荒野に低く、獣の唸る声が響き渡っていた。
 恐らく犬科の獣であろう。男は、ボンヤリ考えた。細々とした雨に打たれてか、もしくは単に標高の低い場所から聞こえてくるのか、唸り声は地表すれすれを這っている。男の脳裏には、幼い時分の愛読書が浮かんでいた。大陸中の動植物を簡素な説明文と共に紹介した、少年向けの博物誌だ。大陸狼の特徴を大げさに描いた挿絵の脇には“大陸狼の頭数は近年減少傾向にあり、保護活動が行われている”という注釈があった。仕事柄、男は各国を渡り歩いてきたが、大陸狼を見かけたのは片手に数えるほどしかない。それも、ここより随分北方の森林地帯でのこと。
 分布域の広い獣であるからして、人里離れた場所で見かけるのは一つの結果──近代化に伴う土地開発の余波を受けて、逃げ損ねた個体を処分し続けた結果に過ぎない。愚かなことに、一部地域では今更になって大陸狼の再導入・個体数の回復支援を検討しているらしいが……よもや、こんな亜熱帯で試すこともなかろう。訥々と、男は止めど無く思案した。勿論、地を這う声の主が大陸狼であろうと、その他の四足獣であろうと、男にとっては如何でも良いことだ。男はただ何か考えていたいだけだった。自分の理性をつなぎ止めるため、男はひたすらに詰まらぬ思索を重ねていた。
 頭蓋のうちを淀みなく流れていく思考が止まることがあってはならないと、男はそう思っていた。男にとって、自意識を保つのが難しい状況に陥るのは何より恐ろしいことだった。五感が自分の支配下から逸脱し、あるがままの感情に肉体が突き動かされる悍ましさは筆舌に尽くしがたい。
 それゆえ男は極めて冷静に、自らの感情と向き合わないまま愛娘の墓を暴いていた。

 弱雨ながら、空は晴れる様子もなく、あたりには重たい夜の帳が落ちようとしていた。
 痩せた木と岩に囲まれた荒野だ。遠方に半球状の家屋群が見受けられるものの、その荒廃ぶりから随分前に放棄されただろうことは明らかだった。前線は北上を続けている。一般人であれば包囲網を抜けて町に戻るのも可能だろうが、家屋が半壊した以上この僻地に戻る利点はないのだろう。男は思考の端に「ここから一番近い街はどこだったか」と浮かべてみた。それと同時に「まだ生きるつもりでいるのか」という問いが体の奥底から湧き上がる。まだ──何のために?
 男は重たく肌に纏わりつく衣服に気を留める様子もなく、手中の杭で地面を掘り続ける。
 その木製の杭は、墓標代わりに突き立てられていたものだ。シャベルの代用としてはあまりに頼りない。恐らく、探そうと思えば眼下の廃屋群からシャベルの一本や二本見つかっただろう。しかし廃墟の一つ一つを漁ってまで作業の効率化を図る気にはならなかった。ザクザクと地中を掘り進むシャベルの先が棺にぶつかる感覚が恐ろしかった。早く娘の生死を自分の目で確かめたい。娘の亡骸を目にしたくない。あの子が死ぬはずがない。きっと何かの間違いだ。

 もしかしたら、今からでも間に合うかもしれない。
 何故、そんなことを考えてしまうのだろう? 男は、それが馬鹿げた逃避であることを理解していた。この戦時下に甘い希望を抱く自分が堪らなく惨めだった。実直な義妹夫妻が嘘を書いて寄越すはずがない。娘は、自分の腕の外で死んだ。それだけのこと。何百何千の命を屠ってきた自分が、何故娘一人死んだだけで狼狽えているのか。罰が当たったのだ。何の罪もない娘に? 何故?
 男が最後に娘と会ったのは、一年前だった。母親を亡くしたばかりの娘を手元に引き取らず、義妹夫妻に親権を譲った。当人から拒絶されたからとあっさり引き下がった愚かさ。何かあったらと伝令の鷹を傍に残していったものの、避難の途上で逃がしたか、もしくははぐれてしまったのだろう。一年前に別れてから、旧友から“訃報が届いている”と知らされるまで、娘の便りが届くことはなかった。不甲斐ない父親に呆れ果てているのだと思い込んだまま、内縁の妻を喪った悲しみを紛らわせようと任務に没頭した。各地を転々としながら、旧友が無責任に寄越す指示に従い続けた──この戦争が終わったら忍者業から足を洗い、単なる一般人として里を出る約束だった。
 一年間の不義理のツケが、地中深く埋まっている。死体に向かって“お前と暮らすために、父さまは身綺麗にしてきたよ”と囁くことが何になると言うのだ。如何してもっと早く、何故、なぜ
「は、」歯の隙間から笑みが漏れた。「なん、なんて……なんで、」
 馬鹿げている。今更、今は、娘の亡骸と対面出来る精神状況ではない。それでは一体、いつまでこの寂しい場所に娘を残しておくのか。わからない。男はきつく唇を噛んだ。妻が死んだ時に無理にでも連れて帰れば良かったと思っているのに、今また同じことを繰り返すのだろうか?
 理性と衝動の狭間で、男の感情が千々に乱れる。本音を言えば、何もかもが愚行であった。
 任務をすっぽかしてここへ来たことも、こんなもので地面を掘っていることも、二度と取り戻せない娘を必死に取り戻そうとしていることも──最早そこには命の名残はないのに、肉塊と化した娘との対面を急いていることも、何もかもが“愚行”と表現するに相応しい。
 男には分かっていた。地面さえ元通り均しておけば、獣に死骸を漁られることもなかろう。第二次忍界大戦のただ中にあって、間諜たる自分が職務を放棄することでどれだけの人間に迷惑をかけるか計り知れない。すぐ部下の何れかに連絡を取り、一度自里へ戻るべきだ。放り出してきた任務を片づけてから、気の置けない下僕と共に戻ってくるほうが良い。分かっていた。分かっているはずだ──これ以上、独りで墓を掘るのは耐えられない。それなのに、杭は絶えず地面を穿つ。


 ……どこに潜んでいるのか、獣の気配も感じないのに唸り声だけが近づきつつあった。
 くぐもった獣声が男の顔や胸を撫でるように触れる。奇妙な距離感に違和感を覚えつつ、男は掘削に励む腕を休めることが出来ないでいた。獣声はますます激しさを増していた。その華奢な喉を酷使し、酷く苦しげに大地を震わせている。何かが可笑しい。そうは思っても、疾うに歯止めが利かなくなっていた。杭の婉曲部に乗った土がザラリと落ちる。極めて効率の悪いものを用いているとはいえ、穴は少しずつ、確実に深くなっていた。繰り返し、繰り返し、男は土を掘る。地中で眠る愛娘を探して、妻と眺めた寝顔そのままに逝った愛娘を求めて土を掘る。地面に杭を突き立て、雨に濡れて重たい土を掻きだし、片手で砂を払い──遂には両手で掘削し始めた。
 ドンと、地中から固いものを殴打する音が聞こえる。ドンドンと続けざまに響くそれは、幻聴ではなく、現実のものだった。男には、息を吹き返した娘が棺のなかから自分を呼んでいるのが手に取るようにわかった。恐ろしい目にあっただろう。苦しいだろう。ああ、愚行と思って踵を返さずに掘り続けて良かった! 男は愛娘の窮地に間に合ったのだ!! 頬を熱いものが伝った。
 棺の蓋が見える頃になると、戸叩に合わせて振動しているのが分かった。地中の温みで湿気った蓋がドンドンと激しく殴られ、鈍い音を立てる。抗しがたい期待と深い罪悪感に、男は自分の心臓がひしゃげてしまうのではないかと思った。二度とこの子の傍から離れるまいと、固く誓う。
「……僕だ! 僕だ、父さまだよ!!」
 男は殆ど悲鳴に近い声を上げた。爪が剥げるのもお構いなしで、必死の掘削作業を続ける。
 何故息を吹き返したか、娘がどれほどの時間を地中で過ごしたのか、そういった“当たり前の疑問”は男の頭から抜け落ちていた。付近の火葬施設が軒並み停止していたが故の僥倖。男の胸中はもう、閉所に怯える愛娘を棺から出してやりたい衝動しか存在しない。一刻も早く、地上へ。
「今すぐ出してあげるから、もう二度と君を置いていかないから、」
 未だ下方が土に埋まったままの棺を無理矢理引きずりだすと、男は震える手で釘を抜いていく。
 手元が定まらずに随分もどかしい思いをしたものの、然程やきもきする必要はなかった。二本抜いたところで、蓋が吹っ飛んだのである。木製のそれが、男の鼻先を掠めていった。
 耳をつんざく悲鳴があたりに響き渡る。墓標が視界に入る以前からずっと聞こえていた獣声と全く同じ音が、狂気を伴って男を包み込んだ。娘と思しき何かが、棺のなかで奇矯な動きを見せる。
 男には“それ”が確かに娘であると分かったが、しかしそれは男の愛した娘ではなくなっていた。
 棺のなかを埋め尽くす毛髪は白く、かつてくるくると表情を変えて周囲の人々を和ませた顔は想像を絶する恐怖にひきつっている。聡明な光に満ちていた瞳は焦点を失い、変色していた。頬はこけ、手足はやせ細り、腹部だけが餓鬼のように膨らんでいた。腹部からは木の枝に似た触手が生え、骨と皮だけになった四肢に突き刺さっている。全身の経絡系が歪に結び直され、腹部に集まっているのが分かった。どういった仕組みなのか、娘のチャクラを吸い上げて腹部に送り込んでいるらしかった。腹部の膨らみが、娘の意志と無関係に蠢く。男はその場に崩れ落ち、嘔吐した。それが何を意味するのか、本能的に理解するのを拒んだ。今すぐこの場から逃げ出したい衝動と、それでも目の前にいるものが娘の顔をしている動揺が胸中を交差する。男は情けない嗚咽を漏らした。
 かつて“娘”だった何かは悲痛な声を上げ続けている。男は無心に、その首に手をかけた。雨に濡れて冷えた頬を涙が伝う。にじむ視界を拭おうともせず、男はやせ細った首もとに顔を埋める。
 何故自分は無理にでもこの子を連れていかなかったのだろう? こんな世界に、如何してこの子を生かしておけるだろう? 失ってから悔やむなら傍に、この手で縊ることになると分かっていれば──全てを秤にかけて、それでもこの子を──この子は、自分が殺さなければならない。
 鼓膜を裂く絶叫のなか、男は指にありったけの力を込めた。産まれたての体を恐々抱いた手のなかで、生えたての髪を確かめるように撫でた手のなかで、幼い手を何度も握った手のなか、自分を父親にしてくれた命が砕けていく。抵抗らしい抵抗はなく、娘だったものが男の膝に落ちた。
 ややあってから、細い悲鳴は歪な吐息に変わる。それが娘の断末魔だった。

 骨の折れる感触がべったり張り付いた皮膚を持て余し、男は曇天を見上げる。
 娘の腹部は蠢動を続けている。その嫌悪感に比べると、奇妙に折れ曲がった喉が鈍い音を立てて再生するのは些末なことだった。背後に迫る気配に目を閉じる。見ず知らずの人間に我が子を殺した現場を見られる焦燥も、汚泥と涙で汚れた顔を見られる羞恥もなかった。ただもう、他者の介入によってこの惨状に幾らかの変化が出るのであれば如何でもよかった。目を瞑って、項垂れる。
 一体いつから、この子は何度死の苦しみを味わっただろう。黒々とした緑髪が色を失うまで、冷たい地中で、どれほどの恐怖がこの子を狂わせたのか。何故この子を静かに休ませてくれない。
 青白い瞼がピクリと動き、紫色の目が薄く開かれる。その刹那、途方もない恐怖に瞳が竦むのが見て取れた。知性の瞬きが潰えるのは、本当にあっという間のことだった。つい先ほど手折ったはずの首はすっかり元に戻り、かつては鈴のように可憐な声を生んだ喉が獣の咆哮を吐き出す。
『このまま何も聞かずに、僕と一緒に来てほしい。二人で暮らそう』
「……父さまが“何も言わないから、君と一緒にいさせてほしい”と願うべきだったね」
 男は為す術もなく、娘だったものを優しく抱きしめた。
「今度こそ、ずっと一緒だ」恐怖に囚われた頭を撫でて、頬を寄せる。「愛しているよ」
 ずっと、父親になるのが恐かった。自分には他人と同じように他人を愛することが出来ないのではないかと、家庭に収まることを怯え続けた。自分の因果が子に報いるのではないかと悩んだ。父親が自分を愛さなかったように、自分もまた産まれてきた子を愛さない。我が子から疎まれ、憎まれ、屈託なく笑いかけて貰えないだろうと思っていた。いつも胸の中は空っぽだった。誰からも愛されていないのだと思って、いつも不安だった。演じることで誤魔化しても、誤魔化せば誤魔化すほどに自分が分からなくなっていった。早く里のために死にたいと、そればかり願っていた。
 その全てから解き放たれて過ごせる場所がどこだったのか、今になって分かる。

十年前の真実

「トバリ……父さまは、僕は……本当は、君と母さま以外の何も要らなかったんだよ」
 誰を傷つけようと、何を犠牲にしようと、この狂気に君一人残して行くまい。
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