「死にたいなら、死ねばいいじゃない」
 ええ、死んでやる。今後の事を思えば葬式代のほうがずっと安上がりでしょうね。産んでくれなんて一度も頼んでないのに、後始末も自分で出来ないなんて。死んで差し上げますとも。

 ざっと、上にあるような台詞は“売り言葉に買い言葉”というものだ。
 いつも通りのこと、いつも通りの繰り返し。また、いつものように母親と揉めただけで、擦り切れるほど口にした(母親曰くの)悪徳は上っ面ばかりで真がない。私という人間は一枚っきりのレコードを絶えず鳴らす蓄音機のようだ。死んでやる。死んでやる。死んでやる。何度そう言ったところで誰も動じることはないのに、私の頭の中に新譜が入荷される見込みはない。兎に角「黙り込んだら負けだ」という意地に衝かれて、私は私の尊厳のためにたった一枚のレコードを回す。
 死ね・死んでやるという物騒な応酬は、既に私たち親子の間で朝の挨拶を交わすのと何ら変わりないことのようだった。尤も清々しさや、おはようと投げかける時の親愛の情も、私達の胸には生々しく蠢くものしか存在していない。自分のなかにある不快感を言い表すためには、ニーチェやドストエフスキーのような世界的文豪の力が必要になるだろう。彼らの作品を読んだことも、読みたいと思った事もない。語彙が少ないことは哀れだけど、私は誰の鋭い言葉も必要としていない。

 私と同じ哀れな女がバタンと、私の鼻の先で扉を閉める。
 もう帰ってくるな。何処ぞででも死んでしまえ。ガチャリ、金属が回る音が聞こえる。それが私に言い負かされ、悪態が底を尽いた母さんの最後の抵抗だった。お決まりの抵抗、そして諦念。
 私は自分のことを棚に上げて、冴えない罵倒だと肩を竦めた。ドアノブを掴む気力は最早ないし、扉に向かって悪態を吐くのだって自分一人のためだけだ。きっと母さんはテレビのボリュウムをあげて、私と言う存在を雛壇から溢れる嬌声で掻き消そうとしている。うそー! そんなことってある? はい皆さん次のVTRをご覧下さい! 中身がないテレビ番組。音のカーテンの向こうから話しかけるのは無駄なことだし、家の中へ入れて貰おうと努力するのは更に徒労を想起させる。
 自分のための非難を一頻り口にすると、私はプリーツの隙間から携帯電話を取り出した。
 家々の明かりを引き立てるように重く静まり返った道を当てもなく歩きながら、私は知りうる限りの番号をダイアルする。知りうる限りといっても、私の友達はそう多くない。精々が両手に足るぐらいだろう。その、決して多くはない友達の全員が私と母さんの不仲を知っている。
 母さんと「おはよう」の代わりに罵声を交わし合い、友達には「こんにちは」の代わりに母親の愚痴を聞かせてきた。友達が少ないのも仕方がない。それほど過剰に捲し立てたわけではないと思うが、如何にも頻度が高すぎたとも思う。そうと分かっていても私は愚痴を止められない。

 どうせ死なないし、本当は死ぬのが怖くて、母さんに引きとめて欲しいと分かっていながら死んでやると主張するのを止められないように、私は誰かに自分の話を聞いてもらいたいと思うのを止められない。拒絶されて千切れた糸を、違う誰かと繋がる事でなかったことに出来るのではないかと自分をだまし続ける。携帯電話はとても便利だ。寒空の下で改めてそう思う。

 ルルルルル。電子音。「おかけになった番号は現在……」電子音。ピッ。
「何かあったっけ、今日」
 私の声。ダイアル。ルルルルル。電子音。「おかけになっ」ピッ。ダイアル。
 三人目、四人目、五人目……七人目の番号を探しながら思案する。おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります。ピーッという発信音のあとにメッセージを入れてください。ピッ。ダイアル。ルルルルルルルルルル。何か──そう言えばここ数週間、母さんと喧嘩してばかりだった。そうと気付いたのは八人目の電子音を聞いている最中だった。
 道理でまたかと思うはずだ。ここ数日、毎日鼻先をピシャンとされていれば自ずと反応も薄くなるだろう。母さんがピリピリしている理由が分かった。友達が電話に出てくれない理由も分かった。その断絶されたという、故意に拒絶されているという孤独や焦燥感から、ついでに自分が人殺しであることも思いだしてしまった。嫌な事は、脈絡がない思考でも浮かび上がってくる。
 仕方のないことだ。昔のこと。今こうして暮らしてられるぐらいに、私には非のなかったこと。慣れた言い訳を見つけると、私は手の中にある無価値な機械を道路に叩きつけた。
 電子音と話すための機械なんて要らない。

 “こんな”機械を持っていることを、誰にも知られたくない。誰にも見られたくない。
 今こうして一人でいることも、誰も電話に出てくれないことも、家を閉め出されて行くあてがないことも、私が誰かと繋がっていたがることも、母さんが私を嫌う理由も、父さんが死んだ理由も、罪に問われることさえなかった私の罪科も、何もかも誰にも知られたくない。
 この惨めさと異質さを、決して知られてはならない。

 私はミョウジナマエ、中学三年生。
 母親と不仲なことと、六年前に父親を殺してしまった事以外はどこにでもいる普通の十五歳だ。






 私を嫌う母さんと違って、父は私をとても大事にしてくれた。
 たまの休みも色々なところへ連れて行ってくれたし、遊びにもよく付き合ってくれた。
 あの日も、父は私や近所の子供達と一緒に建ったばかりのマンションで鬼ごっこをしていた。
 十五歳の私の足で歩いて一分も掛からない、家の前の道路を挟んで向かいにある七階建てのマンション。そこには小さい子供を持つ一家が多数入居していて、近隣の子供達の遊び場となっていた。同じ年頃の遊び相手が沢山いるそのマンションに私は毎日遊びに行ったものだ。コンクリートで出来たそこには十分な隠れ場所も遊び道具もなかったが、誰一人として公園へ移動しようと言いはしなかった。発想力が豊か、というのだろうか。限られた条件のなかでも不思議に満足のいく遊びが見つかった。何よりも境界がハッキリしていて、拡散することのできない地形は鬼ごっこに向いていた。単純で勝敗が分かりやすい遊びを私達は好いていた。大抵私達の遊びに混ざるとき、大人と言う事もあって父はハンデを負わされることが多かったが、唯一この遊びだけは私達のほうが父よりも優位に立っていた。小さくてすばしこい私達を捕まえるのは困難だと、父は皆からよく狙われた。私もそうだ。元々足の速い私は初めの鬼にされることがよくあり、足が遅く逃げるパターンを知りつくしている父を一番に捕まえることが多かった。そのため、一番が私なら二番は父に決まっていたようなものだった。私が鬼になると、父は嫌そうな顔をした。 また僕が二番かあ。ナマエはどんどん足が速くなるなあ。子供っぽさと、娘の成長を喜ぶ大人らしい台詞とを父は続けて口にする。私は、その時どう思ったのか覚えてない。過去のことは思い出ではなく記録として私の内に保持されている。当時の感情など覚えていはしない。その無関心さを、母は「気持ち悪い」と称していた。そう言われた時から、それも“知られたくない”。知られたくないから、人前では当時の感情を偽る。虚偽を繰り返せば繰り返すほど私は空っぽになっていく気がする。

 ぽろぽろと思い出が抜け落ちていく。
 記録だけが残っても、他人に知られるよりはずっと良い。

 何も知られたくない。
 わぁっと散っていく友達、一人遅い父。数え切る私。やっぱり父を追いかけることにした。
 単に走っていればいいだけでなく、狙いを定めて捕まえなければならない鬼の立場は疲れる。自然と、早めに鬼を変わって貰いたいと思ったろう。父もエレベーターホールに追い詰められて、エレベーターに乗り込んだ。七階まで駆けあがって、一つ下の階に降りた父目掛けて駆ける。私に気付いた父が逃げる。階段を昇っていた友達も私を見て階段を下りだす。と、父の靴紐がほどけた。体が傾く。私はあの時何のために手を伸ばしたのか、覚えていない。指先が父の背を押した。あとは、友達の悲鳴と大騒ぎ。それを聞いて顔を覗かせる大人達。階段下で動かない父と、踊り場から見下ろしてる私と、それを囲む輪。ナマエちゃんが手、伸ばした。友達が零したその台詞を、周囲は如何取っただろう。父を救おうと手を伸ばした子供、そう思ったのが殆どだったに違いない。でも母はそうじゃなかった。私が父の背を突き飛ばし、父を殺した。兎に角母はそう思った。
 突き飛ばしたわけでなくとも、どの道父が死んでいようと、私の手が父の背へ触れたのに変わりはない。「おじさんの靴紐がほどけて、ナマエちゃんが手を掴もうとした」己の説明が不十分だったと付け足された言葉も、母にとって大した効力は持たなかった。というより覆水盆に帰らずというものだろう。私が手を伸ばした、私が背を押したと聞いた瞬間に母さんのなかでは私が父を殺したということが真実だったのだ。わざとではなかった。不運な事故だった。誰もがそう言ったし、事実当事者たる私でさえそう思っている。そうでなければ、もし本当に明確な殺意を持って父の背を押したのであれば、今日が父の命日であることを忘れているわけもないだろう。それでも、私が忘れていても、六年と七時間と二十分前、母さんのなかで私は人殺しだったのだ。
 その事実は――母さんを洗脳でもしない限り――生涯消えることはない。

 私は父親が好きだったし、母さんも私の父親が好きだった。
 母さんは愛する夫を殺した我が子を疎みながらも、何とか「不運な事故だった」と納得しようとした。でも、駄目だった。母さんが夫と過ごした時間は私の人生の何倍もあったし、母さんはいつまで経っても“女”以外の何物にもなれなかったから。些細な怒りを正当化するために、母さんは私に“人殺し”の烙印を押す。この子が死んでれば良かったのに。あの人がいれば、この子が死のうと幾らでも子供を作れたろうに。父を殺した事を悪びれでもすればもっと寛大に接せられるのに。
 口論の切欠は些細な事だ。門限を破った。お前のためを思っている。夜遅くなると危ないんだ。
 そんな小さな愛情が、六年と七時間と二十分前の私への憎悪のために口に出来ない。私が何かするたび、私に対する僅かな愛情と、物事がままならない苛立ちと、現状への不満が、母さんのなかで膨らんでいく。お前が死ねばよかったのに。言葉として認識出来ていなかった音が、ゆっくりと私のなかで形作られていく。「如何したら良いの」という声音で、母さんは悪魔を呼ぶ。
 ええ、死んでやる。今後の事を思えば葬式代のほうがずっと安上がりでしょうね。産んでくれなんて一度も頼んでないのに、後始末も自分で出来ないなんて。死んで差し上げますとも。私のなかのレコードも、永遠ではない。ずっと母さんと一緒にいれば、いつしか途絶えることもある。
 レコードを止めては駄目だと、私は思う。母さんも、急いで私を追い立てる。
 悪魔は静寂を縫ってやってくる。だから、ほんの一瞬でも、口を噤んではいけない。

 人一人が死んで、変わったことはさほどない。
 マンションはあの時のままここに建っているし、一緒に鬼ごっこをした子達の殆どは引っ越していったが、まだこのマンションに住んでいる子もいる。父の頭から出た血がついた廊下と階段は塗り直された。それだけだ。塗り直した壁に血の跡が浮いてくるなんて霊現象も起きなかった。なので私たちはそれなりの不幸に泣きくれた後、些細な気まずさを残しつつも日常に戻っていった。私達もこの場所も少しは変わったが、それは父の死によるものではなく時間の経過による変化だ。
 それに、私だって、まだこの町に暮らしている。生きている限り食事もするし、眠るし、退屈を感じれば娯楽を求めもする。娯楽を得れば、笑いもする。そうやって己を誤魔化し、やがて忘れて暮らしていくのだ。それが平凡で、普通で、どこにでもある生き方なのだと私は思っていた。

悪魔の系譜

 その日の私は放課後の教室で一人、先生からの頼まれごとをこなしていた。
 PTAで配るプリントを折ってくれ――なんて生徒会かクラス委員へ頼めば良いことを、先生は図書委員で陸上部の私に押し付ける。殆どの生徒が先生と不仲でいるなか、八方美人の私は頼まれごとをされやすい。追加の分だけだからとか、終わったらジュースでも買ってやるからという言い訳や甘言へ必要以上にふざけた文句を返して引きうけた。すんなり引きうけると先生と仲が良いとか優等生ぶってるとか言われて、クラスメイト達に嫌われてしまう。先生の悪口を沢山言って、本当はしたくなんてないのに貧乏くじな自分アピールをして、クラスメイト達の優越感をくすぐらないといけない。たかが頼みごとひとつにクラスメイトは馬鹿みたいに反応する。正直なところ、先生から特別扱いされてる私が羨ましいのだ。先生と仲良くなりたいとか優等生扱いしてほしいと思うから私の悪口を言う。優等生ぶりたいんなら喜んで代わってあげるのに、あの子達は面倒なこと一つせず自分勝手に振舞っていたい癖に先生に褒められたいと思ってるんだから始末が悪い。
 そうやって、クラスメイトを馬鹿にしながらプリントを折っていると、不意に名前を呼ばれた。
「ミョウジ、ナマエ?」
 フルネームで呼ばれることなど滅多にない。
 誰だと戸口へ視線を滑らせれば、先週転校してきた変わった名前の男子――六道、骸だったかな――がいた。カッコイイと噂されてる子で、でも同じ日に転校してきた二人といつも一緒にいるから中々話しかけにくいんだよねと友達が言っていたのを思い出す。毎日聞いていた名前に容姿だったから、会うのは初めてだったけど彼が誰かすぐ分かった。しかし六道骸が私に話しかけてきた理由は皆目見当がつかない。「ええと、六道君?」面倒くさいなと話しかければ、
「純粋な日本人ですか?」
 六道君はぽつんと、独り言みたいに私の疑問を解消してくれた。

 初対面でブシツケだなと思ったが、慣れている。私はへらっと自分を偽った。
「母方の祖父がね」
 つまりクオーターということだ。
 四分の一しか入っていないはずなのに、何の因果か私は初対面でハーフかどうか聞かれてしまうような外見をしている。醤油顔の母と似ても似つかない容姿は、私にとって自慢だった。
「一応ミドルネームっぽいのもあるんだよ。ミョウジ・ルチア・ナマエって言うの」
「イタリア系ですね」
 六道骸が歩み寄ってくる。
 違うクラスに入るのは校則違反だけど、どうせそんな校則を守ってる人は誰一人いない。
「よく分かったね。すごーい」
 私はどうすれば適当に偽れるかを考えて、適当に笑みを作った。
 六道骸は私が座る椅子の横に立って、私を見下ろしている。夕日が教室を赤く染め始めていた。
「そうですか?」六道骸が首を傾げた。
「だって名前だけで国まで分かる人なんて滅多にいないよー」

 クラスメイト達の前でする無邪気な口調に六道骸が微笑む。
 それがあんまりに綺麗で、一瞬、自分が言葉を話せることを忘れた。
 六道骸の容姿はどこか作り物めいていて、でも冷たく無感情なわけでもなくて、まるでお人形さんみたいだと思った。カッコイイなんて騒いでいた友達は誰一人こんなに間近で六道骸を見た事がないんだろう。もし見ていたなら、あんなにぎゃあぎゃあ騒げるはずがない。六道骸の美しさっていうのは自分の容姿が恥ずかしくなるほど整っている。男とか女とか、そういうのを超えていた。
 凄く美人な同性を見た僻みと美人な異性を見たときめきとがせめぎあい、六道骸という名を紡ぐことさえ困惑の内に躊躇ってしまうような、そういう類の美しさだ。こんなに美しいものを、私は未だかつて見た事がない。夕日が映える笑みに顔が赤くなる。夕方で良かった。
 きっと六道骸には私が赤面している事がわからない。そうであって欲しいと思った。

 無言。無言。無言。
 ほほ笑むだけでじっと私を見つめている六道骸と彼に見惚れて赤面している私。
 会話を続けるための言葉が出てこない。自分から話しかけてきたのだから、何か言えばいいのに。彼と言葉を交わしたいか如何かさえ分からないのに、私は六道骸を責めるようなことを考えた。「目が青いけど、六道君も何処かとのハーフ? オッドアイなんて珍しいね」思考停止した頭とは裏腹に、もしくは彼と親しくなりたいと望んでしまったのか、私の口からはこの場に不自然ではない言葉が落とされていた。私の台詞に、六道骸が微笑う。……知ってますか?彼がなんと返したのか、私は一瞬理解出来なかった。綺麗な唇が、わけのわからない問いを口にする。

「母親の旧姓がエストラーネオというのは知ってますか?」

 六道骸と私は初対面だ。
「母親が昔イタリアで暮らしていたことは?」
 断定的な疑問。私の返事など期待していない疑問。それを食んだ唇で、六道骸は微笑んでいた。
 ……何かの聞き間違えだろうか? ここは放課後の教室で、六道骸と私は初対面で、二人の共通点は同じ黒曜中の生徒というだけだ。私は六道骸を知らない。私はどちらかと言えば記憶力が良い方だ。それにオッドアイに端正な容貌、こんな美しい子に会っていたら忘れているはずがない。でも耳が悪いわけでもない。確かにハッキリと聞こえた。六道骸は母のことを知っている。

「え……あ、母さんの知り合いだった?」
 やだな、そうなら言ってくれればいいのに。驚いちゃう。
 私が適当な誤魔化しを口にしている間も、六道骸は微笑んでいた。その綺麗な微笑が途方もなく恐ろしいものに見えて、私の視線が彼から逸れる。それが自分の動揺を露呈したと同様のことだと理解していても、逸らさずにはいられなかった。瞳から入り込んだ彼に内側から食い殺されるような恐怖を感じる。声が強張った。「やだな、驚いちゃった」なるべく自然に振舞おうとプリントを折る作業に戻ろうと――視線を逸らしたのは作業に戻るためなのだと思わせようと――したのに、指がすくんで、プリントを手に取る事が出来ない。つるつる紙をなぞるだけで、ゆび、ふるえる。
「ろ、六道君カッコイイから、知り合いだったなんて知れたら嫉妬されちゃいそお」
 なんで母さんのこと知ってるの。なんで母さんの昔の仕事なんて知ってるの。
 六道骸は別段変な事を言った訳ではない。母親のことを知っていて、それで声を掛けた。
 それだけのことだ。どこにでもあること。そう言い聞かせても、恐怖は止まらない。じわじわと胸の内を汚蝕する。目の前にいるはずなのに、六道骸は私と会話する気がない。返ってきた言葉はまたわけのわからない言葉だった。 「そういう、逃避を好むところは父親似ですか」
 思わずあげた視線の先で六道骸はまだ微笑んでいた。多分こいつは微笑うことしか出来ない。
 私が自分の罪を知られることを恐れるのと同じに、こいつも“そういう”生き物なのだ。知ってはいけない部類の生き物。近づいてはいけない部類の存在。息が苦しい。こわい。

 何だこいつ。なんで父さんの名前知ってるの。なんで知ってるの。
 クラスメイトの誰も知らない、六年前に私が殺した父さんの名前、如何して知ってるの。やだ。こわい。誰だこいつ。初対面。私と六道骸は初対面で同級生で、他人だ。知ってるはずがない。
 私はこいつを知らない。母さんの過去も、父さんの過去も知らない。
 我が家のタブーを、多分こいつは知っている。


 空は赤く教室を照らし、六道骸はその端正な容貌に笑みを貼りつけていた。
 貼りつけて、笑っているように見せかけているだけだ。なのに私は其の笑みが綺麗だと思う。怖いのに目が逸らせない。本当に私と六道骸は初対面なのか。そうだ。そうに決まってる。私はまだ現実にしがみ付いている。否しがみ付いていないといけない。手を離したらいけない。グシャリ、乾いた音を立てて、右手でプリントを握りしめた。離しちゃいけないと思った。私は凍った頬を無理に動かす。このプリントがどこに繋がっていて、離したらどうなるのかもわからない。
「やだ……からかうのやめてよ。母さんは博士なんかじゃないし……そんなさあ、頭良くないよ」
「エストラーネオ博士というのは貴女の母親です。説明が足りませんでしたね」
 六道骸はようやっと理解が出来る言語を吐いた。でも、そんな説明を待っていたわけじゃない。
「なんで」止めろと呟けない。「な、んで」偽るの得意でしょう。大丈夫、いつも通りへらへら笑って。目の前にいるのは普通の同級生だ。恐れることはない。なんで、父さんの名前、六年前に死んだのに。良かった。声にならなかった。ならなかったはずなのに。
「知ってますよ」六道骸は微笑んでいる。
 冷たいものが首筋に触れた。夏が過ぎたとはいえ、初秋に冷たすぎる声音が耳元で囁いた。

「貴女が突き落としたんですよね」
 六道骸の冷たい手が私の首を掴んでいる。彼の皮膚の下で私の喉が痙攣した。

 もう仮面なんて被れない。私は六道骸の手を振り払った。
 六道骸の手はあっさりと私の首を解放する。それに油断した私は椅子を後ろに引いて立ち上がろうとしたが、何かに蹴躓いて椅子ごとタイル張りの床に叩きつけられた。立てない。足が震えた。なんで知ってるの。知っていたっておかしなことはないはずだ。両親を知っている人間が誰もいないとは思っていない。あの日のことを知っている人がいないとも、思っていない。たった六年前だ。誰かから聞いていてもおかしくはない。私は悪くない。私は突き落としていない。そう言えば良いのに嗄れている喉からはうめき声さえ出なかった。怖い。知られているのが怖い。六道骸の傍から離れたくてたまらない。逃げないと。すらりと長い指が床を這う私の腕を捉える。思い切り引っ張られて、私は背中を床に打ちつけた。影が落ちる。六道骸の両手が腕を床に固定していた。
 六道骸の赤い目が私を覗き込む。気持ち悪い。怖い。気持ち悪い。気味が悪い。怖い。
「僕のことを知りたかったら、母親にエストラーネオファミリーが何か聞く事ですね」
 そう言うと六道骸は端正な顔に微笑みを貼りつけたまま、呆気なく私から離れた。
 彼の歩みの先にある廊下で、男子が二人佇んでいる。見てた。助けてくれなかった。理由のわからない焦燥感から耳を塞いで、瞼を閉じる。視界の端、世界が黒くなる寸前、右手首が六道骸の左目と同じ色をしているのに気が付いて、私はその場で嘔吐した。何もかもが気持ち悪かった。

 その晩、私は遅くまでネットカフェに籠っていた。
 家へ帰って、母とまた口論になるのが面倒くさかったというのもあるけれど、一番は六道骸の台詞に踊らされるのが恐ろしかったからだ。あいつのことなんて知りたくない。早く忘れてしまおう。そう思っても、私の指は“エストラーネオファミリー”をタイプする。ヒットしたのは0件。
 “エリントンファミリーではありませんか?”というリンクをクリックすると映画のホームページが出てきた。マフィア映画のタイトルらしい。ヤクザのなんとか組っていうのと同じで、マフィアの組織名をなんとかファミリーって言うんだそうだ。あんまり洋画に興味を持った事がなかったから、マフィアという単語は知っていてもそれが何かは全然理解していなかった。
 エストラーネオファミリーって、じゃあマフィアなの? イタリアにはマフィアが多いっていうけど、母さんがマフィアの何を知ってるっていうんだろう。昼間は近所のスーパーでレジ打ちをする母さんとマフィアという組織が結びつかなかった。馬鹿馬鹿しい。どこのコメディ映画だ。
 家にいる間はワイドショー漬けの母さんが、六道骸のような美少年と面識があることさえ信じられない。あんなに平凡で退屈な女がマフィアと関わりを持っているはずがないのだ。それにエストラーネオファミリーがマフィアと決まっているわけでもない。何かの犯罪組織なら一件ぐらいヒットするはずだ。それに落ち着いて考えてみれば、娘の私でさえ知らない両親の過去を他人の六道骸が知っているだなどと、何故一瞬でもそう思ってしまったのだろう。大方父さんの死因を知って、私をからかってやろうと思ったのに違いない。それはそれで不愉快だったが、六道骸が現実的かつ低俗的な感情を有した人間だという想像は安心感ももたらしてくれた。
 私は検索画面を閉じて、友達から勧められた漫画を探すためにブースを出た。

 今日はここで夜を明かしたいと思ったが、制服のまま入店したせいで九時にもならない内に追い出されてしまった。こんな時泊めてくれるような友達もいない。野宿など以ての外。
 二時間ほど辺りをうろつきながら考えたが、結局私は自分を宥めながら家へ帰ることにした。
 母さんが留守の間に作った合鍵があるし、自室の窓は開けっ放しだ。家の明かりがついていたら木を登って部屋へ入ろう。消えていたら、合鍵で中に入ろう。いつものこと。よくあること。
 帰り道は、何もかもいつも通りだった。お隣さんは飼い犬を連れて夜の散歩をしているし、塾の帰りらしい学生もちらほら歩いている。それなりに閑静な住宅街をトボトボ歩いている内、狐に鼻をつままれたような気になってきた。ちょっと容姿が良いだけの転校生に踊らされるなんて、バカらしいったらない。私はミョウジナマエ、中学三年生。母と不仲であることと、六年前に父を殺してしまった事以外は何処にでもいる普通の十五歳だ。今日までもそうやって過ごしてきた。
 だから明日も、こうやって日常に暮らしていく──そう思っていた。






 私を包んでいた原色が消えていく。体温を蝕む熱も、腕に刺さる破片も、痛みも、指先で凍えていく肢体も、溶けていった。世界に残るのは私だけで、目の前では六道骸が笑っていた。
「僕は、エストラーネオ博士のおかげで面白い特技を持っていましてね」
 何を言っているのかよくわからない。でも、それにもそろそろ慣れてきた。六道骸は私と会話をしたくないのだ。呆然と彼を見上げる私へ、六道骸はいつもの微笑だけを返す。彼にとってはこれが日常なのだろう。死体を足蹴に出来る日常に暮らす生き物は、私にとって化け物だ。でも多分、父を突き落とし、母を刺殺した私も、根本的には“これ”と大差ないのかもしれない。
「幻ですよ」ぬるりとした感触が頬をなぞる。幻ではない母の血が、私の皮膚に線を描いた。「君は殺してません。僕が殺しました」初めて聞く優しい声。六道骸の指が頬に触れ、耳朶を擽り、頭を撫ぜる。頭髪に母の血が刷り込まれた。体を丸めようとした私の肩を六道骸が押さえつける。私は世にもみっともない顔を晒しながら、盛大にゲロを吐いた。六道骸の顔にもゲロが飛ぶ。汚物を浴びせかけられたにも拘わらず、六道骸は楽しそうだった。母性さえ感じる笑みを浮かべていた。

「ナマエ。君のことなら、何でも知ってますよ」

 君が持っている携帯電話の糸が切れていること。
 アドレス帳に自動応答のテレフォンサービスの番号が数十件登録されていること。
 黒曜町の道をよく知っていること。行くあてもなく何時間でもぶらぶら歩きまわれること。
 父のことも母のことも愛してなどいないこと。それでもいつか周囲と同じになれると信じて、多くを偽り続けてきたこと。独りぼっちで、友達どころか親さえいないも同然であること。
 六道骸が喋る度、わたしが音を立てて壊れていく。疑問が出てこない。恐怖も底を尽いている。悲しみさえ、目の前に母さんの死体があるのに如何でも良い。この男のいないところへ行きたい。
「僕が君の属するものを教えてあげましょう」六道骸が私の耳へ唇を寄せた。「僕と同じです」
 六道骸の唇が瞳から溢れた涙をなぞり、滴は彼の唾液と共に白い喉を下っていった。声が震える。「私は、」私の名前はミョウジナマエ、中学三年生。母さんと不仲であることと、六年前に父親を殺してしまった事以外は何処にでもいる普通の十五歳だ。今日、幻のなかで母さんを殺した。電気の消えた玄関先で母さんが私を待っていた。お決まりの口論。お決まりの罵声。興奮が高まるうちに、私は母さんをあっと言わせたいなどと愚かな事を考えて、浅慮から終焉を口にした。知ってるのよ。エストラーネオファミリーって何。返事はなかった。代わりに母さんは思い切り私を殴り、私はその衝撃で壁にぶつかった。「どこでそんなことを聞いたの」でも、「変な事言わないで」でもなく、母さんは「六年前から分かってた。貴女は普通じゃない」と言った。適応力がないとわかった時点で殺しておけば良かった。言葉を無くす私の首元を掴んで引きよせ、母さんは拳を振るう。痛い。やめて、いたい。それすら言う事が出来なかった。痛くて、困惑して口をパクパクさせてる私の顔に拳がめり込む。鼻の奥でむわっと血の匂いが広がった。生温かい感覚が気持ち悪くて、涙が溢れる。殺されると思った。母さんは私に馬乗りになって、私の知らない言葉で喚いていた。殺される。傍らについた手にプラスチックが触れた。鞄の中身が玄関先に散らばっている。美術の時間に使ったカッターが、私の手に寄り添っていた。そこから先はもう覚えてない。
 気が付いたら血だまりが出来ていて、それが溶けて、六道骸が微笑っていて、それから、ああ、もう、本当に――ほんとうに、さっきの母さんが幻だったとしても、己が殺されることよりも母と言う名の生き物を殺すことを選んだに違いはない。わたしはそうしたのだ。私が殺した。

 私は異端な生き物だ。普通でないからこそ懸命に偽り続けてきたというのに、本質を知られることを避けてきたのに、この男は一瞬で全てを瓦解させてしまった。私が必至で保ってきたものを、水泡に帰させてしまった。私は異端だ。でも今まで何とかやってこれた。
「私が、何をしたって言うの」
 六道骸はきょとんとした顔で私を見つめ、唐突に大きな声で笑い始めた。
 私へもたれかかるように抱き着いて、ひい、ひいと苦しそうに喘ぐ。その腕いっぱいに広がったゲロも、その腕のなかで呆然とする私のことも無視して、彼は一人で笑い転げ続けた。笑いの発作が治まっても、六道骸は中々口を開かなかった。クスクスと鼓膜を擽るような音で静寂を掻き消すのに飽きると、六道骸はようやっと声を紡いだ。笑いの残滓に、私は瞼を閉じる。
「僕の妹として生まれてきたじゃあありませんか」






『お前はあまり兄さんに似てないな』
 父さんが私を見下ろして、私のことを見ずに、私に話しかけずにぼやく。兄さんって誰。普通の子供なら素直に聞けただろう、薄らでも何か繋がるものを思いついただろうに、私は何も言えない。お父さん、遊ぼう。みんなと鬼ごっこしよう。生き別れの兄がいるかもしれない。自分の知らない父の一面を知れるかもしれない。そんな時に私は日常を繰り返す。そうすることでしか家族ごっこを続けることが出来ないと知っていたから、私は何も聞かなかったふりをして、父も母も知ろうともしないで、たった一枚のレコードを繰り返す。お父さん、遊ぼう。みんなと鬼ごっこしよう。私は目の前の男と繋がっていない。誰とも繋がってなかった。だから殺してしまった。
 携帯電話を道路へ叩きつけたのと同じ。繋がれないから、壊したの。

 私は自動応答のテレフォンサービスと同じ。自我があるから、壊したかった。
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