退屈な身の上ばなし

 千砂登は明治三十六年生まれの成人女性だ。2001年の正月、九十八歳になった。
 明治・大正・昭和・平成と実に四つの元号を跨いで生きる千砂登は、しかしその何れの時代についても無知だった。二十二で渡仏してからずっと、帰郷する機会に恵まれなかったからだ。特別帰りたいとも思わなかった。それ故に千砂登の知っている“日本”は、彼女の幼少期に限られた。
 千砂登の産まれた“黒賀村”は、機内の小さな村だ。山野を切り拓いて田を作り、それでも尚尽きることのない山々に守られている。隣村へ行くのにも一日がかりの、有り触れた田舎の一つ。
 楽しみは年に一度の人形相撲と、貸本屋を兼ねた万事屋で回し読む少年誌。農閑期にしか入荷されない“それ”を擦り切れるほど読んだのは、冒険小説目当てのことだ。途切れ途切れに読んだ“十五少年漂流記”の結末を知ることはなかったけれど、しかし千砂登の憧憬を煽るのには十分だった。
 幼心に「冒険家になろう」と思っていたが、千砂登は結局冒険と無縁の道を歩むことになった。

 七歳の早春、千砂登は“年上の友だち”に乞われて井戸へ入った。
 夜更けに山が騒がしいのが怖くて、せめてもの武器代わりにスコップを持って外へ出た。出てすぐのところにある井戸の屋根が崩れていて、何の気なしに中を覗く。そこにいたのは、産まれたばかりの妹分と、小さな彼女を天に掲げる友だち。二人が浸かっている水はバラ色に染まり、木々の向こうから粗暴な話し声が近づいてくる。千砂登にはもう選ぶ余地はなかったのに、それでも身の振り方を決め損ねていた。井戸に手を掛けて、二人を見下ろした夜を繰り返し夢に見る。
 少しずつ水面に飲まれていく友だちが、千砂登の手に握られたスコップに気づいて助けを乞う。

『チサト、もう私はダメです。でも、うまく“はいすい”出来ればエレオノールは助かる』

 今にして思えば、千砂登にしろ井戸へ入らなければ結局命はなかったのだ。
 山の中腹にある廃屋は元々千砂登の伯父が有していたもので、小さな井戸があって飲み水にも困らないことから“秘密基地”として重宝していた。あの日も、そこで冒険小説を読む内に寝落ちてしまったらしい。隣村のお祭りがあることなどすっかり忘れていたし、両親にしろ千砂登に“別宅”があるのは承知していて、一日二日留守にしたぐらいでは探しにも来ないのだった。
 あの夜、村人全員が出払った黒賀村に残った──招かれざる客の来訪などまるで知らず、井戸の石組みに手を掛けて中を覗いた。その時点でもう千砂登の運命は決まっていたのだろう。
 私はもうダメです。そう断じる声音は苦渋に満ちていて、友だちは随分悩んだに違いなかった。幼く愚かな千砂登が薔薇色の水面に目を奪われているなか、千砂登の何倍も物識りで、千砂登の一方的な友だち扱いに小首を傾げるだけだった彼女が、仕方なしに千砂登の人生を値踏みした。
 今ここで自動人形に殺されるか、この井戸のなかで死ぬか、それとも……。

「なげぇ」
 自分から聞いてきたくせに?

 続けざまに「あきた」と漏らしたキッズが、鉄パイプをブンブン振り回す。
 千砂登は口を閉じて、自らを律した。千砂登は今年九十八歳、あと数ヶ月で白寿を迎える立派な大人だ。人生にヤケクソになっていても、それは幼児に意味不明な話をする理由にはならない。喩えその幼児自身に「てかお前、なんでここにいんだよ」とタメ口で問われたのだとしても。
 元々千砂登は口下手な性質だ。しかも千砂登の長い人生において、他人に気軽に話せる経験が一切ないため益々口下手になった。得意は作り笑顔とお世辞、他人を騙すこと。馬鹿馬鹿しい。
 百年弱も生きてきたくせに、千砂登は碌な人間になりはしなかった。こんな掃きだめに流れ着いたのも、正直言って自然な成り行きのようにも思う。千砂登の人生は七つの時に過ちを犯してからずっと、間違いだらけだった。その長い人生において何一つ生み出すことはなく、破壊と虚実、そして嫉妬だけが千砂登の原動力だった。座敷牢で暮らした十五年も、渡仏してからの七十五年も、そこに千砂登としての意思は一切介在しない。妬ましいとか、憎らしいとか、そんな気持ちで胸が一杯になっていても、頭蓋に響く声は拭いされなかった。エレオノールをたすけて。

 九十年もの長きに渡って、千砂登を蝕んだ声はすっかり消え失せていた。
 千砂登の体に不死の呪いだけを残して、フランシーヌは消え去ってしまった。エレオノールも。

 あの夜、井戸をいっぱいに満たしていた薔薇色の水。
 正式にはアクア・ウイタエ──生命の水と呼ばれることもある“それ”は大量に生成された場合、万能の溶解液となる。溶けたものの記憶を保存し、飲んだ者はその記憶に支配される。その他、主な効能に身体機能の向上、老化の遅延が挙げられる。単純に言ってしまえば“万能薬”。
 七つの千砂登はそれを飲んだ。千砂登の意思は関係ない。アクア・ウイタエに浸っている人間に、それを飲むなと言っても無理な話。幼心に薔薇色の水を飲むのは怖かったけれど、口の中に入ってしまえば仕方なかった。最早全てを知っている友だちさえ何も言わずに内壁を削っている。
 井戸の底でグズグズに溶けていくフランシーヌから託された赤ん坊を抱いて、千砂登は彼女が削った場所を健気にスコップで叩き続けた。ようよう内壁が剥がれ、土が姿を現した時にはもう腕の中の赤子は銀髪銀眼に変貌していた。それもまたアクア・ウイタエの効能の一つとも知らない千砂登の背後から、背骨のなかから、臓腑に寄りそう声音で囁く者がいる。エレオノールをたすけて。
 アクア・ウイタエは全ての病を治し、飲んだ者を不老長寿にする魔法の薬。そんなことも知らずに口にした千砂登は、フランシーヌが知る全ての知恵を得た代償に、彼女の最初で最後の感情に縛られて生きることを余儀なくされた。腕の中の赤ん坊が身をよじって泣いている。誰かの声に突き動かされて、千砂登は赤子をあやした。ただの妹分に過ぎなかった彼女が、つい昨日まででんでん太鼓を叩いてあやしてやったこの子が、妹のように思っていた相手に全てが踏みにじられる。
 どれほど呪っても、千砂登には彼女を守るしかなかった。頭のなかのフランシーヌが囁くから、アクア・ウイタエを飲んで“しろがね”になった千砂登には頼る人がいなかったから、彼女を守ろうとする人々が“千砂登”という犠牲に目を瞑ったから、千砂登は家名を忘れるしかなかった。

 座敷牢のなかで十五年を過ごすと、千砂登の外見年齢は十歳になった。
 家庭教師代わりの青年から、外見年齢のことを“しろがね年齢”と言うことを教わった。
 最初の頃は様子を見に来た母親は、五年も経たない内に千砂登の顔を見に来なくなった。娘は死んだと思っているらしかった。事実死んだことになっていたので、誰も母親に何も言わなかった。
 十五年。千砂登は父親に人形繰りと人形造りを教わりながら、弟妹たちが学校へ上がり、友だちを作って、やがて見合いをし、婚約者との逢瀬を楽しんだ末に結ばれるのを漫然と眺めていた。
 いつからか冒険小説も読まなくなってしまった。真夜中のサーカスを連れて世界中を歩いたフランシーヌの記憶を持つ千砂登は、最早この世界に未踏靴の場所などないことを知ってしまったからだ。睡眠さえ要らなくなった体で人形を繰りながら、時折夏祭りに行った自分のことを考える。
 黒賀村という機内の田舎に生まれた千砂登は、小学校を卒業してすぐ家業を手伝うようになって、十六七で村内の男と結婚する。年娘になってみたいと、友だちとはしゃぐこともあったかもしれない。しかし妹たちが皆嫁いでも千砂登の体は十歳で、母親は妹たちに七つで死んだ千砂登の話をする。お前達の姉さんはとても頭が良くて、小学校に上がる前からもう読み書きが出来て、活発で運動神経も達者で、それはもう正二様の奥様にも劣らぬ美少女だったのよ。私の宝物だった。
 しろがね年齢で十歳になると、フランシーヌのことも、エレオノールのことも、母親のことも、父親のことも、全部をなかったことにして、叔父夫婦の娘という“設定”を背負ってフランスへ渡った。数年遅れでフランスへやってくるエレオノールと出会い、彼女の良き友、良き姉貴分として存在することが千砂登の役目だった。エレオノールがふつうの人生を歩めるように、フランシーヌの作った化け物と戦い、自分を殺して生きる。九十年。それが千砂登の人生だった。

 2001年八月、千砂登はローエンシュタイン大公国で無数の自動人形を相手に死んだはずだ。
 自分の操る懸糸傀儡が粉々になるのを見届け、自らの四肢が千切れて石化するのも知覚した。しかし今千砂登はゴミためのなかに座って、知らない子どもと下らない雑談に興じている。
 目が覚めた時にはもう有り触れた白いワンピースを身につけた状態で、ここにいた。他は自分の懸糸傀儡の頭部が膝上に乗っていただけで、身分証も財布も携帯も、工具も、あのとき持っていたものは何も持っていない。その代わりとでも言うように、自動人形に引き裂かれ、砕け散ったはずの四肢は元通り生えていた。石化が始まっていた腹部も、人間の肌に戻っている。喩えフウ・インダストリーの技術を持ってしても、こんなことは出来ないだろう。そもそもフウの立てた全ての計画が成功し、自動人形の残骸の下敷きになっていた千砂登を救い出して治療したのだとして、そもそも彼はゴミために知人を置き去りにするような男ではない。ギイならするかもしれないが。
 あたりを探索したら幾らか現状把握に役立つのだろうが、今の千砂登にはそんな元気さえ無い。

『エレオノールのために、君の人生を奪ってしまった』
 幼い日、千砂登の家庭教師代わりとして様々なことを教えてくれた男が言った。すまない、と。
 君の歯車にヒビが入って壊れていくことに目を瞑り、君を利用することしか考えなかった。エレオノール同様に君にだって普通に生きる権利はあったのに、それを尊重しようとはしなかった。
 僕に付き合って一緒に死ぬことはない。君は未だ若い。戦うことを止めれば、生きていくことは出来る。君は僕を愛してはいないし、僕も君を愛してはいない。ただ、呪っているだけだ。
 そうだ。九十年前から千砂登の自由は他人を呪うことだけだった。この男を呪った。エレオノールに“異性”として見られることを忌避した彼の“恋人役”を務めながら、繰り返し彼を一番傷つける方法を探していた。所詮自分なんかに傷つけられはしないと分かっていて、それでも皆んなが幸せになった世界では生きていたくないと思った。一分一秒でも早く、この男よりも先に死にたい。

 もう全んぶ手遅れなのよ。あなたも見たでしょ、わたし、帰る場所なんかない。
 黒賀村はわたしが子どもの頃から全然変わらない。あの道も、あの川も、空の色さえ全部九十年前と同じだった。でも、わたしの知ってるひとはみんな死んでしまったの。私も死んだ。あなただって、私の葬式に出てくれたのでしょう。七つで死んだ立派な私は、九十年の長い余生をここで終える。ギイ・クリストフ・レッシュ、あなたにぐらい化けて出たって良いでしょう?

 死に損なってしまった。
 しかもこんな、よく分からない場所で蹲ったまま一歩も動けなくなっている。たまたま話しかけてきた子どもに昔話をしようとして「なげぇ」で瞬殺されるし、何もかも馬鹿馬鹿しい。

「……やっと死ねると思ったのに」
「じゃ、おれが殺してやるよ」
 九十八年生きてきたけど、有言実行で何の衒いもなく心臓を突かれるのは初めてでしたね。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -