二代目屋敷には、小さな温室が併設されていた。
 温室は縁側から広がる庭の右端にひっそりと佇んでいて、色とりどりの花影が白濁したガラスに薄ら透けて見える。その中へ足を踏み入れずとも、庭を往く者には四季の巡りが分かるだろう。
 二代目屋敷は築五十年。家屋こそ大した補修もされずにうらびれているものの、庭はその限りではない。何しろ“みどりのゆび”で知られた庭師が雨の日も雪の日も通い詰めているのだ。手入れの行き届いた庭には五十年分の四季が蓄積されていて、冬の終わりと共に数多の恵みが咲き溢れる。
 春は美しい季節だ。花曇りの甘い雨に、温い風。雪解け水を吸った土は黒々と肥え太り、草木を養うことに余念がない。雲間から漏れる日差しを浴びた花々は、ひとに恋われるまま花蕾を綻ばせる。斑に木漏れ日の落ちた地面は水面に、薄曇りの空に打ち寄せる花びらはさざ波に似ていた。
 庭の中ほどに位置する池には澄んだ水が張られ、つがいの金魚が春を楽しんでいる。池を囲う水仙と庭を囲う生け垣は共に瑞々しい立ち姿で、この享楽の時期を密に楽しんでいる風に見えた。
 何もかもが美しい季節に、二代目屋敷の庭は火の国一うつくしい──センテイの庭だからだ。

 この“火の国一美しい庭”を見晴らす縁側は先述の通り老朽化が進んでいて、すぐに軋む。
 大人は言うまでもなく、まだ幼いトバリとて無音に歩けない。斯様に過敏な通路を音もなく往くものが、たったひとりいる。そのたった一匹が、トバリの傍らで静かに腰を下ろした。
 みゃあん。聞き分けの良い声に、トバリは振り向いた。わざわざ見下ろすほどの背丈もなく、子猫と目が合う。子猫と称するには些かとうが立った“子猫”は、ぐるぐる喉を鳴らして喜びを示す。
 愚かなことに、この子猫はトバリのことが好きなのだ。

 愚かで利口な子猫は、このところトバリの許しがあるまで膝に上がらない。
 ほんの僅か前には膝上の巻物をグシャグシャにすることもあったのに、猫が育つのは早いものだ。トバリはクルクルと丸めた巻物を膝から降ろして、子猫に手を差し伸べた。
「……おいで、よく待てたね」
 子猫はトバリの言葉が分かるのか、誇らしげに胸を張って見せる。尤もこの子猫が見せびらかしたいのは胸ではなく、首のリボンなのだ。勲章でも下げているかの如く、ふんふんと気取った足取りで歩く子猫を見たのは一度や二度ではない。へえ、トバリ様んつけてくれた首輪だぞって調子で、よっぽど嬉しんでしょうなあ。自慢の“みどりのゆび”を茶色く染めた庭師が快活に笑う。
 子猫はトバリの手に華奢な造りの頭を擦りつけてから、勿体ぶるようにその場で足踏みする。
 こういうとき、トバリは少し、自分が如何するのが最良なのか思って困ることがある。すぐ膝上に来ないということは、今日はそういう気分ではないのか、もしくはトバリに何か不満があるのか──子猫の感情は中々に複雑で、トバリはその一つ一つを理解出来なかった。子猫のほうがトバリよりずっと聡明で、困惑したトバリがその手を引っ込める前にスルリと膝上に入り込む。
「猫っつうのは欲深でなあ、大事にされるのに慣れるともっと大事にしてほしがる」
 声の方角に顔を向けると、農業用一輪車に堆肥を積んだセンテイがこちらを見て笑っていた。
「トバリ様に大事にしてもらえるなんて、その猫は里一の果報者ですなあ」
 顔をくしゃくしゃにして笑うセンテイに何と応じるべきかも分からず、トバリは俯いた。
 センテイの言葉を解さぬ子猫は、トバリの膝からはみ出た後ろ足を必死に膝上に収めようとしている。トバリの膝は、もう子猫がくつろぐには小さすぎるのだ。この子猫は、じき成猫になる。
 トバリは子猫の頭を撫でた。トバリが耳の後ろにこびりついた泥や、目やにを指で拭う間、子猫は目をつむったまま身を委ねていた。安心しきって喉を鳴らす様子からは、野良猫らしからぬ無垢な信頼が見受けられる。トバリは茶色く汚れた指を見つめて、つと考え込んだ。
 家政婦の許しを得ていないから畳の上に上がらせることもなく、夜は床下の塒で眠る。
 これから暫くは野良猫に暮らしやすい季節だ。しかし、次の冬は如何するだろう。母猫は愚か兄弟猫たちも疾うにいない。兄弟猫とじゃれあう様を見るにつけ「きっと成猫になる前に彼らと出て行く」と思っていたのに、ひとりぼっちになってしまった。不可解なことに、それが嬉しい。
 生垣の向こうから溢れる喧噪は、トバリに縁遠いものだった。トバリはここから出ることを許されていない。それを見越して、ひとり、ここに残ってくれたのではないかと思う。
 猫の命は短い。センテイのそれと大差ないだろう。トバリは子猫の体を抱いて、その額にぴったりと頬を寄せた。子猫はぐーっと体を伸ばしてから、自分の体に小さすぎる腕のなかにぴったり収まる。ごろごろと、優しい音が頭の中に響く。トバリは猫の背を撫でながら、そっと口を開く。

「──わたしと、生きてみるか?」
 それが家政婦が猫に毒を盛る、数時間前のことだった。




 遠く離れた前線での“殺し合い”は殆どルーティンと化して、内地の春を脅かさない。
 第三次忍界大戦が始まってから、長い歳月が過ぎていた。戦火はトバリが産まれる前から、そして産まれた後も変わらず滾り、平和を知らない子どもらは薪の如く前線へとくべられる。
 邸内には、昼夜を問わず深い闇が振る。畳の縁をも塗りつぶす濃度の重たい影は、日暮れと共にその領地を増やす。……トバリにとって、そうした“薄暗さ”は馴染み深いものだった。
 人間は愚かな生き物だ。自身の脆さを理解することが出来ず、そのくせ「自分の命は特別性だ」と信じて疑うことがない。それ故に、すぐ同種で殺し合う。自分たちの“暗黙の掟”に反した者には異端の烙印を押して、徹底的に排する。これだけ高度な文明を築いたのだから、先のことだけを考えて安穏としていれば良いのに──終わらない大戦のなか、トバリはそんなことを考えていた。
 壊れたものは元に戻らない。それを理解できない人間は、この世界に存在しない個体を思って壊し合う。その愚行のために、人々は沈鬱のなかで暮らすのだった。夜明けが来ても、日の光は人工物を照らし出そうとしない。通りを往く者は沈んだ声を発し、新聞には物々しい記事が並ぶ。
 薄濃と極夜を行き来するだけの歪な暮らしが詰まった街並み。その隣で四季は巡る。

 春。暈けた陽が中天に浮かんで、他人事じみた光を大地に振りまいていた。
 春は美しい季節だ。柔和な日差しを浴びて、数多の花が養われる。花曇りの甘い雨に地表は富み、春風は恵みの息吹と化して花蕾を抱く。白んだ空に花びらの波が打ち寄せ、淡い陽が地面に降り注ぐ。何もかもが美しい季節。その恩恵に彩られた街を、人々は暗い面持ちで往く。
 温んだ風も、瑞々しい木々も、五月の光を喜ぶ者はいなかった。少なくとも、里のなかには。
 離れの縁側からは春爛漫の庭しか見えない。外界との繋がりは街往く人の声とラジオ、新聞だけだった。澄んだ空に色とりどりの花、青々と茂る木々……美しい春。徹底抗戦を求める紙面に春の気配はない。訥々と積み重なる骸の気配に、腐敗を思う。桜の枝は花びらの名残もなく新緑に染まっている。菜の花はこぼれた陽を集めて咲かせ、水仙は静かに景色を彩る。センテイがトバリに影を落として、家政婦が暇を出したことを告げる。新しい家政婦を探すとも言っていた。そうかと短い返事をこぼして、四度目の春に見入る。何を欠こうと、春に陰りはない。春はうつくしい。
 生け垣の向こうの街区の果て、森の彼方、遙かな山脈を越え……遠く、春を忘れたひとが、春を思い出せないままに天へ逝く。内地と同じ春のなかで血が流れている。内地でも。

 四季が等しく一巡する世界で、春は予定調和で去っていった。

 晩春。岩隠れとの交換日記と化した紙面に、他里の話題が混じった。
 うら若き木ノ葉の中忍が、自らを犠牲に霧隠れの反乱分子を始末したという記事だ。
 尤も記事の“主題”は、このご時世では珍しくもない殉死ではなかった。三代目火影と四代目水影が、湯隠れの里で会談を行ったのだ。五影最年少且つ内向的な人柄で知られる水影が島を出るのはごく珍しい。大した外交問題にも拘わらず、一面記事は岩隠れの里と土の国の不仲疑惑だった。
 物腰穏やかな好青年であると描写された四代目水影は、水影襲名以来ずっと内部改革で忙しく、木ノ葉との会談を先送りにした非礼を詫び、先代とヒルゼンの間で結ばれた友好条約を重んじる旨を約束した。砂と霧を味方につけ、木ノ葉の勝利は最早盤石である──戦時下で読み飽きた国粋主義。新聞社としては士気高揚を考え、然したる成果のなかった会談内容より「クーデターを阻止して殉死した忍がいた」という“美談”をアピールしたかったのだろう。多忙からか、各報道機関の刊行誌は推敲不足の記事が少なくない。乱文と乱筆の入り混じるなか、ひたすら戦火を煽る。
 自分の体より大きいページをめくりながら、トバリは思った。ラジオも、新聞も、春を知らずに戦う人へ死を迫る。ひとの短い命を更に縮めることに、何の意味があるのだろう。

 今年の梅雨は足が速かった。
 雨が少ない年は凶作を招きやすく、蝗害の危険も増す。イナゴの卵は湿気に弱い。干ばつが続けばそれだけイナゴが増え、田畑が荒らされる。近代化が進んでいるとはいえ未だ大陸における農業就業人口は多く、干ばつを見越した農業支援策の考案は最優先事項だった。最早誰も、霧隠れのクーデターに巻き込まれた中忍のことなぞ覚えてはいないだろう。水影が何を話したのかさえ。
 夏の日差しが大陸に降り注ぐ頃、実に有史以来三度目の大戦が終わりを告げた。
 蝉の声が霞むほどの姦しさを、トバリは書庫に篭ることでやり過した。姦しいといっても、それは生垣の外を往く人々や新聞、ラジオだけで、ヒルゼンは勿論アスマも全く訪ねて来なかった。二人が来ないということは、無論千手の親戚連中にだってトバリに構っている暇はない。当時の家政婦も新聞ばかり読んで、自分が何をしに来ているのか忘れる始末だった。何日も何日も、縁側にセンテイと並んでジャムパンを食べた。音割れの酷いラジオで誤魔化しながら、二人で他愛のない話をした。たべたくないとか、ちゃんと食べなきゃいけねえとか、そういう、質疑応答染みた話を。
 戦争も終戦もデモも、何もかも遠い世界の出来事で、季節を置き去りに時間が進む夏だった。

 なつがおわると、降り注ぐ光は淡くなって、くさきも色をなくす。
 ヒルゼンは終戦へ向けて忙しく、暴動もデモも一先ずは収まって、でもどうせすぐに四度目か三度目の続きがくるという意見が一般的だった。戦争がおわったのか、おわっていないのか、お休みはいつ終わるのか、いつまで殺し合うのか。どうせ、何もしなくても、みんな死ぬくせに。
 その、“何もしなくても死ぬ命”を絶つ罪深さを知ってはいけなかったのに。
 膝を抱いて、頭を抱えて、縁側で小さくなる。ああああああああ。居もしない生き物の鳴き声が聞こえる。存在しない命の熱を感じる。それら全てが五感の外にある自らの欲求が産んだ幻だと思い知らされる。あああああああ……ああ……低く呻く点に、鍬を放り出したセンテイが駆け寄る。
 トバリ様んせいじゃねえです。丸まった体を抱いて、センテイがぼろぼろと涙をこぼす。あなたが悪いわけではない。あなたが殺したんじゃねえ……あなたが悪いのでは……増してあなたが“それ”を望んだのではない。こんなに苦しむなら何ンも知るこたぁなかったんです。

 四季は昨年と同じに巡り、桜は樹齢が尽きるまで同じ花をつける。
 しかし人の生に“同じ”は有り得ない。カンヌキは、端から、愛娘を蘇らせる気なぞなかったのだ。喩え化け物との子でも、愛娘の子ども。顔も声も、何もかもが同じ。そのなかに、愛娘の名残を探しただろう。何か一つでも違っていれば──ほんの少しでも、ふつうの子どもだったなら。
 カンヌキが求めたのは“聞き分けの良い娘”でも“愛娘の身代わり”でもなく、彼女の血を引くふつうの子どもだった。愛娘は不運にも夭逝しただけで、生きてさえいれば人並みの幸せを得ることが出来たのだという救いを欲した。愛する者を手に掛けた自分を裁き、断罪する者をこそ求めた。
 それがトバリには理解出来なかった。散る花を惜しいと思わないのと同じだ。同じ形、同じ色、同じ遺伝子配列であれば“同じ花”だと思ってしまう。その酷薄さがカンヌキの癇に障るのだろう。
 カンヌキの愛した“トバリ”の人生はあそこで終わってしまった。カンヌキが全ての未来を摘んだのだ。如何足掻いても、彼女には人並みの未来は存在しない。輪廻もなく、苦痛の浅いうちに終わることが最良の未来だった。カンヌキが愛した娘は人身御供にされるために産まれ、育った。
 娘の生を踏みにじったものがここに存在する限り、カンヌキは永遠に苦しむだろう。
 ありゃあ即効性の毒で、あん猫は苦しまなかっただろうと思います。
 白目を剥いた苦悶の表情。だらんと伸びた舌、吐しゃ物で汚れた毛並み、痛みに縮まった体。
 穏やかで、オレにはまるで眠っているように見えました。苦しまなかったんです。

 “もし”と、思ってしまった。もし蘇ったとしても、過去が覆るわけではない。
 あの子猫は毒餌にもがき苦しんで死んだ。苦しかっただろう。さぞ辛かっただろう。トバリを恨んだろう。裏切られたと思っただろう。やがて五感を灼かれ、絶望のなか息絶えたに違いない。それはもう如何しようもない。それはもう起きてしまったことで、過去を変えることは出来ない。
 トバリは、あの子猫に一切の苦しみを知って欲しくなかった。あの短い命の、ほんの僅かでさえ痛みや苦しみと無縁であってほしいと願った。いつか死ぬと分かっていたからだ。
 死を免れることがない命だからこそ、一分一秒でも長く、安らかでいてほしいと望んだ。
 そう願うのはカンヌキとて同じだったろう。同じだった。カンヌキの大切なものを奪った自分が、化け物の自分がカンヌキの気持ちを知ってはならなかったのに、知ってしまった。


 命は花よりもずっと儚く散って、巡る時は“前と同じに美しい”と愛でさせてくれない。
 トバリの膝で丸くなる熱も、賢しげな視線も、無防備な鳴き声も、最早この世界のどこにも存在しない。分かっている。あの子猫と同じ命は先の千年にも後の千年にもないことも、ちゃんと。
 分かっているはずのことを見失って、存在しないものを探して、そうやって生きる者がいる。
 後の千年にはいなくとも、万年探せば、どこかにいるかもしれない。理不尽な喪失は「どこかで自分の下を去った時のまま待っているのではないか」という、狂気を産む。

三か月と少し

 ひとはその狂気を宿したまま、忘れることも出来ずに、生きていくのか。
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