“血”を理由に蚊帳の外に置かれるのも、置いてかれるのも耐えられない。
 帰ってくると約束して、如何しても柱間様との和解が叶わないなら私も連れて行って下さい。

 女の指が、腕に縋り付く。他ならぬマダラ自身の手で封印術を刻んで、印一つ組めない腕は年よりずっと華奢に見えた。その、女特有のあまりにか弱い四肢はマダラが最も嫌うものだ。
 マダラは女を見下ろした。女はマダラの服の袖をきつく掴んだまま、俯いている。女がどんな顔をしているのかは、マダラの関心の外にあった。何せ、あと半刻と過ぎない内に戦場へ往くのだから、女のヒステリーに付き合っている暇はない。本来であれば各部隊の隊長と作戦の最終確認を行ったり、武具や兵糧の数を確かめている頃だ。そうと分かっていながら、体が動かない。
 金縛りにあったまま、項垂れた女を見下ろす。女の背を艶やかな緑髪が流れていく。その隙間から、透き通るように白いうなじが覗いていた。悍ましいほどに細く、脆い首。
 マダラは女が嫌いだ。“目にするのも嫌”というほどではないにしろ、率先して付き合いたい相手ではない。増してマダラは自分のやろうとしていることを邪魔されるのが大の嫌いである。
 それでも夫婦関係にあるならいざ知らず、この、今マダラに取り縋る女は一介の下女に過ぎない。気晴らしでそばに置いていただけの玩具である。マダラ自身は決して自分のことを短気だと思ったことはないが、相手が“女”で、進軍前の最悪のタイミングで面倒事に巻き込まれたの踏まえると、苛立つのも仕方のないことだ。腹が立たない人間のほうが可笑しい。
 マダラは左手に持った軍配を握り直して、いよいよこの女を払いのけようか思案した。

 マダラの纏う空気がピリと尖るのを察したのだろう。女はやおら顔を上げた。
 戦を間近に控えた高揚で赤と黒が入り混じる瞳に、昔馴染みによく似た――いや、今となっては“似ていた”と言うべきなのだろう――女の無表情が映りこむ。
 マダラの“女嫌い”は一族中に知れ渡っている。二十歳も越えて独り身を貫いていることからも、その女性蔑視は有名だ。それにも関わらず、マダラがこの女を拾ってきたことに対して“何故か”と問う者はごく少なかった。度重なる戦で一族全体が疲弊していて、頭領の“拾いもの”になど構っていられなかったのもある。しかし“大したことではない”と捨て置かれたのは、マダラが“女”以上に嫌うものが何か知っていたからだろう。マダラは女を嫌い、更に他人に邪魔されることを嫌う。そして他人の指図を受けると目に見えて不機嫌になる。一族の人間が“暗黙の了解”で口を噤むなか、ただ一人すぐ下の弟だけはマダラの取得物を前に「兄さんは分かりやすいよね」と苦笑した。
 イズナは昔からマダラよりずっと賢く、自慢の弟だった。イズナにとっても自分は唯一無二の存在だと自負していたが、聡い弟は稀に兄の奔放さをチクリと刺すことがあった。
 如何しようもない風に微笑するイズナから顔をそむけて、マダラは“弟の言う通りだ”と思った。
 マダラは分かりやすい人間だ。自分でも、何故この女を拾う気になったのかは分かっていた。

 鬱屈とした気持ちで、マダラは女を見下ろした。
 自分を見上げる黒々とした瞳は長い睫毛に縁どられ、出会った時は雑に切りそろえられていた緑髪は後頭部で結わえられている。着物の下にある肢体の柔らかさを、マダラはよく知っていた。
 かつて、この女は柱間によく似ていた。しかし、今マダラの前にいるのは一人の“女”だ。マダラという友より自分の一族を、弟の命を選んだ事実に逡巡していた友の影はどこにもない。

 この女は柱間ではない。
 マダラは、誰よりそれを分かっているはずだった。

 柱間はもういない。マダラの下を永遠に去ったのだ。柱間はマダラを選ばなかった。
 そうやって何もかも柱間のせいのように言うが、マダラの自業自得だ。先んじて柱間を切り捨てたのはマダラだった。悟ったような声音で、自分たちの夢を“絵空事”と口にした。物わかりの良い子どものふりをして、別れを告げた。弟を守るために、離反の意志がないことを示すために平静に振る舞った。柱間が引き留めようと言葉を重ねるのが嬉しかった。もう二度と友と呼ぶことはなくとも、戦場で会うことが出来る。何もかも承知で自分から切り捨てたくせ、柱間が自分を裏切ったように思うのはあまりに幼稚だ。しかしどれだけ理性を連ねようと、マダラは柱間に裏切られた気持ちでいた。自分がうちは一族の人間と知って、騙し討ちしようとしたのか。自分の弟を殺そうとした人間を庇うのか。たかが血の繋がりがあるというだけで――自分だって柱間の弟を殺そうとした人間を庇ったくせに――二人語り合った“夢”はあんなに自由だったのに、自分たちは所詮“血族”という鎖に繋がれたまま、自らの意志でその鎖を千切ることさえ出来ないのだ。
 あの日マダラが本心を露わに柱間に取り縋っていたら、何が変わっただろうか。きっと何も変わらない。考えてみたところで、息子の愚かさを恥じた父親に殺される図しか浮かばなかった。

 幼い頃の談笑も、親密さも、信頼も、何もかも砂上の楼閣だった。
 子ども時代の淡い友情。当時のことを思い返して“何もかも嘘だった”とまでは言わないが、それでも、きっと、十年以上も昔のことをこんなに引きずっているのはマダラだけだ。もし柱間がマダラへの友情を、好感を捨てきれないのだとしても、それは最早“過去”に過ぎないだろう。昔馴染みに情を掛けているだけ。真っ直ぐで、純粋で、人々のことを考え、そして慕われる柱間。二人語り合った“夢”を育てているはずだ――マダラ抜きで、もしくはマダラの知らない誰かと。
 柱間はもうマダラの傍にいない。柱間はマダラを選べなかった。マダラが口を噤んでいれば、別れを切り出したのは柱間だっただろう。あの日、まだ二人は単なる友だち同士だった。次に会うのが戦場だと分かっていてさえ、あの日あの瞬間すぐに殺し合うことは出来なかった。“氏素性が知れたからにはもう情はない”という演技をしなくては、戦いを回避することは出来なかった。柱間も、それは分かっていたはずだ。如何しても柱間にそんな演技をしてほしくなかった。
 自分が傷つかないために、柱間の下を去った。ただ一度自分の渇望から目を背けたばかりに、柱間に似た子どもを放っておくことが出来なかった。時間を巻き戻して、やり直したいと願った。
 あの子どもは柱間ではなかった。柱間はもういない。自分が拾ったのはただの子どもで、今更時間が巻き戻ったところで、結局マダラは弟を選ぶ。何度でも、繰り返し弟を選ぶだろう。
 馬鹿馬鹿しい感傷だ。もう全部終わりにしよう。柱間は単なる敵で、自分が拾ったのは柱間に似ているだけの子どもだ。それも、性別も違う。柱間に似ているなんて、そう思う方が可笑しい。
 この子どもは柱間ではない。それを確かめるためだけに、組み敷いた。

 女は事あるごとに「女に産まれるのは損なことです」と口にしたが、その肢体は皮肉なほどに男の体とかけ離れていた。女の四肢はしなやかで、火照った皮膚はしっとりと柔らかい。
 男だったら良かった。男だったらきっと仲間外れにされなかった。肩まで伸びた髪を摘まんで、女が言う。どれだけ望んだところで、女は“女”で、到底男の腕力には抗えない。

 マダラは、自分の下で、戯れに摘んだ蕾が蕩けゆく様をまじまじと見つめた。
 女は、自らの性が与える懊悩にどこまでも従順だった。好きでもない男に処女を散らされるのは屈辱だろうに、暴れる気配もない。初めこそマダラの意図を問いただしたが、“コト”がのっぴきならない段階に至ると口を噤んだ。時折鼻に掛かった声を漏らすだけで、何もかもが終わるまで女は無言だった。まるで、ちっぽけな小屋のなかで嵐が過ぎ去るのを待っているように。
 マダラはありとあらゆる女を嫌っているが、喘ぎ声の五月蠅い女はその筆頭だ。黙って犯されてくれるならそれが一番良いはずなのに、女の“物わかりの良い態度”が如何しても許せなかった。
 まだ青臭さの残る体を乱暴に揺さぶって、最奥に吐精する。女はぐったりと目を瞑っていたものの、怯えた様子はなかった。捨て鉢になっているのでも、諦観に支配されているわけでもない。マダラの激情を見透かして、ありのまま受け入れるのが一番良いと分かっているのだ。
 自分たちの力量差は言うまでもない。退けることが出来ない以上、下手に逆らえば尚更痛い目を見るのは分かりきっている。尚且つこの女は、マダラに幾らかの恩があった。マダラの気持ちが落ち着くまで、マダラの好きにさせれば良い――そう考えているだろうことは明白だ。いつもどおり、女は極めて冷静だった。なるたけ自分の本心を晒さず、全てをやり過ごそうとしている。
 マダラは女に覆いかぶさったまま、自分という異物がすっかり収まった腹を撫でた。
 十月十日過ぎたら、この平たい腹も膨れるのだろうか。そして、望まぬ子を授かったと知っても尚、やはりこの女は泰然と最善手を指すのだろうか。そうかもしれない。マダラは思った。

 この子どもは――女は、柱間ではない。
 マダラには分かっていた。
 この女は柱間ではない。
 それでも、誰かに似ている気がした。
 そして、マダラはそれが誰かを思い出したくもないのだ。
 
 柱間にまるで似たところのない女が、嵐が過ぎ去るのを待っている。
 男だったら良かった――たった一度、自分の渇望から目を背けた――千手の人間でなければ良かった――やり直したい――未来を変えたい。未来を変えたい。……あの頃夢見た未来を、何年も十年もずっと永遠に引きずる。時間が巻き戻ったら、未来を変えたい。誰しもが望むことだ。未来を変えたい。だって、あんなの嘘。あんな未来が現実だなんて、そんなこと許せない。嘘だ。

 たった一度、自分の渇望から目を背けた。傷つきたくない一心で、自分に嘘をついた。
 ……それが、自分の望んだ全てを失うほどの罪なのだろうか?

 女の腹に収まっていた自分自身を引き抜く段になって、やっと女がその顔を曇らせた。
 汗ばんで疲弊しきった女の顔には、最早柱間の名残は一片も残っていない。分かりきっていたことだ。あの日拾った子どもは柱間ではなかった。この女を“幼少期の思い出”から“生身の女”へと貶めたのはマダラ自身だった。男を受け入れるために設えた体は、刃を振りかざすには脆すぎる。
 女など、所詮子を孕むだけの道具。そして子を産んだところで、この地獄のなかでやがて死ぬ。命に意味があっていいはずがない。どうせ皆、惨たらしく朽ちるために産まれてくるのだ。
 どうせ地獄で生きる他ないのなら、戦いに身を投じるほうがまだしも慰められる。マダラはただ自分の忍術が、自分という一人の忍が更なる高みへ近づくことにしか興味がない。
 マダラと同じ場所に往けるのは、たった一人――柱間だけ。それがマダラの心の支えだった。

 最愛の弟も喪った今、マダラが生きているのは真に柱間の存在故だ。
 柱間と戦い、柱間に勝利することがマダラの求めるものだった。マダラの胸中には無論扉間への怨嗟も、一族に対する愛着も少なからず存在する。それでも、マダラを奮い立たせるものは柱間への執念でしかない。いや、そうでなければいけなかった。死んでいった仲間たちのためにも、死の間際にさえマダラの進退を案じていた弟のためにも、マダラは千手と戦う必要がある。

 誰にも、マダラの気持ちは分からない。
 唯一信頼した友に裏切られ、弟たちを立て続けに喪い、父親とは終に分かり合えなかった。父親にも、イズナにも、柱間にさえ分からなかったものが、この女に分かっていいはずがない。


 懸命に改心を訴える女を見下ろして、マダラは自分のなかにある殺意を自覚した。
 弛緩しきった思考に“殺そう”と囁く声がある。この女は、到底マダラの望む“戦いの高揚感”を与えてはくれない。マダラは女の言を聞き流しながら、僅かに右手を上げた。
 殺そう。この屋敷に、弟たち以外の待ち人は要らない。空っぽの生家のなかで“愚かな男だった”と嘲られ、やがて自分という男がいたことさえ忘れられるのなら、今、ここで。
 その首に手を掛けると、女は眉を寄せた。左腕に縋っていた指が離れる。抵抗するのかと、口角を上げる。女が自己保身を測ることが堪らなく嬉しかった。せめてもの慈悲で忍術も忍具も使わないでやるから、精々抗って見せろ。軍配を放り出すと、マダラは両の手で女の首を捉えた。
 女は悲鳴をあげるでも、呪詛を漏らすでもなく、感情の奔流に耐えるようにきつく唇を噛んで噤んでいた。マダラより短い腕を精一杯に伸ばして、その頬にやっと触れる。
 出会ってから三年。いつもマダラの憎悪を受け止めて、真っ直ぐ見つめ返してきた漆黒の瞳を瞼が覆った。絞められると悟った家禽のように目を瞑って、女は体中の力を抜く。
 白い頬を流れる涙は顎を伝って、マダラの手の甲に落ちた。涙滴が、皮膚の上で熱を失う。

 靄が掛かったようにぼやけた視界のなかで、マダラは女を凝視した。
 女はマダラより遥かに年下ではあったが、マダラの知る誰より思慮深かった。いや“思慮深い”というより感情の起伏に乏しいのかもしれない。流石に人形よりかは感情的で、一族の子どもらと児戯に興じて笑うこともあったし、マダラが罵ると悲し気に顔を伏せることもあった。
 兎に角女は他者への献身を好いていて、部外者であるにも関わらず“うちは一族”の平穏と安定を心の底から望んでいた。今では一族の子どもらは皆、この女に懐いている。大人たちも、殆どが好意を持って受け入れているようだった。この戦乱の世において異邦人が信頼を得るのがどれ程大変なことか顧みれば、やはりこの女は“芯から柱間に似ている”のだと思った。

 マダラは、幼いころから父に“不出来な息子”として散々その行く末を案じられてきた。
 母は母で“この子は、頭領の座を継ぐには甘すぎるのではないかしら”と父の不安におもねて、そもそも長男が忍者として大成することさえ期待していなかった節がある。
 それが写輪眼が目覚めたことで一転、父母はマダラに期待をかけるようになり、休む間もなく戦場に赴いている内にいつからか皆がマダラの実力を認めるようになった。
 それでもマダラが幼いころ、“忍の才能”があるとして持て囃されたのはイズナだったのである。
 父母の評価が低いことに特別傷ついていたわけではないし、マダラはそれなりに二人を慕っていた。一族の頭領たる父親は息子よりうちは全体の未来を考えるのは当然のこと、その妻にしたって安易に我が子を甘やかせば一族に示しが付かない。当時は何もかも仕方がなかった。
 親を怨むかと言われれば、マダラは答えに窮する。育ててくれたことには感謝している。情もある。亡くなった今となっては、二人の姿を懐かしく思い出すこともある。
 しかし包み隠さず口にするなら、“如何でも良い”というのがマダラの本心だった。
 もしかすると、少しは両親への不満があったのかもしれない。マダラは、屈託なく自分を慕う弟たちを心の底から愛した。自分の才覚など度外視で、“兄さん”と追いかけてくるのが嬉しかった。
 父母から期待されていたイズナだけではない。戦場の露と消えていった弟たちのいずれも、マダラの自慢だった。それぞれに賢くて、優しくて、心の底からマダラを愛してくれた。
 その自分に抱き付いて無邪気に笑っていた弟たちの一人として、もう……

 女を縊る手に込めた力が、自然と強くなった。
 じき、出立の時間までには全て終わらせることが出来るだろう。
 女の言うことが正しければ、マダラは二度とこの屋敷に戻ってこない。弟たちと暮らしたうちは一族の集落に、マダラの愛した人間が誰もいない世界に二度と戻ってこなくていいのだ。
 柱間と夢を語り合った頃には二度と戻れない。そう自覚してから、十数年が過ぎていた。二人で語り合った夢は疾うに記憶の彼方で、共に笑い合っていたこと自体が白昼夢だったのではないかとさえ思う。うたた寝から目覚める。マダラを慕って、共に戦場を駆け抜けた弟がいない。誰もいない。どこにもいけない。今更休戦協定を結んだところで、マダラが帰る場所はどこにもない。

 たった一度、自分の渇望から目を背けた。傷つきたくない一心で嘘をついた。
 それが、自分の望んだ全てを失うほどの罪なのだろうか。マダラには、分からない。
 マダラが望んだのは、人一倍凡庸な暮らしだ。信頼した相手と屈託ない友情を育んで、最愛の弟たちと共に生きていきたかった。マダラが望んだのは、それっぽっちのことだ。
 世界で一番強くなりたかったわけでも、大金持ちになりたいとか、一国の主になりたいと望んだわけでもない。ただ自分が愛した人々と共に生きていきたかっただけなのに、それさえ叶わない“現実”に何の意味がある。未来を変えたいと、愚かな望みを抱く。あの頃夢見た未来を、何年も十年もずっと、永遠に引きずる。喪失の痛みは生々しい真皮を露わに、いつまでも血を流す。
 この地獄が一体いつまで続くのか、マダラには分からなかった。


 血の気が引いた唇が、酸素を求めて喘ぐ。
 マダラは他人事めいた無関心で、あまりに脆弱すぎる命が潰える様を見守っていた。
 どうせ、この女だって、帰る場所など有りはしないのだ。今ここで死んだほうが、楽になる。
 往来に人の気配を感じたマダラは冷え冷えとした視線を女に注いだ。未だマダラの頬に触れたまま、理不尽に抗う力もないか弱い女。恨むなら、男に蹂躙される他ない己の性別を恨め。
 玩具一つ壊すのにこれ以上時間を掛けてられない。そう思うと同時に、女の唇が微かに動いた。

『きょうがおわれば、イズナさま、に、あえますね』

 途切れ途切れに絞り出して、女が苦笑した。
 その、心の底から安心しきった笑みに指の力が緩んだ。大きく咳き込んだ女が、言葉を続ける。
 死の痛みは一瞬だけれど、愛した人に置いていかれた苦しみは永遠に続く。マダラ様が頑として柱間様と和解する気がないのであれば、千手一族もそれなりの措置を取るでしょう。
 私はずっと、大切な人を一人で死なせたことを悔いてきました。わたしも、いっしょに。
 女の目元から溢れた涙が止め処なく手を濡らす。その頼りない温もりに、頭が真っ白になった。
『今ここで、私も死ぬ。マダラさまは……私も、私たち、頑張りましたもの』
 これまで目にしたありとあらゆる笑顔のなかで一等幸福そうに、女が微笑する。


 ここで終わりにしても、きっと、誰も責めない。


 マダラは女の細い体をかき抱いた。自暴自棄に震える唇を乱暴な口づけで塞ぐ。
 驚いた女は、マダラの胸を必死に押し返した。その体が酸素不足でヒクヒクと痙攣しているのを感じ取ると、マダラは女の唇から顔を離した。動揺しているにも関わらず、そして今さっき生を手離そうとしたくせに、女の体は健気に呼吸を繰り返す。例え死を覚悟していても、呼吸や睡眠といった生理現象には抗えない。ぜえはあと肺を膨らませる女は目を白黒させて、生を享受している。
 マダラの腕のなかで、華奢な肩を上下させて喘ぐ体は温かった。温かくて、柔くて、脆い。 
 女の呼吸が整うや、マダラは再び女を抱きしめた。二人して三和土に崩れ落ちて、女の肩に顔を埋める。この地獄はいつ終わる。そう低く唸ると、女が戸惑いがちにマダラの背に手を回した。
 何もない。誰もいない。いつになったらオレの地獄は終わるんだ。

 柱間という友を失い、最愛の弟を失い、一族の人間にも亡命を企てるものが少なくなかった。
 女と出会う前から、凋落の兆しはマダラの足元まで忍び寄っていた。
 休戦協定の書状を無視すると決めた時点で、それでもマダラについていくと此度の戦に出る忍は百もいない。みな自分と同じ、帰る場所もなく意固地になっているものばかりだ。
 自暴自棄になってバカなことをしている。女には、それがよく分かっているはずだった。何せ、この女は“戦乱の世は千手一族の勝利で終わる”と端から知っていたのだから。
 その女が、何もかもを悟った上でマダラと共に死ぬと言う。最早感情さえしわがれて空っぽの胸中に、かつての恍惚が蘇る。二度と帰れないはずの場所が、ここにある気がした。
 マダラの背を撫でさすりながら、女が音もなく涙を流す。もう良いんです。もう良い。もう、良いの。それはマダラに言っているようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。
 私が要らなくなるまで、ずっとお傍に置いてください。


 マダラは、自分が求めた唯一の異性が如何いう性質の人間かよく分かっていた。
 女は他人への献身を善とし、自らの欲得を考えてはならないと思っていた。凡そ他人を憎んだことはなく、他人の手助けを苦に思わない。万人に優しい代わりに、理由なしに個に入れ込むことを拒んでいた。マダラと共に地獄へ落ちることを望んだのは、そういう女だった。
 その献身が自分が生き続けることへの償いだと知る前から、マダラは“風に吹かれただけで崩れてしまいそうだ”と思っていた。徹底して自我を否定され、自分はこの世界に産まれてきてはいけなかったと信じ込んでいた。友に裏切られて、奈落の底へ落ちてきた。
 女と出会う前から疾うにマダラの地獄は始まっていたが、それは女も同様だった。
 自分は人間ではない。そう笑う女の地獄がいつから始まっているのか、マダラは度々考えた。
 女を不幸にする何もかもが憎かった。それと同時に、女の傍らに自分以外残っていないことが喜ばしかった。女の地獄には、自分以外誰もいない。その現実に深い充足感を覚える自分に反吐が出る。幸せにしてやりたい。普通の家庭を、女に与えてやりたい。それが叶わないからこそ、女はマダラの手に縋る。破壊衝動と愛情の間でマダラは如何しようもなく女を求めた。

 女は、常に自分が存在する理由を求めて神経を摩耗させていた。
 お前は、ただオレのためだけに生きていればいい。そう言うと、女ははにかんだ。サラリと受け流されることからも、“それ”がいつもの気まぐれや、戯れと思われてるのは明白だった。
 それでも、女が自分の言葉で幸せそうに笑ってくれるのが堪らなく嬉しかった。
 お前はオレのものだ。ただオレと番うためだけに産まれ、生きている。そんな浅薄な言葉一つで救われるなら、何千回でも口にしよう。自分の存在一つで幸福になってくれるのが愛しかった。
 最早代償行為の延長線上で恋愛ごっこに興じているだけなのか、この女自身を愛しているのかはマダラにさえ分からなかった。女が笑っていると、穏やかな気持ちになった。

 いつか、自分の地獄が終わるときは一緒に死のうと思った。
 この地獄のなかで命が永らえるなら、必ずこの女の下に帰ってこようと思った。

 長い黒髪が扇のように広がって、キラキラと光を反射する。
 風に涼んでいた女がふと振り向いて、自分の視界を阻む髪を耳に掛ける。細めた瞳は、幸福そうに微笑っていた。互いの瞳のなかに、互いの姿がある。手を伸ばせば、すぐに女を捕まえることが出来た。女は自分の腕にじゃれついて、はにかんだ。破瓜の夜、マダラの下で頑なだったのが嘘のように、女は安心しきった素振りでマダラの胸に収まる。マダラも幸福だった。
 不意に、女がため息を漏らす。なんてうつくしい景色でしょう。もう、街並みがあんなに整ってる。自分の腕のなかで無邪気に喜ぶ女のほうが、マダラにとってはずっと美しかった。
 群れ集まって暮らしたところで人間の本質は変わらない。いずれまた戦火は起こる、幾度でも。
 女が傍にいたとはいっても、戦の高揚から遠ざかったマダラの胸中には生来の鬱屈がどっしり居座っていた。この世界は地獄だ。悲嘆でも怒りでもなく、冷静なまでの侮蔑と達観が頭蓋を満たした。息を吸うだけで心の臓から腐れていく。地獄さえ、ここよりはずっとマシだろう。
 聞き飽きただろう呪詛を漏らすと、女は何でもない風に破顔して、マダラに手を伸ばした。女の手がマダラの手に触れる。例えこの世界が地獄でも……そこにあなたがいるのなら、私も生きていたい。深々とした絶望を前にしても、女は浮かべたままの笑みを崩さない。
 女の笑みを見て、“感性が麻痺して、幸と不幸の区別もつかない白痴だ”と思ったこともあった。柱間と同じ、才能と求心力に恵まれて“闇”が何かも知らない人間だと思っていた。
 自分と共に死ぬと口にして尚笑う、その姿を目にするまで。


『例えこの世界が地獄でも……そこにあなたがいるのなら、私も生きていたい』
 マダラのために紡がれた言葉の裏に、どれ程の懊悩があっただろう。
 毒杯かもしれないと煽られて尚、差し出された杯を飲み干す。破瓜の血で汚れた体を清めるでもなく、冷たい川に分け入る。燃え盛る火のなかに、何の躊躇いもなく腕を入れる。
 夜の帳のなか、意識の浮上と共に薄く目を開くと、女が自分の寝顔を見つめているのに気づく。

 マダラは、決して柱間に痛覚がないと思っているわけではない。
 ただ、柱間の感性は理解の及ばないところにある。マダラはそう思っていた。柱間にとって、自分の存在が如何でも良いわけではない。マダラが柱間の存在を意識するように、柱間もマダラのことを強く意識している。マダラの一挙一動に傷つくこともあれば、喜ぶこともある。
 それでも、マダラには柱間の物の感じ方、感情の機微に同調することが出来なかった。
 共にいた頃は自分を引き付けてやまなかった“差異”は、戦場以外で顔を合わせることのなくなった今、単なる“距離”でしかなくなってしまった。マダラにはもう、柱間の感情が見えない。

 閨のなか、自分の胸板に頬を寄せた女が息を潜める。
 女はマダラの鼓動に耳を澄ませて、その体温を全身で確かめているようだった。怪我で臥せっているときは例外として、マダラは女の寝顔を見たことがない。今宵こそは女が眠るのを確認しよう……そう思っていても、結局マダラが先に睡魔に飲み込まれてしまうのだった。

 眠りに薄れゆく意識のなかで、夜ごとマダラは女のことを考える――この女は、朝までずっと起きているのだろうか? きっと、そうなのだろう。そういう女なのだ。
 夜のなかで気配を殺して、如何しようもない不安を抱えたまま夜明けを待つ。自分の隣で眠る男の鼓動が止まるかもしれない。自分が眠った瞬間、どこかへ消えてしまうかもしれない。“終わり”を迎えるその時まで答えの出ない問いに囚われたまま、女は昨日と今日の間を生きる。
 朝日が差そうと心から気が休まることは決してないだろうに、女は笑う。冴え冴えとした、清浄な光のなかで暮らすため、自分に嘘をついて、全ての不安を誤魔化して笑うのだ。

 マダラには女の苦しみが分かる気がした。
 マダラの地獄を紛らわしてくれるのは、戦いの高揚だけだ。それと同じで、詰まらぬ日常の営みが女の地獄を紛らわしてくれるのだろう。女にとって、人間らしい生活は大切なものらしかった。
 戦火のただ中でのみ心が晴れる自分と、吹けば飛ぶような平穏に心が晴れる女。
 対極の存在であるはずなのに、何故マダラは女の物の感じ方、感情の機微に既視感を覚えるのか。柱間の時と同じ、単に“差異”に惹かれたのかもしれない。しかし、それと同時にこの女が自分と柱間の気持ちをまた繋げてくれるかもしれないと、そう縋る気持ちがあったように思う。
 いつからか、マダラにとって、女はかけがえのない存在になってしまった。
 マダラには分かっていた。誰にもマダラの気持ちは分からない。この女を除いては、誰にも。
 父親にも、イズナにも、柱間にさえ分からなかったもの。それとそっくり同じものが女の胸奥にある。傷の舐め合いかもしれない、とも思った。単に行き場がないだけで、それとも処女を捧げた相手だからと、義務感で付き従っているだけかもしれない。マダラは、女の真に求めるものにはなれないだろう。それでも自分の存在で女の気持ちが慰められるなら、自分たちの関係がどれだけ低俗で陳腐なものだろうと構わなかった。愛し合っていると思った。幸せだった。

 マダラは、女のことを心の底から愛していた。
 女は自分の傍らから消え、深い傷を遺した人間より、マダラを選んでくれたのだ。その事実の前に、言葉は要らなかった。どれ程深い葛藤があったとしても、結局は自分を選んでくれる。決して誰にも渡さない。自分の下から逃がさない。永遠に、人皮の鎖に繋ぎ続けよう。
 女の手を握り返すために、マダラは指先の神経に意識を向けた。順調に都市計画が進んで、里は日に日に賑やかになっていく。地獄とは言い難い平穏を眼下に、マダラは女の手を探した。

 どんなに手を伸ばしたところで、そこには誰の温もりもないと知っていたのに。


◆ ◆ ◆


 深々とした眠りから覚めると、マダラは一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
 瞼の奥に残っている女の笑みが“現実”を麻痺させる。それでも何もかも夢だと自覚するや、マダラは傍らに手をついた。魔像の前に置かれた石の台座は地下の冷気に触れて余所余所しい。
 マダラは節ばってシワだらけの手を何とか動かして、胸元を掴んだ。肺に上手く酸素が入らない。オビトは――魔像は――鉛のように重たく冷たい体と裏腹に忙しない思考回路が徐々に落ち着きを取り戻していく。もうこの体の役目は終わったというのに、まだ生きているのか。
 長年魔像のチャクラを体に送り込んでいたからか、根を断ち切ったところで早々死ねないらしい。さりとて根が繋がっていた時でさえ十分に体を動かせなかったのだから、不便なことだ。
 心中で悪態をついていると、洞窟の隅で何事か作業していたトビがはっと顔を上げた。

「うわ、まだ生きてる。チーッス! ちゃんと仕事はしてまぁす!」
 確かにマダラ自身も“まだ生きているのか”と思ったには思ったが、赤の他人に屈託なく漏らされるのは不愉快である。いや赤の他人とはいえ、マダラにとってはある意味我が子のような存在かもしれない。それならそれで余計腹立たしいだけなので、マダラはトビから顔を背けた。

 台座に腰かけたままグッタリしていた体を何とか起こして、背もたれに寄り掛かる。
 ゼツにしろトビにしろ、基本的にマダラから働きかけない限り深く関わってこない。他人の手で……それも、あんなフザけた人造体の手に掛かって死ぬぐらいなら、このまま寿命が尽きるのを待つほうがずっと良い。そう判断して、マダラはトビの存在を黙殺することにした。
 あまりに弱々しい挙動に何か思うところがあったのか、もしくはオビトにしょうもないことでも吹き込まれたのか、トビが「うんこなら取るよ!」などと話しかけてきたのも無視する。
 オビトとここを出て行ったはずのトビがいるのは、魔像の管理のためもあるだろうが、一番は“死にぞこない”の経過観察のためだろう。幾ら柱間の細胞が体に馴染んできたにしろ、まだトビを身に纏っているほうが――いや、オビトがここを去ってからどれだけの時間が流れたのだろう。
 如何しても計画の進行具合が気になる自分に対して、マダラは自嘲の笑みを浮かべた。
 顔の筋肉を動かすだけでも億劫なのに、今更オビトの動向を気に掛けたところで意味がない。オビトは性根から甘い子どもではあるものの、その“絶望”には信頼が置ける。
 何もかも順調に進んでいる。何の問題もない。そう言い聞かせて、マダラは目を瞑った。

 脇についたままの手に、石の冷たさだけが広がる。
 手のなかは空っぽで、最後にあの女に触れたのがいつかも思い出せなかった。
 今度こそ、この眠りのなかでマダラの“地獄”は終わるのだろうか? 薄れゆく意識のなかでそんなことを思って、口端を歪めた。マダラは、自分の地獄がいつ終わるか知っている。


『例えこの世界が地獄でも……そこにあなたがいるのなら、私も生きていたい』
 マダラ様が往かれるなら、そこが地獄でも、戦場でも、私はどこへでも共に参ります。

 疾うに失せた幸福のなかで、マダラはトバリの手を握り返した。
 ずっと二人、共に在ることが出来ると信じていた。愛していた。愛されていた。些細なことで嬉しいと言っては涙をこぼした。甘えるように身をゆだねては、怖いと口にした。
 微かな風にさえ壊れてしまいそうな脆い心臓を晒して、気遅れした風に笑っていた。
 幸福そうに笑うトバリの顔を見ていられたのは、千手一族と休戦協定を結び、木ノ葉隠れの里の設立が落ち着くまでの僅かな時間だった。その、ほんの半年ほどの間で結納を済ませた。
 子どもは望めないと口煩く言い含められていたし、年が離れすぎているのも分かっていた。それでもマダラはトバリが良かった。自分の隣にトバリがいないのはあり得ないとさえ思った。
 不幸を比べるわけではないが、マダラにはトバリの孤独が如何ほどのものか想像が付かなかった。少なくともマダラは自分を抱く父母の腕を知っていて、自分にじゃれてくる弟たちの屈託ない愛情を知っている。それを“最初から何もないほうが辛くない”と言ったのは、トバリだった。
 皮肉なことに、誰よりもトバリがマダラの感情の機微を捉えることに長けていた。

 マダラが一族に向ける想いも、イズナたちへの愛情も、柱間に対する激しい憧憬も、扉間への妬みや憎悪、未来に対する不安――トバリは、誰よりもマダラのなかにある感情に聡かった。そして父母のようにマダラに期待を掛けるでもなく、弟たちのように無遠慮に甘えてくることもなかった。いつもマダラの傍らに座して、胸奥で身を焼くほどに猛る激情に注意深く触れてきた。
 イズナの死後、マダラの精神の均衡を保っていたのは間違いなくトバリだった。

 他人の夢が着々と現実のものとなっていくのを、二人崖の上で眺めた。
 柱間への劣等感と失望、疾うに自分から心が離れつつある一族の人間との摩擦のなかで、マダラは大した感慨もなくボンヤリしていたのを覚えている。今思えば、トバリが柄にもなくはしゃいでいたのはマダラの気持ちを里に縛りつけるためだったのかもしれない。
 実際、その頃には自分より弟を選んだも同然の柱間より、自分のためだけに生きるトバリの存在のほうが重くなっていた。自分の決断で、トバリが子どものように喜んでいるのが嬉しかった。

 誰よりもトバリの言葉が、温もりが、仕草がマダラの心を慰めてくれた。
 トバリは、あんまりに不安や気鬱を紛らわすのが上手すぎた。だからこそマダラはトバリを失うその日まで、トバリが自分の傍らから居なくなることを考えたこともなかった。


 夢うつつを行きつ戻りつする意識のなかで、マダラは繰り返しトバリの面影を探した。
 黒々とした長い髪。自分に向けて微笑む瞳。慈愛に満ちた言葉を紡ぐ唇。孤独を紛らわそうと、伸ばされる腕。会いたい、と思った。幻でも良いから、もう一度トバリの手に触れたかった。
 トバリはもう産まれただろうか? この世界に、存在しているのだろうか。オビトは大丈夫だ。子どもの精神を塗りつぶすのは容易い。しかし疾うに成人していたカンヌキは――いや、問題ない。何十年でも何百年でも……オレはお前が産まれてくるのを待とう。
 腸を直接かき混ぜられているような不快感と息苦しさのなかで、マダラは身を震わせた。マダラの地獄はまだ終わらない。トバリなしには、マダラの地獄は決して終わらない。
 気の遠くなるような孤独のなかでお前のための“未来”を用意して、お前が全てに絶望するまでの筋書を作った。だから、二人が再会した暁には共に全てを否定しよう。
 この現実こそが地獄だ。マダラの存在がある限り、トバリは必ずマダラの下に戻ってくる。

 お前はオレのものだ。ただオレと番うためだけに産まれてくる。
 果たしてその事実に救われるのは誰だったのか、今のマダラには思い出すことが出来なかった。
煉獄できみを待つ
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