八歳の夏、母親が死んだ。

 夏は腐乱が早い。カンヌキは母親の体が湿った外気に溶けていく様を静かに見守っていた。
 母親は艶やかな長い黒髪と雪のような白い肌が自慢の美しいひとだった。
 見るからに外つ国生まれの母親は、無論くノ一ではない。他人の庇護を必要とする凡庸な人間。
 見た目だけが取り柄のつまらない母親と、由緒正しい忍一族の末裔で自らも名の知れた忍者である父親。如何考えても不釣り合いな二人が育んだ“家庭”が健在の頃、母親は自分たちの出会いを繰り返し語ったものだ。瞼の裏に窶れた頬を朱に染めた母の姿が蘇る。いつまでも、永遠に。




 未だ乱世明けぬ頃、若かりし父親は諜報活動のために田の国へと訪れた。
 当時の田の国は雲隠れの勢力圏内であり、如何な父親が腕利きの忍とはいえ中々困難な任務だったに違いない。目的達成と引き替えに深手を負った父親は傷が治るまで北方山脈の麓へ身を潜めることにした。追っ手を撒く心づもりもあったのだろう。急いで戻ったところでどの道養生する必要があるのだから、それならばいっそ養生がてら田の国の見識を深めよう。カンヌキの知る父親はある種の無精にも似た合理的判断を好むひとだった。カンヌキには、当時の父親の気持ちが手に取るように分かった。ともすれば、若かりし父親と共に旅をしているような気持ちにさえ。
 まあ、兄が手を打って喜ぶ土産話でも拵えられたなら上出来だろう──そんな胡乱な理由から田の国をうろついていた父親は、とある寒村を根城に選ぶ。そこに母親がいた。

 母親の故郷は正しい意味での“隠れ里”だったらしい。
 何か特定の理由があって籠もったわけではなく、土着の宗教に基づいて暮らすうち自然と外部との繋がりが途切れた。母親が物心ついた頃にはもう“信仰”さえ乏しく、部外者中の部外者である父親が紛れ込めた事からも彼の村の寂れた家並みが浮かぶようだった。母親にとっての“故郷”は運命の相手である父親と出会うための舞台装置に過ぎず、カンヌキもまたそれ以上を問うことはなかった。母親以外の人物で唯一彼の村を知る父親は多忙だったし、父親の腹心であるセンテイも任務に無縁なことは聞かされていない。それでも百編強請って、ようやく「そういやあ、こん里を設立する時に奥様に色々聞いてましたなあ」と一言。大陸の中央に位置し、あらゆる情報が集約される木ノ葉隠れの里を持ってしてもそれっぽちの情報しかないのだから、大した隠れ里だ。

 俗世を忍ぶように存続していた母親の故郷は、カンヌキが物心ついた頃にはもう亡んでいた。

 母親は極めて無関心に、故郷について語る。
 何か血腥いことがあったわけではないの。……血が流れなかったからこそ亡んだのかもしれないわね。あすこに住む人たちな皆んな臆病だったから。そう零す横顔はぞっとするほど冷たい。
 まれびと信仰が盛んな山深い隠れ里は、母親が物心ついた頃にはもう少子高齢化と人口減少に悩まされていた。人口流出と近親交配の果てに幾人も奇形児が産まれては死に、母親のような“四肢の揃った子ども”は珍しかったらしい。それでも、母親には年の近い幼なじみが幾らかいた。
 ほんの一握りの子どもたちは何れも女。母親の知る限り、村内の男で一番若い者は四十路を迎えようとしていた。それ故に、父親を目にした母親は「この人が教えにある“神の御使い”に違いない」と考えた。母親が「手足のある若い男は初めてだったから」と付け足したのは、男児に奇形が多かったからなのだろう。尤も、その誤解には父親の見目の良さも十分関係しているだろうが。
 マトモな男が産まれなくなり、時折迷い込む旅人と老いた男の種だけで繋いできた村が亡ぶのは当然の帰結だ。母親の口ぶりから察するに、楽しいことなど殆どなかったのだろう。
 ほんの一握りの子どもたちは打算の出来る年に──少女から“女”になると、皆んな母親のツテを頼って、“ここ”へやってきた。それが、母親の故郷の“おわり”だったのだという。

 父親のほんの気まぐれがなければ、母親は自分よりずっと年上の男と結ばれただろう。
 人間というのは喩え終わりが見えていても一分一秒先へ行く舟へ乗りこもうとする生き物だ。
 その舟がやがて寄る辺もなくただ水面を漂うだけと知りつつ岸辺へ戻る者はいない。

 母親は時折父親のことを「わたしの舟」と呼んだ。


 朽ちかけた隠れ里にとって、若く逞しい体を持った父親は“上等な舟”だった。
 長逗留の間、父親の下へは毎夜のように女が通った。寝物語らしからぬ艶話を食む母親が「でもね」とはにかむ。少女のように頬染め、華奢な手で口元を覆い隠す母親は幼心にうつくしかった。

 でもね、お父様が褥を共にしたのは私だけなのよ。
 他の女が訪ねた時は、一晩中村の伝承や昔話を聞いて過ごしたのですって。そんなの私が幾らでも話して差し上げますのに、私といるときはほんの一言でも惜しいって言うのよ。

 若く情熱的な二人が所帯を夢見るまでに、そう長くはかからなかった。
 当時の父親は千手一族当主の弟。甥姪に囲まれた父親に継嗣の義務はなく、父親は躊躇うことなく無能の妻を連れて帰ってきた。寛容な伯父の許しを得て二人は所帯を持ち、今に至る。
 自らの過去に対して「めでたしめでたし」と言い添える母親は、年ごとにやせ細っていった。
 北方山脈の麓は、夏でもカラリとした風が吹く涼しい場所だ。一方この国……火の国の夏は、昼夜を問わずじっとりと湿った熱気が肌にまとわりついて離れない。喜び勇んで嫁いできたにも関わらず、母の体はこの国に慣れなかった。婚家の四季はゆっくりと彼女の心身を蝕んでいった。
 健康な女であれば、物心つかぬ我が子に夜毎同じ話を語ることはない。他人であれば気づいたろう予兆に、一家の誰も気づかなかった。子どもらは無知のゆえに──その一方で里一番の知恵者と名高い父親は、その生涯においてただの一度も妻の病に触れることがなかった。妻の愛のゆえに。
 多忙を極めた父親が帰ってくると、母親は弱った体に鞭打って家事をこなす。
 始めは女主人を案じていた使用人たちも、繰り返される愚行に呆れ顔で散っていく。そんな付け焼き刃でミト様に敵うはずもない。すれ違いざまの誹謗こそが、母親を愚行へと走らせた。

 出来の良い兄嫁は寡婦となってもなお内政の要であった。
 無愛想な父親にとって外交的な兄嫁は必要不可欠だったし、社会経験のない母親に“ファーストレディー”として振る舞うことは出来ない。単なる政治パートナーだったとしても、妙齢の男女が顔を付き合わせていれば「あれだけ親しいのだから、お二人は私生活でも男女の仲なのだろう」と下卑た噂を流す者もいる。増して物事の表層しか見ない第三者が「二代目様とミト様はやっぱりお似合いだわなあ」と囃し立てるのはごく自然なことだ。屋敷の塀はそう高くない。悪意のない噂話は自然と母親の知るところとなった。もしくは「二代目様に不釣り合いな悪妻に身の程を教えねばならない」という善意から、誰もが母親の前で兄嫁を誉め称えた──父親の居ぬ間に。
 母親は良い為政者ではなかったが、少なくとも悪い妻ではなかったと思う。
 その生涯を通して“良い妻”であらんとした母親はどれだけの無礼を浴びようと、憤ったり、声を荒げることもなく、母親は少女のような笑みで兄嫁への賛辞を漏らす。
 お義姉さまは本当に素晴らしいお方です。一族へ嫁いできたばかりの不安な頃、お義姉さまは多忙な身を押して毎日のように訪ねてくださいました。私も外から来たからと話し、忍一族のしきたりを事細かに教えてくださり……本当に、お義姉さまと姉妹でいられることは私の幸いの一つ。
 母親の言葉に嘘はなかった。しかして人は真実だけを語るようにも出来てはいない。あらゆる言葉に蝕まれ、やがて母親は笑うことしか出来なくなった。兄たちの居ぬ間に、父親の知らぬ間に、末子のカンヌキだけが母の心が砕かれる様を目にしていた。それが何を意味するかも知らず。

 記憶にある限り、さいごの“寝物語”は七歳の夏だった。

 痩せさらばえた母親に抱かれたカンヌキは、途切れ途切れに語られる話を静かに聞いていた。
 夜遅く任務から帰ってきた兄二人が、寝室をのぞきこんで笑う。母さんのその話、聞いてやるのはもうカンヌキぐらいだよなあ。俺はもうタコが出来ちゃって。兄たちは互いに耳を塞ぐ真似をしてから、はしゃいだ声で離れへ向かう。桃華先生が今度の勉強会担当でさあ。わかるよ、厳しいからな。でも父上も寝ないで頑張ってる。兄たちの声が遠のくと、あとには静寂だけが残った。
 置き去りにされた──そう感じているのは自分一人ではないと、カンヌキには分かっていた。
 執拗に昔を語る母親にとって、この現実は“めでたしめでたし”なんかではなかったのだ。誰にも助けを求められない彼女が語る結句は救難信号。末子のカンヌキだけがそれを知っていた。

 如何足掻いても自分を助けられない幼児に助けを請う母親。
 それは「自分と一緒に地獄に落ちてくれ」という懇願ではなかったのかと、時折思う。


 木の葉隠れの里が設立されたのは、カンヌキが産まれた年のことだ。
 あらゆる制度が実験的に採用されるなか、兄たちは“下忍”の第一世代として多忙な日々を過ごしていた。まだ任務の振り分けも格付けも手探り状態で、任務の度に三日の勉強会が設けられ、終わった後も分厚い報告書の提出と身体検査が義務づけられていた。全ては年若い忍を犬死にさせないためだったのだろう。しかしその手厚い保証も、第一次忍界大戦の勃発とともに幕切れを迎える。

 八歳の春。“千手扉間の息子”という下馬評もあり、兄たちは中忍になった。
 祝宴のため久々に帰ってきた父親の目元には濃いクマがあり、明らかに草臥れていたが、普段は険しいだけの顔が僅かにゆるんでいたように思う。どこかしら嬉しげに見えたと言って良い。
 父親さえもそんな調子なのだから、母親と兄たちの様子については語る必要もない。開戦してから──いや、カンヌキにとっては“生まれて初めて”の浮ついた空気が立ちこめる良い夜だった。
 身に覚えのない団らんを遠巻きに眺めていると、困った顔の父親と目が合う。母や兄たちから「顔が似ている」と言われ続けたからなのか、カンヌキは父の顔を見る度に尻の座りが悪くなる。末弟が父親を苦手としているのは周知の事実で、勘の良い次兄がカンヌキの肩を抱いて輪に入れてくれた。父上は小さい自分を見るみたいで気恥ずかしいんだよ。カンヌキは見た目は父さんそっくりだけど、中身は母さんと同じで繊細なんだよな。母上、こないだカンヌキが恋文を貰った話してよ。父親が長兄を小突いて笑う。お前たちだって、丸っきり女気がないわけではないだろう。おれの息子だ。初めて父の軽口を聞いたとき、胸がざわめいたのを覚えている。普段“わし”と話す父親がこんなに幼い顔で、幼い声音でひとを愛するのだとはついぞ知らなかった。

 いつになく賑やかな食卓を見渡して、母親が微笑んだ。全てに満ち足りた笑みで。
 お義兄さんに大きいおうちを建てて貰ってよかったわ。あなたたち皆がお嫁さんを連れてきても十分なぐらい部屋があるのだもの。父親の逞しい腕に抱かれた母親がその胸に身を委ねる。あなたと結婚して良かったわ。ずっと、こんな風に暮らしたかった。見慣れた居間の古ぼけた明かりがチカチカと光を増して降り注ぐ。目に映る光の全てが母親を照らしている。私の愛するひと。その人との子ども。子どもたちの愛するひと……その子供たち。親を知らず、夢も持たずに生きてきた母親は、父親のために産まれてきたのだと公言して止まなかった。
 実際、母親の言うことは正しかったのだと思う。いつも母親が欲するのは父親だけだった。
 なんて幸せなの。なんてしあわせなの。なんていとおしいの。
 幸福の絶頂で、母親が目を眇めて微笑う。全ての生気を振り絞って愛情を胸に灯す。


「あなたたちにも、私とお父様のような恋をしてほしいのよ」
 それが正気の母親を見た最後だった。


 団らんの三日後、兄たちは死んだ。
 奇しくも両親が出会った田の国で、雲隠れの忍と交戦になったらしい。
 長兄の死体は頭だけ、次兄の死体は腕しか戻ってこなかった。それ以外の部位は他国に利用されないよう、根雪の残る渓谷に落とされた。何しろ向こうは上忍のみで編成された正規部隊、一方のこちらは上官以外は皆中忍で編成された兵站部隊。兄たちが属していたのは補給を目的に行動している部隊で、今回の任務では特に交戦の可能性は低いとされていた。少しでも多く荷物を運ぶために武器の携帯は最低限に抑えていたらしい。何より皆、乱戦の経験がなかった。様々な不運が重なった結果、とてもじゃあないが死体の一部しか持って帰ることは出来なかったのだと言う。
 
 兄たちの隊を率いていた男が、骨と皮ばかりになった母親の前で頭を下げる。
 あのあたりは、夏が来ると青い花が咲いて綺麗なのよ。焦点の定まらない母親が、長い沈黙のあとで呟いた。せんせい、あたまをあげてください。あのこたちも、ぜんぶわかっていたのでしょうから。どうぞ、ごりっぱでしたとひとこと。それで終わりにいたしましょう。おわりに。
 砕けた正気を精一杯の見栄で繋いだ母親が微笑む。男は母親の慈悲を受けて僅かに顔を上げたけれど、すぐ俯いた。ワナワナと体がふるえる。良い上官だったのだろうと、その態度から分かる。そして同様に、兄たちも“良い部下”だったのだ。折り目正しい“善良さ”は時として地獄を産む。

 父君の名に恥じぬ、ご立派な最期でした。

 男は謝罪を絞り出したあと、わざとらしいほどにおぼつかない足取りで去っていった。
 一人残された母親は、カンヌキを抱いたままいつまでも玄関口に座り込む。ひとり。
 使用人たちが声をかけても、母親はニコニコ笑っているだけで動かない。日が暮れると、ようやっと母親が口を開けた。うふふ。少女のような声で笑う。立派だったのですって。カンヌキを抱く腕に力が入る。うふふ。うふ。ふふふ。これっぽっち帰ってきても。兄二人の遺体は風呂敷に包まれたまま、母親の前に置き去りになっていた。母親が誰にも触れることを許さなかったのだ。
 花が咲くのよ。誰ともなく、母親は語り続ける。お父様と二人で行ったわ。沢を下ってね。とても深いのよ。あの世への入り口みたい。綺麗な花が咲くの。初恋のひとに贈った花なのですって。愛するひとには戦場に出てほしくないって、いつか所帯を持つならふつうの女にすると決めていたって言うの。わたくしがくノ一じゃなくてもかまわないって、いったの。いったのよ。
 悲鳴のような独白が続く。母親の脆い腕に抱かれ、誰も彼女の裡に触れられない絶望を識った。

 もう二度と。にどと。みんな。そうやくそくしたのに。
 あとは、言葉にならない慟哭。声が嗄れるまで、ずっと。細い嗚咽が地を這う。蛇のように。

 夜の帳が落ちきると、“庭仕事”を終えたセンテイが這うようにしてやってきた。
 震える指で、兄たちの亡骸を掴む。やめて。母親が叫んだ。やめて。わたしの子どもよ。どこへ持って行くの。それっぽっちしか残らなかった。それだけしか。やめて。やめて。やめて。やめて、あなた、あなた止めて、やめさせて、はやく。なぜ。どうして。金切り声をあげる母親が、センテイを殴る。子どもは忍者にしないって約束したのよ。約束したのに。やくそくしたでしょう。うしなうのはたえきれない。おとうとも、はつこいのあいても、みんな、みんな。みんな。あなただって、なにもかんじないの。なにも。なんで。おまえも、しっていたはずなのに。
 センテイは兄たちの遺体を腹に抱いて、母親に殴られるまま黙っていた。やがて母親が床に突っ伏し童女のように泣き始めると、センテイは顔を上げた。女中たちを呼ぶ。坊ちゃんをお連れしなさい。カンヌキはそう言われて初めて、自分が母親の腕から放り出されたことに気づいた。
 ぼう……と、母親の背を眺めていると、おずおず近寄ってきた女中がカンヌキを立たせ、震える手で居間へと促す。遠く、センテイの声が聞こえる。奥様、しっかりしなせえ。子ども二人を一遍に亡くして辛いお気持ちは痛いほど……でも、八つの子どもの前でそんなに取り乱しちゃあいけねえ。さあ立って、坊ちゃんのために飯を食わねえと。あんたにゃあまだ“子ども”がおりましょう。
 忍一族に産まれたセンテイには、そうではない母親の気持ちが分からない。
 誰も悪くはないのだと、幼いながら分かっていた。寝物語の先を夢見る母親には、現実を受け入れることが出来ない。腕のなかに八つの子どもがいることも、その子のために生きなければならないことも、母親にとっては“辛い現実”の一つだった。正論を説くセンテイや、腫れ物を放置した女中たちが悪いのではない。精一杯の誠意で詫びた上忍も──きっと、兄たちを殺した者さえ。

 あの夜、母親を救うことが出来るのは父親だけだった。
 父親にしか母親の正気を繋ぐことは出来なかったのに、父親は帰ってこなかった。二日経っても、一週間経っても、一月過ぎても。父親の長い不在は、母親の狂気を決定的なものにした。


 兄たちの訃報が届いてから一週間経つと、カンヌキは女中の制止を振り切って母親を訪ねた。
 真っ白い布団に埋もれるようにして眠っていた母親は、カンヌキの顔を見ると上半身を起こして微笑った。カサカサに乾いてしわだらけの唇が歌う。とびらまさま。あなた。ああ、やっと帰ってきてくれた。今度の戦ばかりは戻って来られないかもしれないと思いました。瞳孔の開き切った目がカンヌキを見つめ、不揃いに伸びた爪を目元に伸ばす。ミチミチと音を立てて自分の皮膚が拓かれるのを感じ、カンヌキはわらった。乳飲み子二人を抱えて未亡人になったらどうしようと、そればかり考えていたの。よかった。わたくしをひとりにしないで。
 喉がくしゃりと潰れて、弧を描いていた口元が奇妙に歪んだ。

『愛するひとには戦場に出てほしくないって、』
『子どもは忍者にしないって約束したのよ』
『やくそくしたでしょう』

 目元の新しい傷に塩水が触れて痛む。
 幸せの絶頂で壊れてしまった母親の腕に抱かれ、カンヌキは声を殺して泣いた。


 母親は北方山脈の麓にある、小さな隠れ里で育った。
 年を重ねるごとに廃れていく村には名前さえなく、まれびと信仰を始めとする古い呪いと伝承が融けて交わり新たな言い伝えを産む。その言い伝えの一つに“だしんさま”というものがある。
 蛇の神と書いて“だしん”と読むのだそうよ。蛇は多産だから、信仰の対象になったのでしょうね。不意の気まぐれに母親が囁いた。うちの村は何しろ子どもを欲しがったから。
 白い指が宙で円を描く。だしんさまは自らの尾をくわえていて、全てを呑み尽くしたあとに再び生まれ変わると言われているの。より多くの血を取り込むことで不老長寿に近づくという考えがあったの。実際、私の母親はお義兄さんみたいに傷の治りが早かったし、私の幼なじみにも一人……今や上忍として活躍してるから、そのうち会うかもしれないわね。お父様もその伝承を切っ掛けにうちの村のことを知ったみたい。村ではね、ひとが死ぬと新しい服を着せて土に埋めるのよ。わたしたちの……この地上に生きる人々全ての血が混じった“さいごのひとり”が生き返らせてくれると信じているのね。だから、遭難やなんかで死体が戻ってこないと大騒ぎだったわ。え? いいえ。うふふ。母親が可笑しそうに笑う。全部迷信よ。あの村は疾うにないのだもの。死んだひとが生き返るなんて、そんなことありはしない。時々お義兄さんみたいにチャクラ量が多い人間が産まれるだけの、どこにでもある寒村の一つ。それだけのこと。さあ、寝みましょう。
 ……せめて兄たちの遺体が全部戻ってきたのなら、違った未来があったのかもしれない。
 どの道、母親が長らえることは出来なかったのだとしても。


 兄たちが死ぬと、父親は一層家に寄りつかなくなった。
 仕方がない。センテイは繰り返し、頭を垂れる。今が正念場なんです。今前線を離れたら、息子二人の死が無駄になる。蔑ろにしているわけではないんです。センテイが言うのなら、そうなのだろう。分かってる。庭のことは気にするな。父さんの役に立ってくれ。物わかりの良い言葉を口にして笑うと、センテイはホッとした顔で踵を返す。センテイはカンヌキが産まれる前からずっと父親の私兵として働いてきた。この戦時下で、女子供に関わる暇はない。
 遠ざかっていくセンテイに、女中たちが未練がましい視線を注ぐ。彼女らにニコッと笑いかけてから、母親の寝室へ向かう。末息子の顔も名前も忘れ、“男”としての役割を求める母親の下へ。
 もう随分長いことアカデミーを欠席していた。どうせ行ったところで子供だましの体術を教わるだけ。うちは一族の子なんて、もう誰も来ていない。戦況が悪化して本土決戦に持ち込まれたら、年なぞ関係なく皆戦う羽目になる。歴史が古い忍一族であればあるだけ出席率は低い。大人の忍者数人に囲まれた時、手裏剣術が何の役にも立たないことを知っているからだ。

 僅かに開いた襖からは青々とした空が見える。
 骨ばって頼りない手が、未成熟な体を撫でまわしていた。落ちくぼんだ目が爛々と光を放ち、乾いた唇が嬌声の合間に父親を呼ぶ。やがて、物見高い女中の一人が顔を顰めて離れていった。
 この人は壊れてしまった。分かっている。誰が悪いのでもない。父親は火影だ。この戦時下に妻子を構う暇はない。みんな家族を亡くしている。兄たちだけが死んだのではない。指一本帰ってこないことだってザラにある。何故分からないんだと、頭のどこかで叫ぶ声がする。みんな、しんでるんだよ。兄さんたちだけが死んだんじゃない。その怒りが、母親の愛撫に萎える。

『父君の名に恥じぬ、ご立派な最期でした』
 父親が武勲をあげればあげるほど、為政者として頭角を表すほど、母親の無能は際だった。
 ミト様のような立派な方と子を成せば良かったのに、あんな女が母親では不出来揃いも仕方がない。よそに女を囲わせればいい。あの女に文句を言う義理はない。全く扉間様もどうしてあんな女と結婚してしまったのか。人の口に戸を建てることは出来ない。多忙な父親は勿論、兄たちも──自らの忍才不足は察していたにしろ──母親がどんな中傷に晒されているかは知らなかった。
 自分のこと、時として我が子のことを謗られつつ、母親は明るかった。どれだけ父親が帰って来なかろうと、その不貞を疑うことはなかった。時として忍才の無さに落ち込む兄たちを励まし、いつも前向きな言葉と共に二人を送り出した。兄たちが死ぬまで、母親はただの一度も兄たちが忍者を志すことに難色を示すことはなく、いつも父親が如何に努力家であろうか言い聞かせてきた。

『お父様はああ見えて人一倍努力家なのよ。才能なんて言葉で片づけちゃ何も出来ないわ』

 頑張ればいつか結果が出る。その“結果発表”が死後だったことに、母親の心は壊れてしまった。
 あれだけ研鑽し続けた息子たちが、死んで初めて「立派だった」と認められる。どれだけ惨めなことをしてでも生きて帰ってほしいという思いを土足で踏みにじられる。他ならぬ愛する夫自身がその願いを踏みにじる。我が子を死地へ送らなければ、誰も火影の言葉を信じはしない。
 それ故、誰もが暗黙のうちに知っていた──兄二人が支持率の生贄として捧げられたことを。
 戦が長引くごとに内部分裂の可能性も増す。これほどの犠牲を出しているのに、火影は内地で指示を飛ばすのみで何の犠牲も払おうとしない。これは正しいことなのか?誰もが思う。頭を欠くことは出来ないと分かっているはずなのに、“頭”に対する猜疑は増しつづける。
 兄たちの死は一番手っ取り早い“解決”だった。兄たちが死んだことで、皆がホッとしている。みんな、くるしんでいるのだ……と。多くの人々が兄の死を喜ぶ。兄たちがどんな人間で、どれだけ優しくて、親思いで、仲間思いで、周りの人間に好かれていたかも知らないくせに。
 兄よりも優しくなくて、親不孝で、薄情者の自分が生き残ったのは何の皮肉だろう?

 きっと、ただ兄よりずっと幼いという、たったそれだけの理由で生き残ったのに違いなかった。
 自分に忍としての才能がないから、それっぽっちのことで生死が左右される。
 この世界には忍一族に産まれない者のほうが多いのに、愚かなことだ。
 忍一族に産まれなければ、それはそれで“弱者”として脅かされる。
 忍一族に産まれれば、組織の駒として使い潰される。
 こんな世界に何故産んだのかという疑問が湧く。
 母親の長い髪が視界を黒く塗りつぶす。
 痩せさらばえた頬に手を伸ばした。
 肋の奥で、心が砕ける音がする。
 みんな壊れてしまえ。
 何もかも、皆。

 早く死ね。

 死ね。





















 ……カンヌキの全てを打ち砕いた人間は今日ものうのうと生きている。これからも、ずっと。
 カンヌキにしろ、多分罰したいとは思っていない。懲罰に意味は無いからだ。
 それでは、果たして望んだものは何だったのか。

 母親が壊れていく様を、兄たちの死が踏みにじられる様を、その全てを見ていた。
 眼前で行われる陵辱に憤ることも抗うこともなく、カンヌキはただ“良い息子”でいようとした。
 ほんの数ヶ月前の光が眼窩を満たす。笑い合う兄たち、砕けた表情を見せる父親、目映いばかりの笑みを浮かべる母親、カンヌキの希望、祈り、短い人生の全てを埋めるもの。何もかも。
 雨だれに目を覚ます。畳の上に崩れ落ちている母親が父親の名を食んでいる。僅かな理性の全てで父親の不在を悟る母親はカンヌキの存在に気づかない。窓から漏れる街明かりを二人眺める。
 これまでも、このさきもずっと、カンヌキが望んだものはみんな砕け散ってしまった。あの日みた光の全てが自分のいない街に降り注いでいる。きれいだねと言うと、母親は「あー」と言った。
 既に肌色を成していない四肢を引きずって、母親が街灯に照らされた曇天を見上げる。
 あー。もう一度呻いた母親の腰当たりからアンモニア臭が立ちこめ、カンヌキは重い腰をあげて洗面室へと向かった。希望とか望みとか馬鹿げた夢想より病人の清潔を保たねばならない。


 梅雨が明けると母親は殆ど昏睡状態に陥ったが、それでも目を覚ますとカンヌキの姿を探した。
 カンヌキの手を握って、もういない兄たちの話をする。もう二度と叶わない未来の話をする。
 兄たちの子どもに囲まれ、幸せに老いていく未来を夢に見る。カンヌキの名前を呼ぶことはない。もう一人子どもを産んだことなぞ、すっかり忘れてしまったのだ。母親が幸せだったのは、カンヌキが産まれるまでのこと。こんな里さえ無ければ、母親は無能であることに苦しまなかった。
 もう睦言さえ語れぬ母親が、視線だけでカンヌキを呼ぶ。いつからか女中たちは母親の寝室に寄りつかなくなっていた。骨と皮だけになった母親に粥を啜らせ、湿した布で体を拭う。

 八月、遂に重湯さえ啜れなくなった。この頃になると、根気の良い主治医も頭を匙を投げた。
 この夏を越えることは出来ないでしょう。確かに父親にもその言葉を伝えて貰ったはずなのに、父親が帰ってくる気配はない。きっとまたゼンセンとやらが大変なのだろう。罪のない女中に「父さんはどこへいるの」と問い続けるのも飽きて、母親と二人で父親の帰りを待つことにした。いや、もしかしたら四人かもしれない。長兄と次兄が死んでから、半年も経っていなかった。兄たちの葬儀が執り行われた時も、父は戦場にいた。今前線を離れると士気が落ちると言って、父は息子二人の死に顔も、遺骨も見ないまま。仕方が無い。何故仕方が無いのかは忘れてしまったけれど。
 カンヌキは母親が眠る布団に顔を埋めて思案した。何日もずっとここにいる。
 女中たちは、離れをちゃんと掃除してくれているのだろうか? 少し前に次兄の机を処分しようとする女がいたけれど、使用人の分際で如何いうつもりなのだろう。キツく叱りつけておいたものの、自分が母親の寝室に篭りっきりなことを思えばクビにするべきだったかもしれない。
 父親が不在がちな分、兄たちがいない分、自分がしっかりしなければ。
 喘ぐように息を吸うと、鼻孔から血が垂れてきた。手の甲で拭って、布団から身を起こす。原因は分からなかった。鼻血はすぐ止まったけれど、頭がぐらぐらする。空腹? でも、まだ大丈夫。死ぬことに比べれば何事もどうってことはない。──もしかすると、死ぬことさえ。

 もう随分前から瞬きを忘れた瞳は、カンヌキのことだけをひたむきに見つめている。
 外気に馴染んだ頬を撫でると、肉の柔さだけが手に収まった。苦しみのない瞳だと、カンヌキは思った。もう、この人の世界には何もない。兄嫁への嫉妬や結婚生活への失望、腹を痛めて産んだ子らが無碍に扱われる悲しみ、冷たい土の上で死んだことを「ご立派でした」と賞賛される空しさ──生きている限り生きていかなければならない苦しみ。母親はその全てから解放されたのだ。
 嫉妬。失望。苦しみ。空しさ。悲しみ。それらが折り重なって、母の命を手折る。全ての終わりを察して、母親の細い腕が宙を彷徨った。その、今にもくずおれそうな脆い腕を受け止める。
 ぽとん。白い布団に血が垂れた。鼻の下をぬくい、心地の悪いものが伝う。自分の手の中で母親の手が強ばったのが分かる。目を眇めてカンヌキから視線を外す。涸れた喉を震わせる。

 とびらま、さま。

 戸の向こうから使用人たちが呼んでいるのがわかる。
 四日前まで母親だったものの手を握ったまま、カンヌキはいつまでも“それ”を見つめていた。
 かつて黒々と美しかった髪には白髪が混じり、白くきめ細かかった肌は歪に膨らんでいる。
 母は元々心の弱いひとだったけれど、兄たちが死ぬと同時に正気を失してしまった。防衛本能なのだろう──疾うに粉々になった心を守ることに何の得があるかはわからねど──末息子のことをきれいさっぱり忘れてしまった。自分が産んだのは息子二人だけ、木ノ葉隠れの里はまだ無く、戦国時代のただ中に生きている。そう思いこんだ母は、カンヌキのことを父の名で呼んだ。危うい笑顔で兄たちの無事を祈り、無邪気に兄嫁を慕う。あまりに激しい恋情で夫を請う母親を拒むのは、八つのカンヌキにとって難しいことだった。使用人たちは挙って二人を引き剥がそうと腐心したけれど、母が子どものような癇癪で夫を請い求めるのを聞くと会わずには居られなかった。
 目先の“居たたまれなさ”を優先した罪だろうか? 最期の最期まで母親の正気は戻らなかった。

 カンヌキは母親の腕を布団に下ろし、震える指でその目蓋を閉じた。
 その時、初めて自分の手の小ささに気付いた。堰を切ったように涙が零れてくる。
 もう自分は“八つの子ども”ではいられない。今後は“二代目の不出来な息子”として生きる他ないのだと、カンヌキは分かっていた。もしかすると、あの献身はそうした打算によるものなのかも。


『なんて幸せなの。なんてしあわせなの。なんていとおしいの』


 正しいことをしたかったのだと、八歳の子どもが言葉にするのは難しい。
 増して怒り狂った父親を相手に弁が立つ者など、大人にだっていないに決まっている。
 母親が死んでから一体何日籠城したのか、カンヌキはもう覚えていない。激怒した父親が扉を蹴り壊した時には未だ母親は“女”の形をとどめていたと思う。立ちこめる腐臭に怯むこともなくカンヌキを張り飛ばすと、父親は布団ごと母親を抱いて出て行った。その後、すぐ妻を焼いた。
 結局火葬場でも、通夜でも、葬儀を終えた後にも何故を問われることはなかった。その無関心からは、末息子の奇行へ対する拒絶が見て取れた。いっそ憎しみに近いものさえある気がした。

 父親は、いつもそうだ。為政者として優れ、仁に厚い立派な忍者。
 深い探究心と使命感から多忙を苦に感じない父親は、形ばかり自分に似た不出来な末息子を常に疎んでいた。つかの間一人の家庭人としてカンヌキを見つめる時、その瞳にはいつも失望の色があった。何故この出来損ないが実子なのであろう? そう言いたげな沈黙を感じ取り、カンヌキは父親が恐ろしかった。忍才もないくせに、父親に似ていることも厭わしかった。いや、父親自身がそれを厭わしがっているのではないかと思って、自分の取り柄はそこだけだと思って、誰もが自分のなかに父親の影を探し求め、そして「やはり二代目様はご立派だった」とため息交じりに去って行く。全てがその繰り返しだった。いつからか、父親に愛されたいとは思わなくなった。
 その代わり、父親の愛弟子たちへの執着は年を追うごとに……それこそが“愛着”なのだろうか。もう、どうでも良い……父のことなど。もう何もかも──生き死にさえ、どうでも良い。

 目に映る何もかもの輪郭が滲んだ朧な世界に、脆い笑みを浮かべる母親の姿が蘇った。
 息苦しさに喘ぐたび、頭のなかでチカチカと瞬くものがある。
 その光が何だったのか、思い出せない。もしくは、もう知りたくないのかも。現実から免れるため、自分が直面しているものより酷い何かを考える。それは幼い頃からの悪癖だった。
 幸いなことに“目を覆いたくなるようなこと”はそこかしこに溢れていて、正気を失うのは簡単だった。自分より遙かに優れていた仲間達は若くして石碑の住人となり、仲間が死ねば死ぬだけ、カンヌキの仕事は増えた。結局のところ、幼い頃にあんなに拘った“忍才の欠如”は大した問題ではなかったらしい。そう悟る頃には、女子供も平気な顔で殺せるようになった。仲間殺しも、好んでやった。誰もやりたがらない汚れ仕事であればあるだけ良い。そうやって、発言権を強めていった。
 父親に最も愛でられ期待された三代目が、信頼に満ちた目を向ける。彼に応じて笑みを作る度、侮蔑の色に満ちた父の瞳が思い起こされる。耳朶に「出来損ない」と囁く声がする。

 ここは地獄だ、と思った。

 夫の代わりに我が子を求める女も、忍才の有無で全てを図る男も、その男に使いつぶされるものも、自らより優れた他人に易々と命綱を託すものも、自らの理想のため人を殺すもの、他人の理想のため人を殺すもの、他方の正義を踏みにじるもの、生きることを放棄するもの、この世の全て。
 どうせ同じ地獄なら、好きにしようと思った。父の愛弟子に付きまとって選別し、揺らがない者を利用し、揺らぎやすい者を更なる地獄へと拐かす。自分が見ているものを一人でも多くの人間と共有したかった。人が死んでも、人を殺しても何とも思わない。任務という名目さえあれば、どんな酷薄さも“大義”として扱われる。里を守る。その下らないお題目を唱え続けたのは保身のため。
 そうした卑しい本心を義伯母だけが見抜いていた。夫たる初代火影、志を同じくする人々を亡くし、年老いて現役を退いてもなお若々しい義伯母。孫娘を、自らの後継者を……いつも自分の死後に残る若い世代について案じていた義伯母がカンヌキの手を取って、忍者を辞めるよう諭す。

 義伯母の声を聞きながら、ボンヤリ「何故ここにいるのか」と思案した。
 思考がそこに至るまで、自分が倒れたことさえ理解していなかった。何ヶ月ぶりに帰宅したのかも分からない。ダンゾウの屋敷を辞したあたりから記憶が定かではないものの、何とか自宅までは戻ってきたらしかった。そして離れの縁側に上がり込んだところで力尽きたのだろう。これが戦場なら……いや、正規任務なら休養も義務か。この人手不足の里でひとの限界ギリギリまで使い潰すのはダンゾウぐらいのものだ。気恥ずかしさからダンゾウに憤ってみても、最早仕方ない。
 無様としか言いようのない姿を義伯母に目撃された居たたまれなさにため息を漏らす。正直言って、今や一族中の鼻つまみ者となった自分を訪ねるひとがいるとは思わなかった。勿論、人品優れた義伯母がその限りでないことは分かっていたつもりだけれど──義伯母は、本当に綺麗だ。

『あなたたちを救えなかった。許して……どうか、許してちょうだい』

 うつくしいひとが、母の名と共に謝罪を食む。
 どうしようもなさに目をつむると、目蓋の裏の浅い闇に母親の姿が蘇った。この縁側に義伯母と二人並んで、二人で庭を眺めていた。今となっては何かの幻のような記憶に、目元が熱くなる。
『私を許してくれるのなら、もう自分のことを道具のように使うのをやめて欲しいのよ』
 このどうしようもない地獄において、たった一人綺麗なままの義伯母が泣く。
 
 義伯母に握られた己の手は、とっくに子どもの手ではなくなっていた。
 それもそのはずで、母親どころか忌々しい父親も死に、いつの間にか“ここ”には何もなくなっていた。ここ……木ノ葉隠れの里。父の後を継いで火影となった友が治める土地。最後の最後まで自分を無能扱いした父が、守ろうとしたもの。幼い日からずっと“地獄”と信じて疑わなかった場所。
 義伯母の名を口にしようとして、自分が喋るだけの体力も有していないことを解する。
 ボンヤリした頭で身じろぎすると、義伯母が大慌てでカンヌキの体を支えた。
 忍才に恵まれているわけでもないカンヌキが任務に明け暮れていれば、体を持ち崩すのも当たり前だ。禄に病院へも行かず、切り傷も打撲も、病でさえ自己治癒能力に委ねていた。
 カンヌキは熱に侵されてグッタリした体を起こし、義伯母の目尻に貯まった涙を拭う。
 初めて会った時と比べると随分しわもシミも増えているけれど、カンヌキにとっては今も昔も変わらぬ“憧れのひと”だ。心ばえもうつくしい彼女のために母親が苦しんだのだとしても、こうしてカンヌキを案じてくれるのは親戚中で義伯母ぐらいのものだ。カンヌキは、折れることにした。


 ここは地獄だ。でも、そう思っていない人間もいる。


 義伯母は、カンヌキに一年の長期任務を課した。
 どこか地獄でないところを探してきなさいと、それが義伯母からの命令。一先ず義伯母の縁者がいるという雨隠れの里へ身を寄せ、人を殺したり、貶める以外のことをするよう命じられた。
 無論、表向きには長期の偵察任務に出ることになっていた。里長のヒルゼンさえ「根をつめすぎるなよ」と案じるあたり、老いても尚義伯母の政治基盤は盤石ということなのだろう。確かに「里長は里の象徴として座していれば良い」「初代様のような精神的支柱が必要」とダンゾウたちに吹き込んだのはカンヌキだが、義伯母の死後の里政を案じずにはいられない。それを知ってか知らずか、義伯母が苦笑する。あの子たちはいつまでも年下のあなたに甘えて、困ったこと……。
 ヒルゼンを始め、自分を案じてくれる人々、そして「二度と帰ってこなければ良い」と悪態をつく親戚たち。あ・うんの門まで見送りにきた義伯母が「あなたの好きにしなさい」と再び涙ぐむ。
 もう戻ってきてはなりません。風に紛れて聞き損ねたのは、そんな言葉だった気がした。
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