君だけが僕の特別だよ。
幼子に似つかわしくない、血色の悪い唇がナマエの耳朶に囁きかける。君だけが特別だよ。リドルは念を押すように、繰り返し口にする。ナマエは兄の腕のなかでクスクス笑うだけで、己の背にぴたりと寄り添う胸中にどんな感情が蠢いているかなど、考えたこともなかった。母も父もなく、物心つく前からずっとナマエにはリドルだけだった。自分だけがリドルの特別なのだと言う優越感こそが彼女の自我で、それ故にリドルの口にする“特別”がどのような類のものなのか考える必要もないように思っていた。
人を寄せ付けようとしない少年が自分だけを求めている。何もかもが沈んでしまうほど深い闇色の瞳に、自分の影だけが残っている。誰にも触れようとしない指が、自分の皮膚だけを探している。誰に優しい言葉を掛けることもない唇が自分という熱にだけ触れる。
その全てが――少年特有のごく薄い胸を探るまでもなく、ナマエを安堵させた。
幼い頃を振り返れば、脳裏に映画のフィルムのように彩度の低い世界が蘇る。
モノトーンで色味の全くない、息が詰まりそうに四角四面の建物。そこに暮らす人も物も、よくよく目を凝らしてみれば石鹸で落としきれない薄い染みが残っている。布地の荒いグレーのチュニックを着た時は、絶対に庭へ降りることはなかった。慈善箱から割り振られた私服にしたって当然のように草臥れていたけれど、“普通の家の子”には見えないこともない。ナマエが“ホグワーツへ入学して良かった”と思ったことは、新品の制服を着られたことだった。酷くささやかな喜びを聞かされたリドルは、呆れたように「他にもっとマトモなことはないのかい」と呟いた。兄のため息に慣らされているナマエは、「特に何もないわ」等と小首をかしげて見せる。双子の兄は自分のあげ足を取らないではいられないのだと、彼女はちゃんと知っていた――自分がリドル以外の何物も欲していないことをも。
余所余所しいヘルパー、素っ気ない教師、底意地の悪い年上の子どもたち、癇癪を起し放題起こす年下の子供たち……可笑しな言いがかりをつけられたり、理不尽な叱責を食らうこともあったけれど、それでもナマエは自分を不幸だと思うことなく育った。
勿論、先のチュニックの件のように、多少なり不満に思うことはあった。ナマエの感性はごく一般の少女達に近い。可愛いものは好きだし、見っともない恰好をさせられるのは嫌だ。髪を結ぶためのレースのリボンが欲しい。蓋に鳥の絵が描かれた空き缶を貰うと嬉しい。髪を梳いてくれる母親も、お菓子を買ってきてくれる父親も要らない。ヘルパーに優しくされなくて良い。教師に期待されなくて良い。子供たちと仲良く出来なくて良い。トムさえいれば良い。トムが優しくしてくれれば良い。トム以外のひとは如何でも良い。
トムだけが私を見ていて、私と一緒にいてくれるなら、誰も要らない。ロンドンの町に、孤児院の食堂に、ホグワーツの回廊に、大広間に、教室に――有象無象が幾らひしめいても、私にとって世界にトムと二人きりなのと同じ。
僕だけが君の特別だよ。トムが囁きかける。
リドルが自分を特別だと言ってくれるのと同じに、ナマエにとってもリドルは特別だった。ナマエは、リドルから注がれる言葉に全身全霊で応えていた。物心ついた時にはもうナマエの世界は“たった一人”だけで、彼女は彼以外の何にも関心を示すことが出来なかった。好きだった。彼だけが好きだった。彼以外の人間に関心が持てない。彼の隣は自分だけのものだと思っていた。リドルを愛していた。リドルだけが自分の特別だった。リドルが自分以外の特別を見つけるのが許せなかった。ナマエのなかにあるのは、それだけだった。
ナマエにはリドルしかいなかった。“特別”という、それ以上のものを求めたつもりはなかった。
女の子たちへ見せつけるようにリドルの手を引く、人目も構わずその腕に抱きつく。あの頃の方が、余程救いがあったような気がする。
水気を含んだ空気が蝋燭の明かりに湿度を増していく。部屋の端ではピチャリ、ピチャリ、雨の漏る音が床板を叩いていた。
明かり一筋漏れないように下ろした雨戸の向こうからは、通りを往く男たちの低い声が聞こえてくる。酒気を帯びた罵りを音ではなく台詞として捉えると、ナマエは身を捩った。窓があるはずの壁を眺めながら、外界に意識を飛ばす。この激しい雨のなか、よくも表に出ていられるものだ。それとも雨脚が弱まったのだろうか……僅かな不安に駆られたナマエは、上体を浮かせようとした。
「消音魔法は掛けてあるよ」片割れの背を寝台に押し戻すと、リドルはため息をついた。「君は杞憂に悩まされるのが好きだね」
吸い込まれそうに黒い瞳を見上げたナマエは、長い吐息を棚引かす。
「そんなんじゃあないわ……あんまりに雨音が激しいから、」
短く切り揃えられた黒髪が頬を撫でていくと同時に、冷たい唇が落ちてきた。ジンと、体温が吸い取られるような口付けが数度繰り返される。リドルは首の隙間から差し込んだ手でナマエの頭を浮かすと、深く口付けた。眉を寄せたナマエがリドルの胸を押し返す。リドルが顔を離すと、ナマエは思い切り肺を膨らませた。キスの時は鼻で呼吸してろと言われても、不意をつかれると息を止めてしまう。
大きく息を吸うナマエに、リドルは目を細めてクスクス笑った。
「いい加減慣れたら?」
視界を狭める髪を耳にかけると、リドルは悪戯っぽく、ナマエの唇にリップ音を立てて口づける。
ナマエは難しい顔のままリドルを見つめていたが、やおら身を浮かせて、自分からリドルの唇に己のものを重ねた。触れるだけで離すと、脇についた肘を倒す。「別に……急だったから、驚いただけよ」ふいとそっぽを向いた。
謝罪代わりに頭を撫でるリドルの瞳に、蝋燭の明かりとは違う赤が過ぎった。
「そうだね、全世界に宣言してから事に起こすべきだった」
過剰なまでに申し訳なさ気な声音を紡ぐリドルに、ナマエの眉間が寄せられる。クッと、リドルの喉が鳴った。
ナマエが防音魔法の精度を疑うのは、情事の声を他人に聞かす趣味がないからという、それだけの理由が全てではない。仮にも血の繋がった兄妹でありながら、他人に言えないような行為に耽っている――その事を他人に知られたくないからだ。
リドル以外の人間と深い関わりを持っていないナマエではあったが、だからと言って体面を気にしないでいられるはずもない。双子の兄とキスをすることには慣れても、この“軟禁生活”に慣れるにはまだまだ時間が掛かるだろう。
「君が驚かないで済むよう、アブラクサスにでも梟便を飛ばしてこようか?」
「トムが飛ばしたいなら、好きにしたら良いわ」ナマエは呆れきったため息を漏らしてから、伸ばした両腕でリドルの頭を抱え込んだ。近くまで引き寄せた顔に口付ける。「言っておきますけど、私が掃除上手だと思っているなら大きな間違いよ」
半年前にリドルが下ろして以来開けられたことのない雨戸へ視線を走らせながら、ナマエはリドルの口付けを受け入れた。
屋根を叩く雨。壁を軋ませる風。雨音だけが、外に出ることのないナマエに外界の存在を思い出せる。
日光から閉ざされた暮らしをしていると体内時計が狂うと言うが、実際この部屋で三日を過ごしたあたりからナマエの生活リズムは壊れだした。数十分から一時間の浅い眠りを繰り返すことと、外部刺激を受けないせいで、たった一日が何十時間もあるように感じる。それでも最初の頃は逐一時計やカレンダーを確かめていたが、今や文字盤を確かめるのも、翌月のページを捲るのもリドルだけだ。
ナマエには、自分がホグワーツを卒業してから半年しか過ぎていないようには思えなかった。あの賑々しい学び舎に別れを告げてから、何年も経ったような気がする。そう振り返る度、ナマエは自分の気持ちが分からなくなる。ざわざわと姦しい喧騒を耳朶に蘇らせると、懐古とは程遠い“何か”が湧きあがる。一度は恋人同士だったこともある、アブラクサス・マルフォイの面影を探してみても、それは変わらない。
自分の胸奥に浮かぶ感情を何と呼ぶか思い出した途端、ナマエはそれを記憶の水底に沈める。
『君が驚かないで済むよう、アブラクサスにでも梟便を飛ばしてこようか?』
これまでにも、幾度か似たような言葉を掛けられることがあった。アブラクサスが懐かしいかとか、アブラクサスが君の様子を聞いてくるよとか、アブラクサスが婚約したようだとか――ナマエがアブラクサスと付き合ったのは、実兄に対する恋慕を忘れるためだったとは疾うに伝えてある。腐っても双子で、十数年を共に過ごしてきた。ナマエの言葉の真偽が分からないはずもあるまい。
ナマエにとって、アブラクサスは代用品だった。リドルと一緒にいられなくて寂しかったから、“試しに使ってみた”に過ぎない。
アブラクサスはハンサムだったし、成績も良かった。女あしらいも上手かった。整った顔もその賢さもリドルを想起させるだけで、アブラクサス自身に恋情を抱くことはなかった。尤も恋人同士であった頃は情に近いものを感じていたし、ナマエは所謂“貞操観念の高い女”ではない。「欲を言えばトムに触れたい、トムとキスしたい」という思いは常にあったが、「トム以外には触れたくない、トムじゃない人とは絶対にキスしたくない」とか、そう言う風に思うことはなかった。ナマエにとって“本命の存在”は、その身持ちを固くする理由になりえない。
恋人同士という名目上、ナマエはアブラクサスの求めに応じて何度か口付けを交わした。極めて業務的なものだ。恋情どころかちょっとの浮気心さえない、ビジネスライクなキスだった。それに加えて、リドルと「トム以外の人とはキスしないわ」と約束していたわけでもない。リドルの望む通り、この部屋から一歩だって出ていない。アブラクサスとは、彼が卒業して以来会っていない。増して婚約したと言うのなら、アブラクサスも昔付き合った女のことなどすっかり忘れてしまっているだろう。リドルの機嫌を損ねる、もしくは嫉妬されるに値する事象が発生していない以上、何故アブラクサスの話題を持ち出されるのかナマエには皆目見当もつかない。
人を寄せ付けようとしない少年が自分だけを求めている。何もかもが沈んでしまうほど深い闇色の瞳に、自分の影だけが残っている。誰にも触れようとしない指が、自分の皮膚だけを探している。誰に優しい言葉を掛けることもない唇が、自分という熱にだけ触れる。
自分を安らがす“拒絶”の裏で、兄がどんな不安を飼っているかなど、考えたこともなかった。
「……さっきから、何を考えてるんだい」
低い囁きが首筋にかかる。こそばゆさに肩を竦めながら、ナマエは頭を振った。「トムから嫉妬されたこと、ないなあって、考えていたの」嘘ではないが、本当のことでもない。リドルは「ふうん」と、関心の薄い相槌を漏らしてから、ナマエの耳殻を噛んだ。生ぬるい舌が首筋に這わされる。つぅ……と、鎖骨まで滑っていく感覚にナマエの体がぴくりと身じろぎした。
身を起こしたリドルは、不快極まりない面持ちで鼻を鳴らした。
「嫉妬ぐらい、するよ。君が僕のものだって理解しない輩は少なくないからね」
実の兄妹なのだから、他人に理解されないのは当たり前だ。ナマエはきょとんと、リドルを見上げた。
「……祝福されたいの?」
「それ以外何も思いつかないなら、そう思っていれば良い」
そりゃ、荘厳なチャペルに詰めかける友人知人、恩師たちに祝福されながら神父様の前で永遠の愛を誓う……そんなことを望む人でないことは、そのぐらいは分かる。分かってたけど、それ以外何も思いつかなかったから念のため確認したに過ぎない。ナマエは恨めし気にリドルを睨んだが、しかしリドルはため息を長くそよがすばかりで、察しの悪い妹に手取り足取り教えてやる気はないようだ。
意地が悪いと思わないでもないけれど、完璧な嘘で騙されるよりは良いのかもしれない。ナマエもフンと鼻を鳴らした。
目の色も髪の色も、自分と違いすぎる片割れ。いつからか、リドルが何を考えているのか欠片も知らないことに気付いてしまった。
子供の頃はリドルの胸中に転がっているもので、自分の知らないものはないと思っていた。
リドルの方が自分を必要としていて、自分なしでは生きていくことが出来ないのだと信じていた。トムが私を好きで好きで堪らないってこととか、私がいなければ生きていけないこと、本当に何でも知ってるのよ。その過信を口にすることへ、ちょっとの躊躇いも持たなかった。 トムが私の手を握り返す。握り潰そうとしているかのようにきつく握る。優越感に肩を揺らして笑う私の額に掛かる髪を掻き揚げて、リドルが幼い口付けを落とす。そうだね、それが君の全てだ。何故、双子の兄が不意に見せる拒絶と、他人への優しさを結びつけなかったのか分からない。絶えず口にする「君だけが僕の特別だよ」という言葉の重さが分からなかった。
如何しようもない気持ちに打たれて、ナマエはリドルにキスをせがむ。最早リドルが何を考えているかより、自分だけが彼の“特別”だという事実さえ分かれば良いと、二人共に思っていた。リドルは縋るようにナマエを掻き抱いた。
人を寄せ付けようとしない少年が自分だけを求めている。何もかもが沈んでしまうほど深い闇色の瞳に、自分の影だけが残っている。誰にも触れようとしない指が、自分の皮膚だけを探している。誰に優しい言葉を掛けることもない唇が、自分という熱にだけ触れる。
自分を安らがす“拒絶”の裏で、兄がどんな不安を飼っているかなど、考えたこともなかった。
冷たい唇が鎖骨の下に赤い痕を散らす。節ばった指が釦を外して、竦んだ肩を押さえつける。黒い瞳にチラチラと、肌の白さが映り込む。「君だけだよ」と、熱っぽい声がシュミーズに覆われた胸の上でくぐもる。ナマエはリドルの頭を撫でた。
額に掛かる髪をかきあげた指を、こけた頬へと滑らせる。
「私も、貴方だけよ」
こうしてリドルと臥所を共にするのは初めてのことではない。それなのに、何故なのか泣きそうになった。
外で降りしきる雨の、心細い寒さが孤児院を思い出させるからかもしれない。
もうナマエは子供ではない。リドルが自分なしで生きていけないとは、自分がいなくちゃ駄目だなんて、そんなのは嘘だ。リドルは一人で十分やっていける。リドルなしで生きていけないのは、ナマエのほうだ。昔からそうだった。
昔から、リドルがいなくて困るのも、リドルがいないと駄目なのもナマエだった。そうと分かっていて、それなのに、またリドルが自分のいない世界に出ていくのだと思うと堪らなくなる。愚かを承知で、この人は私がいなければ駄目になってしまうと自惚れる。
自分達は、リドルはこれ以上歪みようがないと自覚していて――それでも、まだ愛されたい。
「私には、トムだけよ」ナマエは喘ぐように言葉を続けた。「トムだけで良いわ。私には、トムだけで良いの」
皮肉っぽく微笑したリドルが、ナマエの額へ口付けた。下ろした唇で、青灰の瞳から今にも零れそうな涙を舐め取る。
「……そうだね、僕だけだ」
ナマエの脇に肘をついたリドルの声に、シュミーズの薄い布地が湿る。
リドルの吐息を間近に感じたナマエは僅かに顔を赤らめた。
まだ触られてもいないのに、胸の頂きが薄いシュミーズを持ち上げているのが恥ずかしい。ナマエは下ろした手で口元を隠した。リドルから与えられた快感を覚えている体が、見っともなく期待に溢れている。両足の付け根がじんわり疼いた。
もじもじと、太ももの内側を擦り合わせるナマエにリドルは薄く微笑う。羞恥心から眉を吊り上げたナマエだったが、文句を言って誤魔化すことは叶わなかった。弧を描いたままの唇がシュミーズの生地ごと乳首を啄んで、甘噛みする。
「も、トム……ば、」
馬鹿。知らない。もう止める。貞操観念は低くても、羞恥心は人並みだ。文句を言うタイミングを見計らって、敏感なところを齧られたのも腹立たしい。耳まで真っ赤になったナマエは両手で顔を覆い隠した。一度嬌声を漏らしてしまえば、唇が緩くなる。
舌で舐めあげられる度に、ザラザラと荒い布目が乳首を擦る。
「や、いっ……ん……ぅ……いっ、ぁ……」
一旦中止。ちょっと止めましょう。そう口にしようにも、言葉にならない。ナマエは唇を噛んで、媚声を口腔内に留めようとした。
大体にして、ナマエの懇願がリドルに伝わったとしても従って貰えるか分からない。少なくとも「分かった。十分の小休止をいれよう」などと建設的な提案を出して貰ったことは一度だってなかった。努力の末「一旦止めて」と申し出ることに成功した結果、両手を頭上で拘束されたのは先週のことだ。声が涸れるほど辱められたことを、ナマエはまだ覚えていた。
こちらの人権を踏みにじる強引な仕打ちは、双子の兄というそれだけで許してしまってはならないだろう。苛立つ。腹立たしい。怒りで我を保とうとしても、耐えず胸を責められると堪らない気持ちになる。水気を帯びた乳首をジュッと音を立てて吸われた瞬間、ナマエはぎゅっと目を瞑った。細かな繊維が乳首に絡みついているようで、微弱な快感に欲が深くなる。そのもどかさに、理性が揺らぐ。
ナマエはリドルの頭を抱き寄せて、その髪を指で梳いた。如何しようもなく、愛しい。体の奥から、激しい感情が湧きあがる。会ったこともない母親や父親への感謝に、胸が打ち震える。リドルと一緒に産んでくれて有難う。自分たちを引き取ろう等と思いつかないでくれて、有難う。自分たちに何も与えないでくれて有難う。死んでくれて有難う。リドルに殺されてくれて、本当に有難う。
リドルに触れられる度に、自分の体が悦んでいるのが分かる。リドルの低い体温が自分の皮膚に触れて温まっていくことが嬉しい。リドルに組み敷かれる。リドルに口付けられる。リドルの愛撫を受ける。恋人同士のようだと、思った。
自分を愛撫するリドルの顔が曇り始めているのも、自分に向けられる顔さえ穏やかなら構わないと思った。脳裏に過ぎった身勝手さが薄ら恐ろしくて、ナマエはリドルの名前を繰り返し呼んだ。自分だけが呼べる名前。世界にたった一人だけの、ナマエの“トム”。
ナマエの声に応えて、リドルが顔をあげた。ナマエに引き寄せられるより早く、あやすようなキスを降らせる。
「……昔から、不安になると僕を呼ぶね」
ナマエはリドルの首に腕を回して抱き着いた。リドルは僅かに口端を持ち上げると、ナマエを自分から剥がすように押し倒した。
「トムと、一緒が良い」潤んだ瞳がリドルを映して、切なげに揺れる。「トムと、トムに……トムにもっと触って欲しいの」
左右の手がリドルの両頬に触れて、その輪郭を撫ぜた。ひゅっと、細い首が息を呑んで鳴る。
「綺麗な石も……レースのついたリボンも、コマドリの缶カラもあげるから……一緒にいて、離さないで」
堪えるような間を置いてから続けられた求愛に、リドルは言い知れない罪悪感と歓び――嫌悪感を胸に湧かせた。
言葉が出ない。何も言えない。口を開いたら、この妹を傷つけてしまいそうで、何も言いたくない。自分に嫌われまいと媚びる言動が、いとしい。離したくない。誰にも渡したくない。この娘がいなくなったら、きっと後悔する。自分でない男に向けて幸福そうに微笑うなら、殺してしまったほうがずっと良い。この娘の世界が自分だけに終始しているのが堪らなく嬉しい。あいしている。あいしている。
軽蔑しないで、嫌わないで、離れていかないで、傍にいて――僕だけを見てくれ。ナマエはその全てに応えてくれた。
望み続けた愛を手に入れた幸福で満ち足りて然るべきなのに、頭の隅で燻る違和感を消しきれない。こんな風にしたかったんじゃない。こんな風にあいされたかったわけじゃない。こんな風に縋らせたかったわけじゃない。こんな風に、
馬鹿みたいに騙しやすくて、何も知らなかった妹。少女らしい傲慢と自信に満ち溢れて、リドルの愛を疑おうともしなかった。
リドルに人間らしい感情が備わっていると、有り触れた未来が広がっていると信じていた。そのまやかしのなかで、幸福になれると信じていた。一生、この妹が傷つかないよう、幼稚な幻のなかで微笑っていられるよう、彼女のための箱庭を作ろうと思っていた。
愛を乞うナマエが、自分の影のなかで泣いている。その華奢な体が消え失せてしまいそうで、リドルはナマエの胸に顔を埋めた。自分はナマエをあいしている。ナマエも自分を愛している。離れたくないと口にする。リドルの全てを知ってしまっても、共にいると誓っている。
扉の向こうの何もかもを忘れて、この娘に溺れてしまいたい。
「愛して……る」嗚咽交じりの響きが、愛を紡ぐ。「愛してるわ……愛してる、愛してるの……トムだけよ。貴方だけを愛してるわ」
リドルは何か言いたげにナマエの瞳を見つめ返したが、終に陰りのある笑みを浮かべるだけだった。白い肌を吸って、花弁を散らす。ナマエもリドルから視線を逸らして、暗い天井を見上げた。ふっと脳裏に過ぎった疑問を忘れるように、リドルの体に触れる。冷たかった。
皮膚に移った熱が瞬く間に冷めていく。まるで、リドルのなかにある自分への感情を物語っているようだと思った。
ゆるゆるとリドルの指先や舌先で膨らされていく快感に、ナマエの思考が白む。
何も考えたくない。ナマエはリドルのうなじを撫でた。肩に回した手を下ろして、リドルのシャツのボタンを外す。リドルの愛撫を邪魔しないよう、たどたどしい手つきでシャツを剥いだ。リドルの頭に顔を埋めて、口付ける。愛してる。愛してる。もっと、
「もっと……気持ちよく、して……」
「……可愛いね、ナマエは」リドルはシュミーズをたくし上げると、可哀想なほど硬くなった乳首をペロリと舐め上げた。ナマエが悩ましげに眉を寄せて、唇を引き結ぶ。花弁の数がまた一つ増えた。「君は僕のものだよ。君だけが……僕も、君だけが好きだよ」
黒い髪に、涙が一滴零れ落ちる。リドルのつむじに頬を寄せたナマエは、静かに泣いた。幸福すぎて、怖くなる。今、この瞬間に死んでしまいたい。快感と歓喜、苦痛の狭間で、ナマエは強く思った。救われなくて良い。
誰も私たちを救わないで、触らないで。リドルの隣にいられるなら、その指で触れて貰えるなら、私は誰にも救われたくない。
鉛が括られたように重い肺。今にも千切れそうな吐息、頭蓋に熱がこもる。
リドルの指が剥き出しになった乳首を摘まんで、芯でも探すように捻りあげた。「あ、ゃ……」肩を大きく震わせたナマエは、切ない声を漏らす。腰がひくりと弾んだ。「きもち、いい……」
潤んだ瞳のなかで、何もかもがぐずぐずに溶けていく。ジンと、痒いような感覚が花芯に溜まる。しどけなく濡れた媚肉は、リドルの細い指に焦がれて、痛いほど疼いていた。火照る体と裏腹に――それでも、醒めることも出来ず、ナマエは目を閉じた。リドルの背に手を這わせて、縋りつく。子供の頃のことを繰り返し脳裏に蘇らせて、リドル以外の何も考えられないと胸中に嘯いてみせる。
ナマエの献身を知ってか知らずか、リドルはクスリと満足そうに頬を緩めた。
「……良い子だ」リップ音を立てて離れていく唇は普段より熱かった。「君だけが僕の特別だよ」
リドルの囁きが皮膚を湿らす。肺を押しつぶすような怯えを胸に感じながら、如何しようもなく悦んでしまう自分を偽れない。死にたくない。リドルとずっと一緒にいたい。自分以外の女が、リドルに惹かれながらも決して愛されないことを思うと滑稽でさえある。リドルは自分以外の何も必要としていない。知ってる。リドルが必要とする人間は自分だけだ。その事実が無性に虚しい。
胸の尖りを摘まんだままの指が、すっかり色づいた乳頭を爪で弾く。リドルの愛撫にはしたなく零れる嬌声が遠く聞こえる。夢をみているようだと、思った。リドルの背に爪を立ててしがみ付いても、その引力は変わらない。視界に映る世界が、鼓膜を掠める音が、何もかもが微睡みに呑まれていく。五感の全てが体の内側へと沈んでいくように感じた。
夢をみているようだと、思った。この世界に生まれ落ちたところから夢だったら良いと、そう思った。
萎縮しきった肺が埃っぽい空気で膨らむ。湿って貼りついた衣服が、気持ち悪い。ナマエは上体を起こして辺りを見回そうとしたが、まるで自分の体でないように上手く動かせなかった。指先をピクリと動かすだけで、どっと疲れてしまう。苦しい。頭が熱い。腹のなかに何も詰まっていないように、水か食べ物、もしくは空気でも貪欲に欲しがっている。ナマエはハッハッと浅い息を繰り返した。深く吸いこもうとした途端、喉にムズ痒いような痛みを覚えて、激しい咳を繰り返す。苦しい。眠い。眠れない。トム、トム。苦しい。
伸ばそうと力を込めた腕が寝台からずり落ちる。その小さな手のひらに、彼女のものとそう大きさの変わらない手が触れた。
「起きたのか?」
ゆらゆらと、陽炎のように不明瞭な世界で、見慣れた黒い瞳がナマエを覗きこんでいる。
「……トム」ナマエは掠れた声で、片割れの名前を呼んだ。「ト、ム」
うわ言めいた響きに、リドルは椅子ごと近づいた。椅子を引きずった拍子に、膝に置いてあった本が落ちる。リドルに本を貸し出した司書がその場にいたら、きっと思いきり顔を顰めただろう。本は泥汚れのある床に伏せられ、幾つかのページは折れていた。
リドルは本の背表紙を蹴ってどかすと、寝台に横たわるナマエにぴったり寄り添った。
「喉が乾いたんじゃあないか? そうでなくとも、一杯飲んだほうが良い」
首だけで振り向いたリドルが、もう一脚の椅子に置かれた水差しを睨みつける。ナマエの返事を待ちかねて、リドルは妹の手をきつく握りしめた。「飲む――ん、だ」思わず語気を荒げかけた自分に気付くと、リドルは小さく舌打ちした。
「飲むんだ」怒りに震えた声が、弱々しい命令を落とす。リドルは自分へ言い聞かすように、もう一度繰り返した。「……水を、飲むんだ」
勿論リドルは他人に命令することに慣れていたし、妹にも自分と同じ“特別な才能”があるのも知っている。しかし、だからと言ってナマエにリドルの“命令”が通用しないわけではない。リドルが断固とした口調で「飲むんだ」と告げたなら、ナマエはその通りにしただろう。
リドルはたった一人、この少女にだけは“命令”したことがなかった。まだ幼い彼にとって、その戒めは不可解かつ理不尽なものだった。“命令”してしまえば事は容易に進むと分かりきっているのに、“命令”することが出来ない。そのもどかしさが彼を一層苛立たせた。ナマエの手にリドルの爪が食い込む。妹の意識が朦朧としているのを良い事に、リドルはヘルパーたちを口汚く罵った。
火照った体を持て余すナマエは、兄の苛立ちに大した違和感を覚えなかった。
いつも落ち着いている兄にしては珍しく不安そうだとは思ったが、それだけだった。“それだけだった”のだと、ナマエは思う。
リドルの爪がナマエの皮膚を破る。白い皮膚に、薄ら血が滲む。
いつ癇癪を起こしても可笑しくないほど強張った表情で、リドルはナマエを傷め続ける。ナマエは自分の手に浮かぶみみずばれを他人事のように眺めていた。すいと視線を上げた青灰の瞳に、リドルの顔が映る。「ト……ム……」ナマエは無意識の内に、いや反射的にリドルを呼んだ。互いの視線が重なる。「トム、」自分へ注がれる視線に、ナマエは僅かに言い渋った。
トム、苦しいの? 私の熱が移ったの? そう聞くつもりで呼んだのだと思うが、その問いかけは何か違う気がした。ナマエにはリドルが苦しんでいるのが分かっていたし、熱が移ったわけでもないと知っていた。それだけだった。
ハアハアと浅い呼吸を繰り返し、冷たい空気が喉をくすぐる。リドルを見つめたまま、ナマエは乾いた唇を震わせた。
「ずっと……一緒にいて、くれる?」
虚を突かれたリドルはパチリと瞬きした。一拍置いてから、ぷっと噴き出す。
「何を……」フーっと長いため息をついてから、労わるように微笑んだ。「今だって一緒にいるじゃないか」
リドルの指が、ナマエの手の甲を拭った。熱で鈍くなっているとはいえ、完全に痛覚が失せてしまっているわけではない。腕先で皮膚が疼いているのは分かっていたが、ナマエはちょっともリドルから目を逸らさなかった。
「……一緒に、いてくれる……?」
もう一度口にすると、リドルは仕方ないと言いたげに眉を寄せた。「君が望むならね」ぶっきら棒に言い捨てる。さっさと終わらせてしまおうと思ったのか、リドルは間髪置かずに口を開いた。「君が僕の――」そこまで紡ぐと、リドルの顔から奇妙な間が覗いた。
「君が、」ぎこちなく唇を動かす。君が、音もなくこぼした唇がわななく。
君が僕を望むならね。そんな他愛もないからかいが、凍える歯の隙間から抜けていく。細い喉が引きつる。リドルの顔から血の気が引いた。その何もかもを、ナマエは漫然と眺めていた。ナマエには何も分からなかった。
火照った体を持て余すナマエは、兄の狼狽に大した違和感を覚えなかった。自分が寝込む度――それが詰まらない風邪であろうと――この少年の神経が、自分を失いかねない恐怖でボロボロになると知ったのは、ずっと後になってからだった。ナマエは何も知らなかった。
何も知らないと、そう言い聞かさなくては……このプライドの高い少年はナマエを見限っていただろう。
リドルの傍にいるためには彼を信頼してはならなかったし、また軽んじることも許されなかった。
気の弱い兄には自分がいなければ駄目だ。何でもそつなくこなす兄は自分がおらずとも平気でやっていけるだろう。矛盾する、その二つの感情を信じ込まなければリドルの傍にいられなかった。ナマエはリドルの手を緩く握った。冷たい指に、熱を孕んだ指を絡ませる。
「きれいな石も……」息苦しげに弾んだ息が、過剰に甘えた声を作る。「レースの、ついたリボン……コマドリの……缶カラもあげる、」
血の気の通っていない指に、ポタリと滴が落ちた。リドルの黒い瞳から、涙が幾筋も下っている。
この人は弱いひとだと、ナマエは最初から知っていた。この人に恋している。胸奥に蠢く感情の名を知らない頃から、望んでいた。何を犠牲にしてでも、この人に愛されたいと求めている。その罪深さを知っても、忘れることは出来なかった。
切々と泣き続けるリドルに、ナマエは微笑みかけた。
「ねえ……トム。ずーっと……一緒にいてね。何があっても、わたしを、」
貴方と一緒に溺れてあげるから、私だけは離さないで。
ザアア……と、間延びした雨音がナマエの意識を引き戻す。
寝ぼけ眼を擦ったナマエは、億劫そうに顔を背けた。視線の先で、雨戸に塞がれた窓は一筋の光も漏らせない。空っぽの頭に、穏やかな雨だれが響く。現実だった。鉄製の寝台も、荒い布目のシーツも――慣れ親しんだ粗末さがナマエを取り巻いていたが、そこに横たわる四肢はすらりと長い。それもそのはずで、ナマエは十八歳の成人した魔女だ。大人と呼ぶには些か頼りないが、少なくとも子供ではないだろう。
ここはミセス・コールの管理する孤児院ではなく、リドルの借りたアパートだ。
最後に風邪を引いてから、もう何年も経つ。頭痛に顔を顰めたナマエには、先ほどの夢が事実だったかさえ思い出せなかった。
きっと、気を遣ってからそう経っていないのだろう。花芯はまだ甘く疼いていたけれど、ナマエの皮膚を火照らすのは愛しいひとの愛撫ではなく、傍らで赤々と燃える蝋燭だった。身を起こしたナマエが辺りを見回すと、リドルは足元にほど近いところに腰掛けていた。
ナマエは膝をついたままシーツをかき分けて、リドルに近づいた。寝台がギイギイと五月蝿くたわんでも、リドルは身じろぎ一つしない。
リドルから僅かに距離を置いて制止すると、ナマエは草臥れたシャツを一枚羽織っただけの背中を見つめた。どこか骨っぽくて、逞しいとか男らしいとは言い難い。そーっと伸ばした手で、肩甲骨のあたりに触れた。不意に崩れてしまいそうなほど、貧相な背中だ。
「ねえ、トム」くしゃりと微笑んでから、背後から抱き着く。「貴方だけが……私の特別よ」
「そうだね、ナマエ……」
リドルの胸に回した手に、節張って冷たい指が触れる。ナマエの手より、ずっと大きな手だ。リドルの指がナマエの手を優しく包む。
「昔から、君は……僕が思ってるよりずっと物識りだった」
静かな声音に、ナマエはきょとんと瞬いた。
リドルの背に頬を寄せたまま、考え込む。リドルと違って、ナマエの魔法の腕は平凡そのものだ。彼女に使える魔法は限りがあるし、勿論容易なものでなければスペルさえ読めなかった。忘却術さえ危ういナマエには、人の胸奥を探ることは出来ない。片割れのことなら何でも分かるという過信も、最早消え失せていた。傲岸が小さくなるにつれ、ナマエはリドルの感情を気にしないことにした。
ゆるゆると、ナマエの表情が歪んでいく。リドルの台詞の意図に思い至ったナマエが、その喉を破裂させた。激しい嗚咽が室に木霊する。
トムの傍にいられるなら、私は誰からも愛してもらえなくて良い。
この人にとって自分が“特別”なのは“人間”じゃないからだと、ナマエは知っていた。
一個の自立した人間として見ていないから、触れて貰える。気を許して貰える。ナマエはそんな、不自由な愛情を望んだわけじゃない。命綱として縋られたかったわけじゃない。精神安定剤としてではなく、世間一般に有り触れた恋情から求められたかった。
物心ついた時からずっと、ナマエはリドルのことを異性として愛していた。異性として愛されたかった。だからこそ、それが叶わないことを知っていた。この人は、誰かに恋することも、愛を語らうこともない。この人は孤独だ。この人は、人間として破綻している。誰も、この人に寄り添えない。ヘルパーたちより、ダンブルドアより、誰よりも早く気づいていた。
この人と恋することは叶わない。離れることも出来ない。そうと知っていて、どんなに取り繕っても、諦められない。
体を重ね合うことも、心が繋がることがなくても、この人の意識に留まるだけで構わなかった。
この人を愛している。この人が好き。苦しみのなかでしか求められないと分かってても、残酷なまでの恋心を抑えられない。
自分の目に映るリドルが幸福そうに微笑うことは、決してない。苦しみと困窮と、例えようもない傷みだけがリドルを自分の下に繋ぎ止めている。何人も手を差し伸べられない大海で、溺れまいと必死に浮き沈みを繰り返す姿を思うと、ナマエは泣きそうになる。
自分と言う頼りない命綱を離すまいと縋りついて、他人に奪われまいと怯えている。それを、恋だと思っている。
寄る辺のない孤独のなかで、他に選ぶ余地もない絶望が愛だと軽んじている。
その“間違い”を正せば、リドルはナマエの下から去ってしまう。ナマエへの執着が恋も愛でもないと、知ってしまう。触れて貰えない。口付けて貰えない。ナマエを軽蔑するだろう。ナマエではない女に愛を囁くだろう。愛の高尚さを保つために、それを許せと言うのか。
愛しいひとのため、甘んじて不幸を受け入れるような真似は――私には、そんなことは出来ない。
息苦しいほどの愛しさと、縊られるような罪悪感に挟まれて、“私は何も知らない”と繰り返し言い聞かせる。
自分の欲のために愛しいひとの不幸を願い続ける醜態を忘れてしまいたかった。
この人を愛している。この人が安らぐためなら、何でもしてあげたい。傍にいたい。苦しむ姿を見ているのが辛い。叶うことのない幸福を夢見てしまうのが苦しい。共にいても救われることはないのだと悟ってしまった。誰か、この人を救ってほしい。自分以外の人間が彼の“特別”になることが許せない。自分以外の女に触れるトムを思うと堪らない気持ちになる。如何しても耐えられない。例え、自分と言う存在が彼に苦痛しか与えないのだとしても、離れたくない。この人から離れたら、私の気持ちは楽になるのだろうか。
「そうよ。わたし……何でも知ってるのよ」
ナマエはリドルの背中から顔をあげて、リドルに掴まれていない手を脇についた。ズリズリと、手を繋いだまま距離を置く。喉が痛い。肺が、ひびが入ったように痺れている。「トムのことなら、私……ぜんぶ、」噛んだ唇が苦い。視界も思考もぐちゃぐちゃに崩れている。
「……わたし、私、もう」ひくりと肩を揺らして、ナマエがしゃくりあげた。「も、やっぱり駄目……」
貴方のことが好き。貴方だけが好き。貴方だけを愛してる。貴方しか要らない。許して、嫌いにならないで、貴方のことだけを考えられない私を軽蔑しないで、死なせて、死にたい。こんな辛い思いだけが私の人生なら死んでしまいたい。
貴方の腕のなかが苦しい。もう、生きていたくない。
「君を……あいしてるよ」
背後に振り向いたリドルが、何も映さない瞳にナマエを沈める。頭を垂れて、白い手の甲に優しく口付ける。
どこかで見たような求愛の仕方だと、ナマエは思った。この人は自分の台詞をなぞっているだけだと、ナマエは知っている。リドルはそういう人間だ。どんなに巧みな言葉で愛を語ろうと、心からひとを愛することは出来ない。砂漠よりもずっと乾いて不毛なひとだ。
ナマエはぼやけた世界にリドルの輪郭を見つけた。リドルは全く悪びれる様子もなく、また愛を言葉を囁いているとは思えないほど落ち着き払った面持ちでいる。リドルの唇が爪に滑り、指先を食む。触れられたところから熱が吸われているかのように、体が冷たい。
この人は私を愛してくれない。誰のことも愛せない。このひとはひとりぽっちだ。
誰の手も届かない孤独のなかで生きている。誰もこの人に触れられない。誰もこの人を救えない。不毛な現実に、ナマエはもう疲れた。
若いヘルパーが戸口の影へ隠れるようにして、配達員の男と口付けを交わしている。
裏庭の木に引っかけた凧を取ってくれるはずだったのに、リドルは回れ右で元来た廊下を遡った。乱暴に手を引かれながら、ナマエは何も言わなかった。先を歩くリドルの顔も見えない。ただ「ブタの交尾のほうがずっと生産性がある」と吐き捨てたのは、しっかり耳に入った。優しくて大人しい兄だったが、感情が昂ると平気で汚い言葉を口走る一面があった。尤も自分に対する優しさのほうが嘘なのだとは、最初から知っていた。自分の無邪気だって嘘だった。ナマエは純真な子供でも、無垢な少女でもない。生身の女だ。
『昔から、君は……僕が思ってるよりずっと物識りだった』
互いに嘘をつきあっていると知っているなら、もう“恋人ごっこ”に意味はない。
リドルはナマエを忘れて、自分のためだけに全てを憎んで生きれば良い。リドルは“そういう”人間なのだ。ナマエの存在の如何に関わらず、リドルは自分のしたいことをしたいようにするし、そのための能力も十分に備わっている。何も出来ないナマエとは違う。ナマエは、もうこれ以上生きていたくない。何も手に入らない空虚な世界で、自分の罪を問われながら生きるのに飽いた。
「トム、もう……私、」ナマエは憔悴しきった顔でリドルを見つめた。「私、もう……一緒に、貴方は、」
リドルの手に掴まれたままの指先を、ぐっと引く。ビクともしない。ぴんと張った腕が、これ以上遠ざかれない事実を示している。無駄な抵抗だとは、自覚していた。リドルが腕を引けば、ナマエにはその求めを拒めない。
強張る唇を無理に動かして、ナマエは震える指で口元を覆った。もう一緒にいてくれなくて良い。涙が頬を伝う。
「わ、たしを……」自分の自我を殺す腕のなかで、自分に苦しみを強いる男の胸のなかで、ナマエは絶望に身を震わせた。「あ……ああ、」
頭が真っ白になる。もう何も考えたくない。このまま死んでしまいたい。誰か私を殺して。誰か、この人を救って。
誰でも良いから、私の罪を裁いて。祈るような気持ちで、ナマエは叫んだ。
「もう、わたしを――私を、はなさないで……!」
ナマエの悲鳴に応えて、熱っぽい声が囁きかける。「きみをあいしてるよ」リドルは無理やりに引き寄せた体を抱きすくめた。
『ねえ……トム。ずーっと……一緒にいてね。何があっても、わたしを、離さないで』
トムの隣にいられるなら、その指で触れて貰えるなら、その唇が口付けてくれるなら、私は救われなくて良い。
君だけが僕の特別だよ。貴方の囁きが耳朶に掛かる。肺を押しつぶすような怯えを胸に感じながら、如何しようもなく悦んでしまう自分を偽れない。死にたくない。トムとずっと一緒にいたい。この人が好き。愛してる。それ以外の何もかもが分からなくなる。
息がつまりそうな幸福感、閉ざされた世界のなかで、片割れ以外の何も見たくなかった。父親も母親も要らない。友達も、教師も、恋人も、自分の子供も要らない。トムだけがいてほしい。たった一人、この腕のなかだけがナマエの恋だった。
この人を愛している。
「苦しい、ナマエ?」
穏やかな問いに、ナマエはコクコクと何度も頷いた。「そうか。僕も……君が苦しんでいるのを見るのは辛い」リドルは困ったように微笑する。労わりに満ちた声音を紡ぎながら、黒い瞳は恐ろしいほどに冷めていた。リドルはナマエの体を絞める拘束を強めた。
「でもね、ナマエ」ナマエは打ちひしがれた気持ちで、目を瞑った。「……どんなに苦しかろうと、君だけは死なせてあげない」
感情のこもらない愛の言葉に反して、リドルは切実なまでのひたむきさでナマエを踏みにじる。その残酷な仕打ちが、ナマエには堪らなく嬉しい。それが愛でなくとも、自分だけがこのひとの“特別”なのだと慰められる。もう、それ以外の何もかもが如何でも良い。
愛しい男の腕に抱かれる幸福――それだけを記憶するために、ナマエは幾百回目の忘却術を己に科した。
「ねえ、ナマエ……僕だけが君の特別だよ」
ナマエが自分なしには生きていけないと知っていて、引き留める。リドルこそが自分なしには生きていけないと、そう自覚していて離れられない。自分の幸福のために相手を苦しめなければならないと確信していて、身を引けない。
それが恋だと言うのなら、誰もこの世界を望まない。
カルネアデスは問う、この罪を裁くのは誰か