露天商の客引きの声と通りを行く人々の雑談、行商人たちが引く馬の嘶き。

 茂みを揺らす風のように、鬱陶しく纏わりついてこない喧騒を抜けながら、ドリスは舌の上に粘性の甘味を転がした。彼女の後ろには数人、ドリスと同世代の子供が続いている。ウォール・マリアから壁外まで続く真っ直ぐな通りは、軍列が往くことを想定して、道幅を広くとってあった。この道が人で埋まるとすれば、それは調査兵団の往来があった時のみで、それ以外では十分な人出があってもまた往来に余裕がある。子供がパタパタと軽やかに駆けまわり、はしゃいでいてさえ何ら他人に迷惑をかけることはない。
 ドリスはワンピースのポケットに手を突っ込むと、ザラリとビー玉をさらった。華奢な指の隙間から一つ二つ零れ落ちていったが、ドリスは気に留めなかった。ドリスの家の三軒隣に住む幼馴染が「ねえ、ビー玉落ちちゃったよ」と声をあげる。
「知ってるよ」
 ドリスは首だけで振り向くと、にこりと笑った。
「別に、私は広場さえ使わして貰えば良いんだもん」
 全く悪びれた響きのない台詞を口にするドリスに、幼馴染の少年は何とも言い難い表情で黙りこくる。ワンピースを着たドリスは精々がお転婆娘にしか見えない容姿をしていたが、その実シガンシナ区北部地域で女だてらにガキ大将を務めていた。尤も大人たちを縛る社会制度のように、何か彼女の立ち位置を明文化するものがあるわけではない。ドリスは裕福な家に産まれ、物おじするわけでもなく、人懐こくて、何より腕っぷしが強かった。彼女が子供社会に君臨する理由を言葉で説明する余地はないだろう。今日だって、南部地域にある空き地の使用権を巡って、そこのガキ大将をタイマンで負かして来たのだ。彼女のポケットに詰まったビー玉は、その戦利品の一つだった。
「……大事に集めたんだろうに、」詰るような声音に、ドリスは肩を竦める。
 このビー玉は、ドリスが差し出すよう強いたのではない。ドリスは単に、自分たちが空き地を使いたいときに譲って貰えるなら、それだけで良かったのだ。そうと言ったにも関わらず押しつけてきたものを、ドリスが如何扱おうと勝手だろう。
 ドリスは自分の隣に追いついてきた少年へ困ったような笑みを浮かべて見せながら、「そうだねぇ」とビー玉をポケットに戻した。

 ドリスは自分は友人が多い方だと自負しているが、その実同世代の子供たち独特の、鋭利な観察眼が苦手だった。そう父親に漏らすと「甘えたなだけだろう」と笑われ、「年上にばかり付き纏ってないで、ちゃんと同い年の子達と仲良くするんだよ」と付け足される。同い年に友達がいないわけじゃあるまいし、何故そんな注意を受けなくてはならないのか今ひとつ納得できない。まあしかし、父親がそれを“良くない”と思っているなら、それが客観的正論なのだろう。パキリと、ドリスの幼い歯列が飴玉を砕いた。ねっとりと甘い口腔内を唾液で洗って嚥下させると、ドリスは己の後に続く友人達を振り向いた。「あ、ごめん」視界の隅を歩く人影に、ドリスは顔の前で両手を合わせる。「行くね」
 幼馴染が何事か言い出す前に、急いた口調で別れを切り出して笑った。

「また明日遊ぼう!」

 それじゃあと手を振り駆けていくドリスの背を、彼女の幼馴染はため息と共に見送る。
 憲兵団に勤める父を持つ彼は、ドリスの奔放さがよくよく心配になるのだった。また自分がドリスを気に掛けているほどに、彼女から関心を持たれていないらしいことも彼の不満事の一つである。彼以外の友人は誰もドリスの気まぐれを咎めようと思わないらしく、行っちゃったね等と他人事っぽい感想を漏らして散って行った。半ばドリスだけでもっている交友関係だ。それぞれ親しい相手はいるものの、ドリスがいなければこうして集うことはない。それはドリスが人と人を繋いでいるというより、彼女の内にある自分に群がる他人への無関心さから、誘蛾灯に過ぎないようだった。なにかを追いかけて遠ざかっていく背をどんなに見つめても、終にそれが雑踏に呑まれるまで、ドリスはただの一度も己の幼馴染やついさっきまで嬌声を交わし合っていた友人達を振り向くことはなかった。

「カルラさんっ」
 ウォール・マリア領内とシガンシナ区を結ぶ通路へ足を踏み入れたカルラは、袖を引く感触に振り向いた。薄暗い視界のなかでも、自分に手を伸ばすドリスの胸が、はあはあと荒く弾んでいるのが分かる。自分を慕うドリスが、その足取りを追うのは珍しいことではない。カルラは軽くため息をついてから、ドリスの頬についた泥を手で拭ってやった。
「また……どこで何をしてきたの?」
 咎める声音を作ると、カルラはドリスの頬をやんわりつねった。

 カルラにとって、ドリスは姪のようなものだ。
 実際には血縁はなく近所に住んでいるというだけで、年齢も離れているけれど、一緒にいて変に子守りをしているとか、付き纏われているという風に思うことはなかった。
 ドリスは甘えた風な笑みをこぼして笑う。「ねえ、見て、」ざらりと、硬質な音が響いた。「下のほうのガキ大将に勝ったの」ポケットから出した色とりどりのビー玉をカルラに差し出す。カルラの細い指が一粒受け取って、離れたところにある陽光に翳してみた。
「それ、あげる。私も、一緒に薪拾いにいって良い?」
 たった今思いついた取引を持ちかけるドリスに、カルラは微笑する。良いわよと低く返すと、ドリスの華奢な指が自分の手を掴んだ。どこか他の町へ行く幌馬車を隅に避けて、歩き出す。二人は薪や野草を求めて郊外へと向かう緩やかな列の最後尾についた。

「お友達と遊んでたんじゃないの?」
「カルラさんとお喋りしたかったから、バイバイしてきた」
 何でもない風に答えるドリスに、カルラは難しい顔をした。友達の多いドリスに「大人と遊んでばかりいないで、同い年の子達と遊びなさい」と言うのは何か違和感がある。さりとて「あら、そう」で済ませて良いようにも思えなかった。ドリスというのはそういう少女だった。彼女の振る舞いには何ら欠けたところがないはずなのに、何か言わないではいられない。荒探し……などという悪意的な理由からではないとは思うが、カルラは僅かに後ろめたいような気持ちで口を開いた。小さな手を、なるたけ優しく握り返す。
「そう体が大きいわけでもないのに、いつも、よく喧嘩しようって気になるわね」
「ハンネスさんが、色々教えてくれるもん」
 自分を見上げる瞳に一片の怯えもなかった。カルラはゆるやかな吐息をこぼして安堵する。ハンネスや、駐屯兵団と戯れるドリスの無邪気さを思い出して、カルラは微笑した。少女に喧嘩の仕方を教えるのは如何かと思うが、しかしドリス相手では仕方がないのかもしれない。腕に縋りつくドリスに「ねえ、教えてよ」とねだられては、それをはねのけるのには生半可な覚悟では難しい。自分の家事の仕方を知りたがるように、そしてグリシャに医療について問いただすように、喧嘩の仕方を習ったのだろう。
 満ち足りた人間の傲慢からか、ドリスは他者に対する関心は薄いようだったけれど、それを補って余りあるほど好奇心が強かった。

「ハンネスさんとはね、グリシャせんせ大好き仲間なんだ」
 好意の台詞と共に、ドリスの手がするりと抜けていく。
 空虚な感触に、カルラははっと我に返った。一足早く木立に入ったドリスが、木っ端を片手に手招きする。「取りつくされちゃうよー」と笑うドリスに、カルラだけでなく、離れたところで枝を落とす人々も和やかな視線を彼女に向けた。腰に下げたナタを手に木々へ紛れると、ドリスは木っ端を拾う傍ら花を摘んでいた。
「グリシャせんせにあげるの」
 ドリスは花を左手に束ねて持ち、集めた木っ端をカルラの背負子に押しこんだ。カルラもその傍らで、倒木の枝を削ぐ。カーンカーンと、奥の方から斧が生木を倒す音が聞こえてきた。花を摘みつつ木っ端を集めていたドリスが、カルラの隣に座りこむ。
 ドリスの反対に下ろした背負子に薪を纏めると、花冠を作るドリスに目を向けた。
 額に滲む汗を拭う。小さな指が花の茎を編んでいくのを眺めながら、カルラは子供っぽく口を尖らせた。手近にある草を摘まんで、ぶちりと引き抜く。こんな小さな子供に嫉妬しているわけではないが、しかし自分のほうがグリシャよりよっぽど構ってやっているのに、おまけ的に扱われるのは詰まらない。

「……あの人、そんな……ドリスが思うほど善い人じゃあないのよ。何をやってるか分からないし……そりゃ頼りにはなるけれど……」
「でも好きなんでしょ?」
 小首を傾げるドリスにカルラの耳が僅かに赤くなった。誤魔化すように太陽の位置を確かめて、倒木に向き直る。カッカッと乾いた木を削りながら、「そうねえ。あんな人……そうでなきゃ、一緒にはなれないわね」と言い訳めいた言葉を漏らした。
 ドリスが我が意を得たりと言わんばかりににっこり笑う。「私もグリシャせんせすきー」カルラは己の冷めた表情がドリスに気付かれないよう、深く俯いた。ドリスはことあるごとにグリシャと結婚する旨を報告してくるが、彼との婚姻を望む具体的な理由が明かされたことはない。今朝がた早く戻ってきたと思ったら、また上の町に診療に行くと言うので「ドリスは如何してこんなおじさんが良いのかしら」と詰ってやったら、酷く冷静に「子供にやきもちを焼くのは止しなさい」とたしなめられたことをカルラは思い出した。
「ドリスは可愛いから……じき結婚出来る年になったら、グリシャから求婚されても困るんじゃあないかしら」
「そんなことないよ。カルラさんと、グリシャせんせと一緒に暮らす」
 自分の名前が先に来ると、少し嬉しい。カルラは優しく微笑むと、地面から腰を浮かせて立ち上がった。
 日が傾きはじめ、薄暗い木立のなかも赤く暮れはじめていた。カルラは辺りにある薪を全て背負子に詰んで、ナタを鞘に収める。ドリスもワンピースについた土と草を片手で払った。反対の手で握られた花鎖は、十五センチほどの長さになっている。ポケットからは、この林に自生する、くすんだ色の花が覗いていた。器用なドリスのことだから、町に着く頃には花冠を完成させられるはずだ。あとはグリシャが、いつ帰ってくるか……きっと、今度の帰宅はこの花びらが薪のように乾いた頃になるだろう。
「あと数年すれば分かるわ。十年も経てば、グリシャのことなんかすっかり忘れて、素敵な人と恋をしているでしょうね」
「グリシャせんせより素敵な人……?」
「そうよ。貴女だけの、どんなに救いようがないバカでも……一緒になりたいって思わせてくれるひと」
「カルラさんにとって、グリシャせんせは救いようがないバカなの?」
 ストレートな問いかけに、カルラは声を立てて笑った。
「やっと家に帰ってきたと思ったら、結婚記念日も忘れて出かけていくような人よ?」
 けっこんきねんびの何たるかが分からないのか、ドリスは黙っていた。

 枝葉を抜けると、眩しいほどの夕日が視界を傷める。
 ドリスとカルラはちょっと眉を寄せると、俯きがちに歩き出した。ぱらぱらと、二人同様町へ戻っていく人にまぎれて岐路を辿る。市街地と郊外の境界を越えると、草の代わりに石畳が敷き詰められ、足の裏に些細な圧迫感が産まれた。通りに並ぶ露店の多くも閉まりはじめ、町の喧騒は、夜を迎える準備に静まり始める。ドリスの顔見知りなのか、果物を背負った男がこちらに手を振る。カルラが脇を小突くと、ドリスは花冠から顔をあげて、にこやかに手を振り返した。男はドリスに話しかけるでもなく去っていく。
 知り合いかと問われて、ドリスは何でもない残酷を呟いた。わかんない。
 決して物覚えが悪いわけじゃないのだから、もう少し人の顔を覚える努力をしましょうね。そう注意するために口を開いたカルラを遮って、ドリスが「あのね」と、幼い台詞を口に食む。ドリスの手の中で、花冠はすっかり完成していた。
「私……物凄く私を大事にしてくれるひととけっこんしたいなあ」
「あなたを大事にしないひとなんて、この町にはいないわよ」
 カルラが少女らしい台詞を茶化して笑う。
 ふるりと、ドリスの頭が否定の意を込めて左右に揺れた。
「そうじゃなくて……すごく、砂糖菓子みたく大事にしてくれて、たすけてって言った時にはすぐ駆けつけてくれるような人がいいなあ」
 何を夢見ているのか、ドリスの瞳が壁を映す。どこか遠くを探しているのだろう。
 彼女が結婚に望む“条件”は、この少女にとって何ら分不相応なものではないとカルラは思った。カルラもかつてはドリスと同じ少女だった。グリシャ・イェーガーはあの日夢見たとおりの“王子様”ではなかったし、結婚記念日をすっぽかすような人間だが、喩え過去に戻ったとしても幼い日に夢見た誰かを探すことはない。きっと、同じ人を選ぶ。
 いつかドリスにも、そんな相手が出来るだろう。

「ドリスもきっと、幸せな結婚が出来るわよ」
 カルラの指がドリスの柔らかな頭髪に触れて、くしゃりとかき混ぜた。
「カルラさんみたいに?」
 くすぐったそうに目を眇めたドリスが、そっとカルラの腹部に頬を寄せる。「男の子かなあ、女の子かなあ」と、うっとりした声を出すドリスに、カルラは腹部の熱が殊更愛しくなった。グリシャと結ばれてから一年、待望の我が子だった。
 懐妊を告げるグリシャの態度は手放しで喜んでいる風ではなかったが、それも男性だからだろうとカルラは一人納得していた。今は実感がなくとも、産まれてきた子を抱けば、グリシャもきっと我が子を持った喜びを理解してくれるはず。
 やがて来る春を思うと、カルラは幸せだった。この幸せが永遠に続くことを望んだ。

 五年、十年、二十年……この壁のなかの平穏は永遠に続くだろう。天高くそびえる壁を脅かすものは存在しない。神の築いた鳥かごのなかで、自分達は幸福に老いていくのだ。
 “いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ”――そういう結末が、自分とこの子……そして、いつか産まれる我が子の身の上に待っていることを望んだ。
 特定の信仰を持たないカルラにとって、神に祈ることがあればそれだけだった。

「この子たちが一日も早く、このうつくしい世界に産まれてきますように!」
 ドリスはそう高らかに歌うと、手中の花冠を天に投げた。
 白い花びらがひらひらと中空を漂う。花冠は赤々と沈む薄暮の空に呑まれ、残照の影となっていた。やがて夜を迎える街を歩きながら、死に場所の違う二人で同じ事を祈る。

 このうつくしい世界で私たち皆、いつまでも幸せに暮らしていけますように。


あなたの指先、熱、まなざしの全てが交わるところ。
そこがわたしの楽園でした。


prev fin.



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