一番古い思い出は、曇天の下。
どこまでも広がる森を沢山のひとと一緒に歩いていた。
あちこちを転々としていたから、具体的にどこだったかは覚えていない。
父親が率いる傭兵団の仲間と、次の依頼人が待つ場所へ徒歩で向かっていたのだろう。殿を務める父親と取り留めもなく話している途中、靴紐が解けて立ち止まったのを覚えている。父親の意識がナマエから、隊列の先頭に向いたとき──少し離れた茂みが音を立てて、そのなかに潜んでいたのだろう男が飛びかかってきた。
時間で言うと、それはあっという間のことだった。
父親がナマエを庇うより、仲間が駆け寄るより、男が斧を振りかぶるほうがずっと早い。ナマエは悪意に満ちて歪んだ顔をボンヤリ眺めた。自分の脳天を狙う鉛色の切っ先が空を切るのを肌で感じても尚、焦りや恐怖はなかった。かといって、死が何か分からなかったわけでもない。父親の庇護を持ってしても、ナマエの暮らしから“血腥さ”を消し去ることは出来なかった。だから、殺意には敏感だった。
“怖い”と思わなかったのには幾つかの理由──元々感情が乏しいこととか──があったけれど、一番は“自分がどうしたら良いのか”みんな分かっていたからだ。
自分はどうしたら良いのか、ナマエにはわかっていた。
男が振りかぶった斧の下にいるナマエとはまた別に、“もう一人のナマエ”がいる。ナマエの背後から、彼女が耳打ちする。腰に下げた短剣を取って、喉を掻っ切るの。ほんの一歩足を踏み出して、腕を動かせばいい。ただそれだけで殺すことが出来る。死ぬことや怪我することを恐れるどころか、焦る必要さえない。
今にして思えば、それは「あまりの恐怖に人格が乖離した」と言うべきなのかもしれない。“もう一人のナマエ”が出てくる時は命の危機が迫ったときに限られたし、彼女が教えてくれるのは人の殺し方だけだった。あまり役に立たない。
それでも兎に角、彼女がいなければナマエは大人になれなかった。
傭兵は中々に人の恨みを買う仕事だ。そうしたなかで、ナマエのような子どもは目立つ。小さくて、非力な、女の子ども。連れ歩くのは大変だっただろう。
もしナマエが死ねば、誰もがジェラルトを責めたに違いない。
ほら、言わんこっちゃない。
お前が手放せば、この子は怖い思いをすることも、死ぬこともなかったのに。
こんな環境で育てるから、こんな無表情な子どもになってしまったんだ。
……死にたくないわけじゃないけど、ナマエが死んだらきっと喜ぶひとがいる。
“どうにかしよう”と“どうでもいい”の狭間で微睡みながら、それでも体が動いたのは父親のためだった。男の胸に飛び込んで、真新しい短剣で前を突く。
赤々と濡れた短剣も、ぬるりとした血に体が汚れるのも、唇に掛かった血を舐めてしまったのも、この男が誰かもどうでもいいことだった。ただただ、灰色の空に散った緋の鮮明さが不思議だった。陰りを見せる陽光のした、世界は彩度を失っている。男の首から噴き出る血だけが鮮やかで、この世ならざるものに見えた。
地に臥す男の皮膚は青白く、生気を失っている。その死に顔をまざまざと見つめて、血の赤は命の色だなと思った。そうこうしているうち、父親の腕に抱かれた。
傭兵団の仲間はまだ立ち尽くしていた。凍り付いたように、呆然とナマエを凝視している。その目の色に“恐れ”が宿っていたので、ナマエは決まり悪い気持ちになった。安易な方法で──ひとを殺すのは悪いことだったのに──解決を試みた自分を恥じた。自分の肩に顔を埋める父親も、きっと怒っているのだろう。
『服……汚して、ごめんなさい』
やっとのことで口をついて出たのは、人を殺したことでも、自分が間違った選択をしたことでもなかった。本当に謝りたいことを謝るのは怖くて、言えなかった。
汗ばんだ皮膚が、荒い木綿地で擦られてヒリヒリする。
今ナマエが着ているワンピースは、ほんの数日前に父親が市場で買ってきたものだった。全体が藍色に染色されていて、裾には青い糸で蔦が刺繍されている。
都会に出れば決して珍しいものではないのだろうが、ナマエにとっては贅沢品だ。増して「女の子なんだから、たまにはこういう格好もしなけりゃな」と言って喜んでいたのを思うと、ますます居たたまれない気持ちになった。
胸の部分にべったりと返り血をかぶったワンピースは、もう捨てるしかない。
ジェラルトは随分長い間ナマエを抱いたまま、何も言わなかった。やがて金縛りが解けた仲間たちに促される形でナマエから離れ、補佐役と二人で索敵に出た。
結局周囲に人影はなく、傭兵団に恨みを持つ者が一人で追ってきたのだろう──ということで終結した。体を清めて服を着替え、男の死体を埋めると、それで何もかもが終わった。何事もなかったかのように、また皆で歩き出した。
ひと月経って、当時父親の率いていた団が解散した。それからも、数年おきに。
俺は一匹狼だからよ。そう言って笑う父親の隣を歩きながら、あれっきりワンピースを着ていないことを思い出す。でも、父親が剣の稽古をつけてくれるようになったし、もう二度と着なくても良いか。何故って、傭兵はスカートを履かない。
街へ行くと、色とりどりのドレスやワンピースを着た少女に出会う。
彼女たちを見ると「ガラス一枚隔てた世界の何かだな」と思う。あの日みた血の赤もそうだった。ナマエとは無関係で、手が届いても触れられないもの。
少女たちが羨ましいわけでも、人を殺すのが嫌なわけでもない。ただ、同じ性で、同じ血なのに、ナマエの体も血もくすんで見える。それが不思議だった。
人を殺せば殺すだけ、自分のなかには何の臓腑もないような気がした。
何にも興味を持てない。誰にも、何とも感じない──自分が殺した相手にさえ。
◆
曇天に走る稲妻を竜の咆吼に見立てるのは風雅なことだ。
飛竜の節は雷が多いことで知られるが、今年は例年以上に雨が長いようだ。
週半ばから降り続く雨で土砂崩れが起き、グロスタール領からファーガス神聖王国へと抜ける道が封鎖されたらしかった。足止めを食った人全員が泊まるには旅籠が足りないようで、このガルグ=マク大修道院にも多くの旅人が身を寄せている。
元より“フォドラ随一の宗教施設”という名目上、人の出入りは決して少なくない。聖堂に詣でにきた巡礼者や、レアへの手紙を携えた伝令使、果ては玄関前市場での買い物を楽しむ民間人まで──老若男女を問わず、様々な人間が訪ねてくる。
尤も一般に開放されているのは日中だけで、夜間は門を堅く閉ざしている。
学生寮や騎士寮はあるものの、一般向けの宿泊施設は存在しない。昔から、周囲の村が土砂に巻き込まれたり、洪水に悩まされた際には、大広間を貸し出すのが習わしだと聞いた。今回に限って言うと、グロスタール伯から頼まれたらしい。
そういうわけで普段より部外者の出入りが多いことは知っていたけれど、深い関心は有していなかった。民間人は士官学校より奥に行かないことになっているし、生徒は生徒で大広間への立ち入りを禁じられている。食堂の利用時間も民間人と学生ではっきり分かれているため、普通に生活していれば大した接点はない。
今節は王国領へ出向く用もないし、ローレンツから「毎年あることだから、雨が止み次第すぐ通れるようになるだろう」とも聞いている。些細な雑談のはずがたちまち「ローレンツんとこは土いじりが駄目なんだよなあ。外交と調練にばっか力いれてるから、毎年こうなる」「土すらないリーガン領と同列に語らないでほしいね」という口論に発展するのだから、一瞬たりとも気を抜けない。
無論、彼らの不仲に頭を痛めているわけではない。罵り合っているようで、互いの事情はよくよく分かっているのだ。ナマエが気を張っているのは、有力貴族の嫡子として多くのことを学んできた教え子から「先生はどう思う?」と振られた時「リーガン領は行ったことがないから分からない」では様にならないからだ。
早いもので、ナマエが金鹿学級の担任になってから半年弱が過ぎた。
いい加減慣れても良い頃だろうし、実際生徒たちにはかなり打ち解けた自負がある。それでも、未だに教師とは名ばかりで、学ぶことのほうが多い。
ヒルダから「毎年毎年、雷にも慣れちゃいますよねえ」と言われてみても、ナマエは昨年の秋が如何だったか思い出せなかった。もっと言うと「夏は暑くて、秋は涼しい」という“常識”を知ったのも、ガルグ=マクへ来てからのように思う。過去を振り返ってみても、ナマエの記憶にある四季は、「そういえば山越えの時、水筒が壊れて難儀したものだけれど……あれは夏だったのかなあ」程度のものだった。
些細な雑談から、与えられる課題から──ナマエは様々な本を調べ、時には説教覚悟でセテスに話を伺いながら、教師らしく振る舞えるよう日々尽力している。
そうした多忙のなかで、地理について関心を持っても、民間人にまで目が向かないのが実情だ。何より、今は何を考えていても今節の課題に意識が飛ぶ。
ナマエの最近の関心事は数週間後に控えた鷲獅子戦についてだった。
無知なナマエなので心中「鹿はないのかな」と思ったものの、由来を調べて納得した。王国が帝国からの独立を勝ち取った際の戦になぞらえ、各学級三すくみで模擬戦を行うらしい。流石に毎年恒例というだけあって、生徒たちは皆知っていた。
出身地別にクラス分けされるため、愛国心や対抗心が煽られるのだろう。
普段はのほほんとしているヒルダでさえ「これって同調圧力ですよねえ」と不貞腐れつつ、せっせと訓練場へ通い詰めている──幾分重たげな足取りではあったが。
引っ込み思案なマリアンヌも皆が頑張ってると思うと、それが支えになるのかもしれない。ハンネマンに質問をしたり、クラスメイト相手に治癒魔法の練習をして、頑張る様子が微笑ましい。その一方で、根が好戦的なフェリクスやカスパルは暴走しがちである。ナマエが訓練場が閉まるまで生徒に付き合う理由の八割は、この二人を追い出すためだった。二人とも他学級の生徒なのだが、訓練場の施錠を任された騎士団員には些細なことらしい。訓練場から一番近い部屋で寝起きしているのも関係して、毎日のように「どうにか連れ出してください」と頼まれる。
そうはいっても癖の強い二人が一度の指導で「はいそうですか」で納得するわけもなく、ハンネマンとマヌエラに相談したのだが──二人ともが「生徒たちの自主性に任せる」と宣言したため、結局ナマエが対応することになった。まあ年功序列で考えれば、こうした肉体労働はナマエが担当するべきなのかもしれない。
ナマエは頑張った。
カスパルは何故か「己の力を持て余したナマエは血湧き肉躍るが故に一番最後まで訓練場にいたいのだ」と考えているらしかったが、本音はそうではない。
元々二人だった“門限破り”は、何故か日々増殖していく。専門外の弓術についてアドバイスを求めるクロード、肉弾戦の助言を乞うラファエルは未だ良い。アロイスやシャミルのほうが詳しいのに……とは思っても、担当学級の生徒だ。
問題は「師、今日こそ私の斧を受けてもらいます」と宣戦布告するエーデルガルトや、「先生に見て貰うなら斧より剣だろう」と割って入るディミトリである。
『先生、鷲獅子戦まで無事でいられるかなあ』
日に日に賑々しさを増す訓練場を見渡して、ヒルダは笑った。
縁起でもないと思ったが、他学級の生徒が「師、私が先です!」「俺は剣を見て貰うんだ」と騒がしいのはそうした目論見があってのことなのかもしれない。
それでも、活力溢れる生徒たちに何とか門限を守らせ……見回りの騎士団員に「先生に頼んで良かった」と言われるようになった。それに、ディミトリやエーデルガルトは級長を任されるだけあって、鐘が鳴ると同じクラスの生徒を連れて行ってくれる。ツンとした表情で「私は級長ですから」と言うエーデルガルトを前にすると、ナマエがフェリクスと押し問答をする様を見て笑うクロードは何なのだろうと思わないでもない。気ままなネコチャンかな。エーデルガルトにドナドナされるカスパルを見ると、ナマエは心の底から「エーデルガルトがいて良かった」という感謝の念が湧くのだった。黒鷲学級を受け持てば良かったかナ……とさえ思う。
しかし問題児仲間(カスパル)を失っても尚フェリクスはしぶとかった。
『昨日は俺も些か大人げない態度だったと反省した。お前の言うとおり、確かに雨風の防げない訓練場で寝起きするのは体力低下、疲労感の増加に繋がって効率が悪い。そこで考えたのだが、訓練場から一番近いお前の部屋に住もうと思う』
真面目くさった顔のフェリクスにそう提案されたのは、一昨日のことだ。
小脇に枕を抱えたフェリクスは、いつも通り真っ直ぐな顔をしていた。
こんな時にそんな真っ直ぐな目をされても困るのだが、何事にも体当たりで向かっていくのはフェリクスの長所だ。そういう感じの褒め言葉でお茶を濁せないかなアと思ったものの、生憎ナマエは口下手である。そもそも「俺は寄る辺のない野良猫だ」と言わんばかりの真っ直ぐな目をしているフェリクスは、その実貴族のお坊ちゃまである。枕一つで寝るのは……野営経験豊富なフェリクスだから、床の上でも寝られるだろう。フェリクスが良くても、ナマエは良くない。何故といえば、生徒が床に転がってるのを尻目に一人ベッドで寝られるほど図太くないからだ。
ヒルダの冗談を真に受けたわけではないが、生徒たちより先に自分が倒れるかもしれない。癖の強い生徒(フェリクス)と上手くやっていく傍ら、自分の体調にも気をつけよう。そのためには、決してフェリクスを部屋に入れてはならなかった。
幸いにして、ナマエが根負けする前にイングリッドが駆けつけてくれた。
“コト”に気づいたディミトリが知らせてくれたらしい。二人掛かりで説教されるのは流石に堪えたようで、最終的にディミトリに担がれながら去って行った。
なるほど、イングリッドは「並の男より騎士道精神に満ちている」と評されるだけはある。ディミトリにしろ、やはり臣下の規範となるべく厳しく躾けられたのだろう。二人揃って「ご迷惑をおかけしました」と詫びる姿は凜々しく、ディミトリの肩の上で「体面を考えろと言われたが、俺がお前の部屋で寝起きすることの何が問題なんだ」と喚くフェリクスも目立たない。ウソ。めっちゃ目立つ。本当のことを言うと、フェリクスは幼なじみ相手に善戦した。二人掛かりで説教されているにも関わらず、フェリクスは全然強気だった。ディミトリもまた「もうこんなのロドリグを呼ぶしかないじゃん……!」の境地になったようで、物理的に論破した。物理的に論破するというのは、ワアワアはしゃぐフェリクスを担ぎ上げることだ。
温室と訓練場が逆になればいいのに。そう嘆きながら、フェリクスは連れ去られて行った。ナマエは三人を見送る傍ら、柱に寄りかかって爆笑するクロードを視界の端に認めた。めっちゃ笑ってる。多分ディミトリたちが駆けつけた直後ぐらいから、ずっと聞いていたのだろう。クロードの爆笑とディミトリの説教、そしてフェリクスの不平不満がコンチェルトのように混ざり合う。ナマエはそれに耳を傾けながら、「もっと早く来い」とか「お前はもう私の級長ではない」と述懐した。
フェリクスがずば抜けているとはいえ、問題児は少なくない。
クロードのことではない。勿論見た目が若く、舐められているせいもあるのだろう。神に誓ってクロードの話をしているわけではない。ハンネマンやマヌエラと並んだとき、ナマエが一番押しが弱いし──まあこの二人が人並み外れて押しが強いのだが──何にせよ、教職に就いてからというもの日々自分の未熟さを痛感する。
正直言って、レアから士官学校の様子を見てくるよう勧められた時も、「自分のような人間を教師として認める生徒なぞいるまい」と考えていた。そう思うと、生徒たちは良く慕ってくれるほうだ。そんな彼らが少し個性的なぐらい、許容して然るべきだ。疲れるだの何だの、文句を言っては罰が当たる。それに男子が問題児揃いな分、女子には年より大人びた生徒が多い。リシテアはその最たるものだ。
勿論ベルナデッタやマリアンヌは引っ込み思案だし、ヒルダは何かとサボろうとする。優等生のリシテアやエーデルガルトにしろ、全く無理を言わないわけではない。それでもやっぱり、ナマエが草臥れている時に我を通す生徒はいなかった。
口では「仕方ないなあ」と言いつつ、みんな優しい。よっぽど男子に振り回されている時には、庇ってくれることもあった。イングリッドには感謝してもしつくせない。イングリッドがいなければ、ナマエは今頃同居人に悩まされていただろう。
ナマエはイングリッドへの感謝を胸に、規則正しい睡眠を心がけることにした。立派な教師になることは難しいが、兎に角規則正しい睡眠を取れば明日一日また問題児たちに付き合える。クロードのことではない。百年眠ったところで、クロードに敵うはずがないのだ。ナマエはクロードについては、彼の良心と節度に任せることにしている。ある意味では、クロードは一番手のかからない生徒だった。
要するに面倒くさいときは死ぬほど面倒くさいのだが、そういうときはヒルダとローレンツが何とかしてくれるので、生徒に甘えたまま今日を迎えた。
クロードは“問題児”という言葉では説明しきれない、不思議な生徒だ。
ナマエは時々、自分の無知を一番知っているのはクロードではないかと思う。
産まれてからずっと一緒に暮らした父親より、ありとあらゆることを識るレアより──誰よりも、あの年若い、出会ったばかりの子どものほうがナマエのことを理解している。無論、そんなことはあり得ない。ナマエがそう思うのは、クロードの物の考え方が自由で、その口から出る言葉にいつも驚かされるからだ。
エーデルガルトやディミトリは、付き合いが深くなるにつれ年相応に幼い面も見えてくる。それに、この二人については自然と“双肩に背負った重荷”が偲ばれた。
それぞれに国を率いることが決まっている二人。幼い内から家臣や国民にその一挙手一投足を監視されるなか、“子ども”でいられる時間は短かったのだろう。
その子ども時代が果敢無かったのと同じに、青春さえ長くはない。ガルグ=マクで過ごす一年だけが、あるがままの若さを振りまける機会なのに違いなかった。
そう思えば、エーデルガルトとディミトリが年相応にあどけないのはごく自然なことだ。寧ろ“恣意的”でさえあった。二人とも自分が何者なのか、他人から何を求められていて、それを叶えるために如何振る舞えば良いかを完璧に把握している。
単なるエーデルガルトとディミトリで居られるのが今だけだと知っていて、素の感情を晒してくれる。数ヶ月後にはもう触れることのない“幼さ”だった。
一方のクロードには、恣意的な部分がまるでなかった。
他人が考えるところを推測し、自分の望む方向へ転がす技量に長けるくせ、“自分が何を考えているか”はまるで制御しようとしない。ナマエの目には、クロードはその場その場で自分の感情に流されることを楽しんでいるように見えた。
責任感がないわけでも、弱者への憐憫がないわけでもない。未来の盟主として、十分な度量があると思う。ただ……エーデルガルトたちとは、何かが違う。初めは「嫡子になって短いからだろう」と思っていたのだが、それもしっくり来ない。
確かにエーデルガルトが帝国を思う時の情熱や、ディミトリが王国を語る時の慈愛は、クロードのなかにはない。そうは言っても同盟領については詳しく、土砂崩れに巻き込まれた者がいないか案ずる顔は“未来の盟主”そのものだった。
考えれば考えるほど、クロードのことが分からなくなる。
担当学級の級長だけあって数多くの生徒たちのなかで誰より関わりが深いと思っているし、信頼もしている。それだけに彼の人となりに自分なりの見解を見つけたいのだが……布団のなかで考えるには不向きだ。ナマエは深いため息を漏らす。
雨風で冷えた空気が戸の下から、窓ガラスと枠組みの僅かな隙間から滑り込んでくる。野宿に慣れているのもあって、未だ夜毎雨戸を閉めるほどではないと判断したのはナマエだ。カタカタ揺れる音を聞いていると、“無駄な手間を省いた”というより“惰性から判断を誤った”風に感じる。眠れなくはないが、少し寒い。
板張りの部屋は保温性に優れるものの、背面に並んだ窓が暖気を吸い取っていた。それでも布団にくるまっていれば温かく、心地の良い疲労感に包まれる。
幸いにして、ソティスも留守に──いや、精確には眠っていると言うべきか。
ルミール村を発つ前の晩出会った不思議な少女は、ナマエの前に現れた時と同様に突然姿を消すことがままある。ソティスの言によると、その間は眠っているらしい。きっとナマエのなかで眠っているのだろうから、留守というのは些か不適切な表現だろう。何にせよ、ソティスのことも寝入りばなに考えるべきではない。
クロード同様、ソティスについても好意的に感じている。しかし寝入りばなにああだこうだと話しかけてくるのは正直弱った。ナマエ以外に認知されない孤独を思うと丸きり無視するのは躊躇われるし、何よりナマエ自身翌朝のことを忘れて彼女の話に聞き入ってしまう。そういうわけで、たまの“留守”は有難かった。
さあ寝よう。ナマエは目を瞑って、思考を止めた。
明日は日曜日……つまり日中の授業がない分、朝から晩までワンパクな生徒たちに振り回されるに決まっていた。楽しいような怖いような気持ちで微笑する。
──そういう晩に限って予期せぬ来客があるものだ。
「先生、せんせー? あんた起きてるだろ」
雨音に紛れて、トントントンと一切の遠慮がないノックが聞こえてくる。
目を開いても尚、ナマエは居留守を使うか悩んでいた。
この寒い夜に、布団から出たくない。増して、戸の向こうで自分を呼ぶ声に緊急性がなければ「明日にしてほしい」と思うのも仕方なかろう。脳内のベルナデッタが「こんな真夜中に訪ねてくるなんて、おばけに決まってます! ベルは絶対に寝台から出ません!」と擁護してくれたものの、結局ナマエは寝台を降りた。
腐っても教師だ。若く未熟な自分が生徒の信頼を勝ち得るには、彼らに歩み寄る努力を惜しんではならない。声の主にナマエの努力や献身が伝わるとは思わなかったが……いや、聡明な青年だから伝わるには伝わるだろう。寧ろナマエが伝えたいこと以上に汲み取ってくれるに違いなかった。ただ、彼にとっては、ナマエが自分のために戸を開けるのは“必然”なのだ。そこに感謝があろうはずもない。
幼少時からの癖で、来客の下へ向かう前に枕元の剣を片手に持つ。ベルトは良いだろう。万が一のことがあれば敵と戦ったのちにブン投げた鞘を探す羽目になるが、万が一は万が一だし、寝間着にベルトをつけるのは中々間抜けな恰好だ。
トントントンと急かす相手を焦らすように、ナマエはのろのろ戸に向かった。
「先生、あんた随分と不名誉な噂が流れてるぞ」
ナマエの顔を見るなり、クロードはそう言い放った。
ナマエは酒気帯びた息を漏らす生徒を前に、眉間にしわを寄せた。
間延びした声で呼ばれた時から「まさか」と思っていたものの、その“まさか”であった。夜間に何事かと思って戸を開ければ“ベロベロ”手前のクロードがいた。
薄褐色の皮膚が朱に染まり、頭蓋に熱がこもるのか片手で額を押さえている。
入り口脇に寄りかかってるところを見ると、平衡感覚にも難がありそうだ。
ナマエも額を押さえたくなってきた。「……まるで、真夜中にずぶ濡れで担任教諭の部屋を訪ねるのは礼に適っているかのような言い様だ」頭を抱えて呻く。
親しい者同士の仕草は自然と似通うというが、その通説と関係するのか──もしくは酒の飲み過ぎで、クロードの胃から酒が湧くようになったかだ。酒臭い。
「ああ、そうだ。リーガンの嫡子になって真っ先に躾けられたのがこれだった」
ナマエは深いため息をついた。
先述の通り、鷲獅子戦が数週間後に迫っている。
無学かつ根無し草のナマエにとって、その模擬戦がどれほど重大なものかは分からない。それでも生徒たちの気持ちに添うよう、精一杯努力しているつもりだ。
ナマエだけではない、マヌエラもハンネマンも──どの授業でも座学を削って、実技に時間を割いている。「何もしないでいるのが苦手」と口にして止まないアネットでさえ「このところ、お風呂から上がったらすぐ動けなくなっちゃう」と漏らしている。……いやクロードに失望したとか、怒っているわけではないのだ。
今日の午後も熱心に弓を引いていたし、イグナーツと二人で地図を覗き込んで地形や陣形について議論を交わしていた。間違いなくクロードも皆と同じだけ頑張っていると思う。それどころか“流石は級長だけあって一際頑張っている”と言っても良いだろう。ただ……それでよく酒を飲む元気があるな……と驚いてしまう。
普段より多忙な日々を過ごしているはずなのに、普段より強かに酔っているのは何故なのだろう。宴が好きだとは聞いていたし、赴任したての頃にもてなしてもらったことも、他人に近づく手立てに巻き添えを食ったこともあったけれど──酒を飲むとは思わなかった。憂さ晴らしだろうか。もっと言うと「こんなに酒を飲むなんて、何かしらのストレスが溜まっているのだろうか」とも思った。
ナマエは──これまでの対人経験が乏しいため、大した重みはないかもしれないけれど──ナマエは、クロードほど聡明な人間を知らない。だから、きっと何らかの理由はあるのだろう。しかし今はただ頭を抱えることしか出来なかった。
「もっと大きい声で話してくれ、さっきから二階のディミトリが聞き返してる」
「冗談」クロードは大仰に頭を振って、彼らしくもなく口を尖らせた。「あの石頭に知れたら、ここがグロンダーズ平原になっちまう。級長としての品格が問われるとか何とか言って──エーデルガルトも叩き起こして、駆け付けるだろうよ」
心なし小声で囁くと、クロードはナマエを押しのけて部屋に滑り込んだ。
どの道、暫くナマエの部屋で休ませる他ないだろう。酔い醒まし程度でマヌエラを起こすのも気が引けるし、週末にあたる今夜は未だ帰ってないかもしれない。
ガルグ=マク大修道院を取り巻く要塞は、日が昇っていない間は門を重く閉ざしている……というのは建前で、内外を行き来するための通路は幾つも存在する。勿論その通路には昼夜を問わず番兵が詰めているわけだが、顔見知りになってしまえば何てことはない。マヌエラが勝手気ままに街へ出るのは、周知のことだった。
ナマエは後ろ手に扉を閉めて、二回目のため息を漏らした。
クロードのことだから、びしょ濡れなのはナマエの部屋に上がるためだろう。
何の用かは分からねど、クロードの思惑通り部屋に上げてしまった自分が恨めしかった。信頼もしているし、彼の好奇心を目の当たりにすると楽しいとも思う。
しかし、たまの週末ぐらいは静かに眠らせてほしい。
「君は少しディミトリを見習ったほうがいい」
ナマエは苦言を漏らしつつも、衣装箪笥からタオルを取り出した。
クロードに向けてポイと投げると、中空で広がったそれを器用に受け止める。
「私も風紀についてとやかく言える身分ではないけれど、幾ら週末とはいえ、こんな時間まで騎士団員たちと騒ぐのは良くない。増して、雨風も凌がないで──」
「あんた、男に乱暴されたことがあるのか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
呆然と立ち尽くしていると、クロードはタオルを頭に被ってしゃがみ込んだ。
「悪い、ごめん──今のは言い方が悪かった。ちょっと待ってくれ」
ラグの上に腰を下ろしたクロードは、重たげな上着を脱いで膝に置く。
ナマエはと言えば、丸っきり想定外の台詞に何も分からなくなってしまった。
元々過去に頓着しないのもあって、何故そんなことを聞かれるのか分からない。多分男に乱暴されたことはないけれど、単に“はい”と答えて納得して貰えるとは思わなかった。そもそも、一生徒に自分の貞操の話をして良いのだろうか。
ナマエの気も知らずに……もしくはナマエの困惑をよくよく知ってのことか、クロードは無言で頭を拭いている。いつもだったらベラベラベラベラ、聞いていないことまで喋ってくれるのに、聞きたいことがある時に限って何も言わない。
ぐるぐる考えながら、追加のタオルをクロードの膝に掛けた。タオルの代わりにクロードが脱いだ上着を拾い上げて、椅子の背に広げる。すぐ乾くとは思わなかったけれど、今のうちから干しておけば多少なり型崩れを防げるだろう。
ナマエは何となく居たたまれない気持ちになって、クロードの傍に座り込んだ。
恐らく、先ほどの“不名誉な噂”とやらがナマエの貞操に纏わる話なのだろう。
一体何故ナマエの貞操の有無が他人の関心の的になるのか分からない。ガルグ=マク大修道院付属の士官学校に勤めるからには、男性経験のない女性が望ましいとか、そういうのがあるのだろうか? そうは言っても確か、セイロス教では自由恋愛が認められているはずだ。当代の大司教であるレアがたまたま未婚なだけで、「修道女や司教などの聖職者であっても、自由恋愛が許されています」と聞いた覚えがある。女神は常に人間への慈愛に満ち、その繁栄をお喜び下さいます。そう付け足したのは、セイロス教の最高指導者にあたるレアだ。「なるほどね」と思って鵜呑みにしてしまったものの、違う考えを持つ者もいるのかもしれない。
さりとてクロードが「ふしだらな女は教師に相応しくない」と言い出すようにも思えなかった。一体何故、何故クロードはナマエの貞操の有無を知りたがるのだ。
「俺、酔ってるのかな」
クロードは頭にタオルを被ったまま、ぽつんと呟いた。
その声音は平坦で、無感動な印象を覚える。顔に垂れ下がったタオルを退かさない限り、クロードの感情を推し測れそうになかった。本当に酔っぱらっているのなら「その通りだ、さっさと寝ろ」と言って部屋から閉め出したいものだ。
ナマエは手に持ったままの剣を脇に下ろすと、わざとらしく腕を組んだ。
「会話が成立する様子がないし、その可能性は高そうだ」
ヤレヤレと言わんばかりのため息を受けて、クロードの気配がほっと緩む。
「いや、分かってるんだけど……先生の顔みたら、これって結構無礼なんじゃないのか?って気づいちゃって、そう気づいたら、なんていうか」
僅かに躊躇したのは、多分、クロード自身よくわかっていないからだ。
「そもそも何で……何を聞きに来たのかわかんなくなった」
兎に角、まあ、ナマエの不貞を理由に解任を迫りにきたわけではないらしい。
まさか本気でクロードがそんなことを言い出すと思っていたわけではないが、未だに自分なんかが教師で良いのかという引け目がある。もしナマエが教師として相応しくない相手だったと判明した場合、やはりクロードは一番に話を聞きに来るだろう。それは、ナマエが“教師として信頼されている”と己惚れているからだ。
ナマエは無知で、この子たちより知らないことも、分からないことも沢山あるけれど、少なからず信頼されていると思う。心の柔らかい部分を見せる程度には。
ナマエはまじまじとクロードを見つめてから、ベール代わりのタオルに触れた。
「もう髪を拭く必要はないだろう」タオルを引っ張り下ろすと、決まり悪そうな顔が露わになる。「とりあえず不名誉な目にあった覚えはない。安心しなさい」
額に張り付いた髪を払いのけようと、手を浮かす。
クロードがその手を軽く振り払った。
「そうやって訳知り顔で諭されるよりは、叱られたほうがずっとマシだね」
「なるほど、それでは叱ろう」
可愛げのない教え子に、ナマエは腰を浮かせた。咄嗟に身を引いたクロードの胸ぐらを掴んで、お望み通りの“説教”を浴びせる準備を整える。
「ただでさえ長雨で寒い思いをしているのに、寝入りばなをたたき起こされる私の身になって考えなさい。何か悩みがあるのか、ストレスが溜まっているのか、級長としてのプレッシャーがあるのか……私の案じる気持ちが分からないわけではないだろう。増して、目上の──しかも異性に貞操の有無を問うのは、マヌエラ先生やカトリーヌ相手ならぶん殴られても可笑しくない非礼だと気づかなかったのか?」
藍色の瞳で見つめられたクロードは、苦笑と共に顔を引きつらせた。
白旗代わりに両手を上げる。
「……訳知り顔のほうがマシでした」
ナマエはフンと鼻を鳴らした。
クロードの胸ぐらから手を離し、浮いた腰をラグに下ろす。
「乗りかかった船だ、どういう経緯で噂を知ったか話してくれ。
他人に何を騙られたところで如何でも良いけれど、私にも好奇心はある」
「いや、俺も男だ。女性の前で貞操があるだのないだの無礼な話は出来ない」
キリリとした顔で居ずまいを正すクロードを、じっと見つめる。
「……要するに、今の今まで私のことは女ではないと思っていたと?」