▼ 73 もっと早くに気づいていれば
「串焼き、ケバブ、レモネードと……スカーレットブルの試飲」
「食べてばっかりね二人とも」
そういえばアカデミー入学したばかりのオリエンテーションの鬼ごっこで学食食べ放題にやる気を見せていたな、とハンナは思い出し、
エドワードは「振られるかも」と落ち込んでいたクリスマスデートの夜も食欲が落ちていなかったリツを思い出し、妙に納得していた。
「なんだか可哀想だわ」
「なにが」
「リツ、たぶんアカデミー卒業後はヘラクレスジャスティック、よね」
「ヒーローは目指してないって言ってたしな。アカデミー出の兄貴もヘラクレスジャスティック、社長が親戚ってことはまあ、引っ張られるんだろうな」
そうよねぇ、とハンナは手を繋いでいるイワンとリツの姿を見ながらため息をついた。
「警護士って、仕事中は飲食一切出来ないらしいのよ」
「へえ、そりゃ……大変だな」
「トイレも行けないし。警護対象がいい匂いさせて美味しそうなもの食べていても何も食べられないなんて。リツ耐えられるかしら」
エドワードは次に何を食べようかと周囲をキョロキョロと見ているリツを見てため息をついた。
「……これからの成長に乞うご期待、だな」
色気より食い気。そんなイワンとリツだが、エドワードはいつまでも二人はそのままでいて欲しい気がした。
「あら、風船貰うみたいね」
顔を白く塗り派手なメイクをしたピエロがリツに風船の紐を差し出した。
リツの歳を考えればいささか子供すぎるような気もしたが、半分ニホンの血が流れるリツはほんの少しだけ実年齢よりも幼く見えるので、まだまだ子供だろうとピエロは風船をプレゼントしようとしたのだろう。
ピンク色の、耳の長いうさぎの形の風船がふわふわとリツの手に渡った。
リツもイワンと顔を見合わせ、少し照れたように笑いながら風船を受け取ると、ピエロはポケットから細長い風船を取り出し息を吹き込んだ。
何を始めたのかと見ていれば、長くふくらませた風船をリツが受け取ったうさぎの耳に巻き付けねじり、可愛らしいリボンの形になった。
「……かわいい」
ハンナがぽそりと呟けば、それを拾ったエドワードが近くのバルーンスタンドを指さした。
「こっちにもあるぞ」
「い、いらないわよ、私は別に、風船なんか」
子供っぽい独り言を聞かれてしまい、ハンナの頬に朱が差した。
「まーまー、そう言わずに!」
エドワードはひとりで勝手に歩き始めた。
「ちょっと、二人を見失ってしまうわ!」
「大丈夫だって。周り見てみろよ、あのウサギの耳にリボンつけてる風船持ってるのリツだけだろ」
「……え?」
ハンナは立ち止まり周りを見渡した。
確かにエドワードの言う通り、ウサギの耳に後付のリボンのバルーンを飾られた風船を持つ者は誰もいなかった。
「でも、そんな……」
ざわざわと周囲の雑音がひときわ大きくなった気がした。
なにか大切なことを見落としている気がするのだ。
ハンナは恐ろしくなって胸の辺りを手で押さえた。妙にドキドキと拍動が主張してくる。感じたことの無い不安が周りの声とともに膨れ上がって飲み込まれてしまいそうだ。
「おーい、耳に風船のリボン付けてくれるって……おい、どうした?」
ハンナの少し先の店でエドワードは勝手に風船の話をつけていたようで、店員の女性がウサギのバルーンにガスボンベからヘリウムガスを吹き込んでいた。
「あ、い、いらないって言ったのに!」
「もう金払っちまったし」
「風船なんてそんな目立つ……もの、」
ハンナの目が風船に釘付けになった。
息を吹き込まれたアート用のバルーンがウサギの耳に括り付けられたが、重さでへにゃりとウサギがななめに傾いた。
──まさか!
「あの! この風船のガスってヘリウムガスですよね!?」
ハンナは店員の女性に詰め寄った。
もし、もしこの仮定が本当ならば。
「ええ、浮く風船にはヘリウムガスよ。アート用のバルーンはガスが抜けやすいから、ガスじゃなくてただの空気を」
「ありがとうございます! ごめんなさい、やっぱり風船いりません!」
「は? おいハンナ」
「急いで二人のところへ!! まずいわ!」
ハンナは踵を返し、人にぶつかるのも厭わず走り出した。
「なんだよ、説明しろって!」
「リツの風船は爆発するのよ!」
「ハァ!??」
慌ててエドワードは目印になるリツの風船を探した。
「風船が浮かぶのは空気より軽いガスが入っているから。ポセイドンラインの飛行船にもヘリウムガスが使われているわ」
「それで!?」
「NC1857年、大型飛行船のガス爆発事故があったの。当時使われていたガスはいちばん軽い水素ガス。
けれど燃えやすくて事故が多発したの。それから法改正があって、今は燃えないヘリウムガスしか」
「つまりィ!?」
「さっきの風船、ただの空気でふくらませたリボンじゃ重くて本体のウサギは浮かばなかった!
でもリツの風船は影響を受けなかったのよ!
つまり、あの風船の中身はヘリウムよりさらに軽い、燃える水素ガス!! いちばん小さな元素である水素をただの風船で完全に密封することは不可能!!
火を使う食べ物の屋台をまわってるリツは」
「そりゃやべェな!!!!」
「それに狙われてるリツに目立つ印付きの風船持たせるのはまずいわ!
あのピエロ!!あやしいの!!」
「クソッ!!」
エドワードはリツの兄へ連絡を取ろうと携帯電話を開いた。
「通してください!すみません!」
ハンナも叫びながらイワンとリツの元へ行こうと人混みをかき分けて進む。
どうして不安を感じた時にすぐ気づかなかったのだろう。
顔や表情の認識が難しい特殊な化粧や着ぐるみなどを身につけた者への注意はアカデミーでも習ったのに。
ハンナの中でぐるぐると泣きたい気持ちと苦しさと後悔が渦巻いている。
「リツ!! 今すぐ風船から手を離して!!」
やっと見えたリツとイワンの目の前には、火の着いたトーチをくるくると回すジャグリングのパフォーマーがいた。
「リツ!! 手を離してぇ!!」
二人はハンナに背を向けてジャグリングに釘付けだった。
「リツ───!! きゃあっ!!」
人混みを無理に進んできたハンナが大きなうさぎの着ぐるみに横から押されて転んでしまった。
「リツ、リツッ」
立ち上がろうとしても目の前には大勢の人の足。手を踏まれ、蹴られ、邪魔だと舌打ちが上から降ってきた。
「う、リツ、風船、」
涙を堪えて、よろめきながらも立ち上がろうとした時。
「────ッ!!」
大きな爆発音と悲鳴が響き渡った。
※NC1857年はバーナビーが産まれる100年前です。 実際の飛行船の実用化が始まるのが今より100年ほど前なのでその数字を参考にしました。
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