、またお医者さんに行くと思うよ。そしたら、今度こそ万国お医者巡りは終わりだ」それからの何もかもが勉強机に寄り掛かるナマエの予言通りに進んだ。

 リーマスの医者巡礼が終わると一家は別荘を手離して、代わりに庭にリーマスのための小さな物置を建てた。ダモクレス教授は「まだ完全ではない」と言ったが、脱狼薬は殆ど完全に一家を宥めてくれた。狼人間に好意的な研究を進める教授と親しくなったことで母親はリーマスの問題を過剰に恐れなくなったし、父親にも妻の仕事を減らす程度の理性が戻ってきた。リーマスを抱いて喜びに咽び泣く母親と、そんな妻の背を撫でる父親。その傍らで、ナマエは「私にもコレ作れる?」とダモクレス教授を問いただしていた。
 ダモクレス教授は姉を叱りたそうな父親を制し、「将来有望なお嬢さんだ」と哄笑した。

 きっと良い研究者になる――しかし二年遅れで届いた手紙の宛先に記されていたのは、魔法薬学に関心を示した姉の名ではなかった。

「行かないって、ママとパパに言ってよ」
 手紙の騒ぎが静まってから数日後、ようやっといつも通りに戻った家の中で、リーマスはいつも通りを崩さない姉にそう取りすがった。「僕――僕、行けない」ウンウン言いながらレポートを書いていたナマエがぽかんとリーマスを見上げる。「はあ?」椅子に座っていることを差し引いても、数年前から二人の背の順は入れ替わっていた。人狼化する度に自分の体を傷つけるため肉付きは悪いが、それでもナマエよりかは筋肉もついている。すっかり大きくなった弟がボソボソと懇願してくるのに、ナマエは顔を歪めた。
「あんた、馬鹿?」ボールペンでリーマスの顔を指す。「何? 学費? 友達が出来るか? 勉強についてけるか?」
 どうせそんなところだろうとナマエが鼻を鳴らした。図星だ。
「学費はママとパパが如何にかしたがってるし、できなくても奨学金があるって言ってた。聞いてなかったの?」
「聞いてたけど……」返事が舌の上でもたつく。「でも、今よりずっとお金が掛かる」
「友達なんて出来なくても死なない」ナマエはリーマスの訴えを無視した。「勉強に至っては、なに、私のせいで授業についてけないかもってこと?」リーマスは一歩後退して頭を振った。さっきまで自分の鼻があったところをペン先が貫いている。「魔法史も魔法薬学も、暗記もんは教えてやったでしょ。第一不安なら予習しておきゃ良いじゃない。そんなことも思い付かないぐらい馬鹿なの」
 ナマエはそう捲し立てると、授業で配布されたと思しきレジュメを読み始めた。「あんたも勉強したら」もし――ナマエがこの調子では“殆ど確実に”と言うべきだろうが――本当にホグワーツへ行くとなれば、七年間殆ど離れて暮らすことになる。十一年間ずっと過ごした我が家に、ずっと自分の面倒を見てくれたナマエ。それを置いていくのは残酷なことのように思った。
「……ナマエはさ」俯いている横顔は見慣れた無表情だ。リーマスは肩を竦めた。「ナマエは、僕が行っちゃって良いの」
 私がいなくて、あんた、どうするの。そう言ったのは姉ではなかったのか。泣きながら身を震わせていた姉が、貧乏ゆすりで身を震わせる。「そんな馬鹿言ってる暇があるんならこれで社交術でも勉強してな」ナマエは机上の本棚の一冊をリーマスに投げつけた。
「友達と遊ぶのも我慢して勉強見てやったのに――あんたは本当に」リーマスは大慌てで部屋を出た。後ろ手に閉めた扉で姉の説教を閉じ込める。長いため息を絞り出してから、一歩踏み出した。まだ姉の愚痴がくぐもって聞こえてくる。
 リーマスは姉にぶつけられた本を顔の前にかざした。「友達を増やす方法の決定版」と書かれたその本はまるきり新品だった。「人と話す時は目を見て」だの「悪口はやめよう」なんて、役に立つんだか立たないんだか微妙な情報に目を通しながら、リーマスはもう一度ため息をついた。入学許可証なんて来なければ良かったのに……さもなくばナマエもホグワーツへ行けたら良かった。
 そこまで考えてリーマスは頭を振った。
 余所の兄弟事情がどのようなものかは知らないが、それにしたって自分はナマエに依存し過ぎている。
 小さな頃から母親や教師としての役割も務め、それで苦にもしていない風を装うからズルズルと甘えてしまう。

 リーマスにはホグワーツへ行くか、一生この家に暮らし続けるかの二択しかない。
 ナマエのように、外部と適度に関わりつつ家へ残るというのは無理なのだ。勿論ホグワーツへ行ったとて夏季休暇には戻ってくるし、クリスマスとイースターにも帰宅出来る。しかし学校生活の如何に関わらず、夏季休暇以外に帰宅を望むことはないだろう。
 何事にも動じない風を装う姉の胸の内が如何に脆いか、リーマスは知っている。弱さを恥じる姉は、崩れるか否かのラインで踏ん張りながら生きている。枕に突っ伏したまま声を殺して泣く姉の肩はあまりに小さすぎたし、括った髪はあまりに長すぎる。
 九月から三ヵ月、もしくは九か月余りを離れて暮らして、次の夏に帰って来た時、姉がどれほど少女らしくなっているだろう。

 リーマスはファーストキスの相手をまだ覚えている。そうしたら、やはり自分達は離れたほうが良いのだ。

『あんたが出てくまで、私もここから出てかない』
 リーマスはポケットから取り出したチョコレートの包装を解いて、一口齧った。
 口腔内に広がる甘さが何もかもを絡め取って落ちていく。あの口づけも、姉の泣き顔も、自分の気持ちも、何もかも拭い去っていく。気のせいなのだと、リーマスは言い聞かせた。全部夢だった。きっとホグワーツでの生活が、この思い込みを真実に変えてくれるに違いない。そうなることを願い、リーマスは狭い通路を遠ざかって行った。姉の留まる部屋から離れて行った。
家路のうた
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