トバリの生家には、小さな温室が併設されていた。
 温室は縁側から広がる庭の右端にひっそりと佇んでいて、白濁したガラスに薄ら透けて見える花々は手入れの行き届いていない庭のなかでいやに目立つ。
 春も近いというのに、庭の木々に新芽が萌える様子はなく、芝さえところどころ剥げて堅い地面を露出させていた。父親が健在だった頃は、それはそれは美しく整えられていた生垣は茶色い枝を自由に伸ばし、水仙が寄り添うように咲いていた池には魚影どころか水も張られていない。
 荒れた庭を見渡す縁側も、まだ幼いトバリの体重には耐えるものの、大人が上を歩くたびにギシギシと軋む。庭も、家も老朽化が進んで、家政婦などは「この家は世間から置き去りにされているようだ」と口にする。その台詞が正しく意図するところは、トバリには分からなかった。とはいえ褒められたわけではないだろうことは理解できる。家政婦はこの家が嫌いなのだ。

 生垣の向こうから溢れる喧噪は、トバリに縁遠いものだった。
 家政婦からは「危ないから外へ出てはいけませんよ」と言われていたし、トバリ自身も生垣の向こう側に興味はない。トバリが求めるものは全てこの家のなかにあり、外界との繋がりを得ることで何か利益があるのかさえ知らなかったが、“自分には必要のないことだ”という明確な拒絶を抱いている。勿論まだ未熟な言語野がその拒絶を明文化出来たわけではなかった。しかし生来感情を表に出さないトバリは到底子供らしい無邪気さとは無縁で、大人びた口を利く様も可愛げがない。
 食堂の椅子に掛けて巻物を読む。居間のちゃぶ台に、帳面や筆記用具を広げて読めない漢字のメモを取る。庭に出て手裏剣術の訓練を行う。チャクラコントロールの訓練を行う。
 隠れ里の子どもは幼い内から忍者として研鑽を積み、若くして過酷な任務を課せられることも珍しくない。忍者としての道を選んだ以上、夭折はままあることだ。平均寿命の短さは否が応にも精神の成熟を急いて、大人びた子どもを作り上げる。そうした背景を踏まえても、トバリの学習能力の高さは“大人びている”という言葉で誤魔化せない不気味さがあった。

 今いる家政婦は長くもっているほうだと、トバリは思う。
 トバリの“子どもらしくない態度”に怯え、数日で辞めていく人間が多いなか、今いる家政婦は半年以上通ってきてくれている。決して人当たりが良い女ではないが、まあ長く勤めてくれるひとのほうがやりやすいし、まだ幼いトバリに代わって最低限の家事をこなしてくれるのであれば誰でも良い。尤も独り言の多い家政婦に煩わされる趣味はないので、特別机を必要とする作業を行わない限りは、彼女の活動域から外れた縁側で時間を潰すのがトバリの常だった。
 縁側からは、手裏剣術やチャクラコントロールの訓練を積もうと思えばすぐ庭に出られるし、左手奥にある階段を下れば書庫がある。それに、庭を突っ切って温室へ行くにも近い。

 トバリは自分に課された“義務”や“期待”に倦んでくると、ごく稀に温室へと足を向けた。
 縁側から続く敷石を辿って、アルミ製の扉を開ける。温室内は南方から差しこむ日差しがこもって生ぬるく、何とも言えないむっとした匂いで喉が湿る。花の香りと土臭さが入り混じった匂いは市販の芳香剤にある快さとは無縁で、トバリの肺を生々しく膨らませた。

 温室のなかには、トバリの父親が火の国のみならず各国から集めてきた植物が青々と茂っている。スイカズラ。レンゲツツジ。アセビ。スイセン、トリカブト、キョウチクトウ――星のようにも金魚のようにも見える花をつける植物、緑色の飴玉のような実をつける木、アジサイに似た赤い花をつける低木――子供らしさがないと言われるトバリにも、愉悦を感じる心はあった。

 ただ顔に出すのが億劫なだけで、楽しいと思うこともあれば、退屈だと思うこともある。
 自分を異端視する人間の前で、トバリは“めんどうくさいな”と思う。何を言っているのか、如何いう意図での発言なのか、大人が思うほど理解できてはいない。大人たちはトバリのことを異端で、子供らしくないと決めつけるけれど、そんなに変わっているわけではないはずだ。
 無条件に許容してくれるひとがいないから勉学に励む。優れた忍者だった祖父と父の血を引く期待に応えるため、鍛錬する。ただ感情の機微を表に出したところで、特別気にかけて貰えるわけじゃないから表情を作らない。何ら可笑しいことではないはずだった。説明すれば同意を得られるだろう感情回路を、自分が何を考えて如何行動しているのかを説明することが出来なかった。
 やはり語彙が少ないせいではあったが、例え今のトバリに成人相応のコミュニケーション能力があったとしても、結局のところ今度はトバリのなかにある諦観が沈黙を貫かせただろう。

 外の世界も、自分の感情も、理解者も、何もかもトバリにとって不要なもののように思えた。
 ただトバリのなかには“優秀な忍者にならなくては”という使命感だけが存在して、忍者に求められる素養を伸ばすこと以外にかまけるのは時間の無駄だという意識が存在する。
 それはヒルゼンが言うような“父親に対する思慕”ではなく、また家政婦が言っていたように“余暇の選択肢に乏しい”からでもなく、もっと激しい強制力を持った“何か”に因るものであるように感じていた。その“何か”が何なのか、トバリは不意に気に掛かることがあった。
 自分の行動や感情を制限する“何か”が消え去れば、自分も普通の子どものように振る舞うことが出来るのではないかと、そう思っていた。普通の子ども――生垣の向こう側から漏れ聞こえる嬌声に関心を持って、表情筋を動かすのを億劫だと思うこともなく、自分のなかにある僅かな感情を厭わしく思い、修練や勉学に励むことで消し去ろうとしなくてもいい。
 そういう“普通の子ども”になることが出来るのではないかと、一人考えることがある。


 ……そういう普通の子どもだったら、自分の往きたい場所が見えるのだろうか。
鍵のない檻
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -