メビウスの指輪・4 1





この世界における全ての生物は、細胞という極々小さな物質が複雑に絡まりあって組成されている。
細胞は代謝機能を備え、常に分裂を繰り返し、遺伝子を発現させる。
人の目には見えない単位で途切れる事無く起こっているめまぐるしい活動。
それは、誰が教えた訳でもなく、過去から未来へと脈々と受け継がれてゆく、言わば神の領域。
その神秘と呼ぶべき地に土足で踏み込んだ組織が、IGOだった。
IGOの研究は、主に遺伝子工学に基づいて行われていた。
遺伝子を人工的に操作し、通常では起こり得ない人為的な成長を生物に与える。
それは絶滅種の保護や食の研究という大義名分から始まり、新種の生物を秘密裏に作り出す禁忌にまで至っていた。
生命は神から与えられ、神に返すものという常識は、ここでは通用しない。
事実、数々の『地球上に存在しなかった生物』が研究所地下で産声を上げ、人知れず命を終えていた。
己の中の倫理に蓋をし、禁忌をものともせずその研究を志願した少数の科学者達。
その更に少人数で構成された研究チームが、IGOの敷地内、他の施設とは離れた場所で研究を開始したのは、数年前の事だった。


「よく眠れた?」
うっすらと眼を開けた蒼衣は、目の前の、自分に向けられた笑顔をぼんやりと眺めた。
なんて優しい笑顔なんだろう。
どうして、私に笑顔をくれるんだろう。
私はこの人に、どんな素敵な事をしたんだろう。
そんな事を暫く考えていると、蒼衣の頭の中でパチンとシャボン玉がはじける様な音がした。
「いけない、朝ご飯が」
蒼衣は、慌てて起きようとした身体を抱きすくめられた。
「もうちょっとこのまま」
背中越し、耳元で囁かれた声に、心臓が跳ねた。
「……ココ、さん?」
「んー?なに?」
その名を呼んで返された返事に、蒼衣は何故かホッとした。
「……何でも無いです」
蒼衣はもそもそと身体を反転させ、ココの胸に顔を埋めた。
「蒼衣?」
「もうちょっとこのまま」
「何て甘えん坊だ」
ココは眼を細めて蒼衣を見た。蒼衣も顔を上げ、ココを見てくすくすと笑う。
もう私ったら。さっきはどうして。
ココさんを、『この人』なんて。
『ココさん』で合ってた、なんて。
寝起きとは言え、私が私でなくなったみたいで。
自分の事まで『誰?』と思うなんて。
そんなおかしな自分に、蒼衣はいつまでも笑いが止まらなかった。


「今日の調子はどう?」
朝食後のコーヒーに口をつけた蒼衣は、ココに尋ねられて自身の左手首を見た。
蒼衣の左手首には、半透明の強化プラスチックでできたバングルが、通常の物より密着した状態で付けられている。
それはIGOが開発した、バイタル・チェッカーだった。
バイタル・チェッカーは蒼衣の体から発せられる電気信号他、様々な数値を瞬時に読み取り分析し、その生体情報を表示した。
それは決して外す事はできなかったが、大抵の衝撃や温度に耐えられる構造で、蒼衣の現在の健康状態からおよそ一月後の予測まで行えた。
蒼衣の身体に不調の兆しが現れた時は、その不調を通知すると共に自動でIGOにデータが送られ、それを元に医療班が次の処置の準備をしていた。
ココと蒼衣は、チェッカーを参考に日々の予定を立てる。
「元気です。…一月後も」
「良かった」
ココは、これ以上無い極上の笑顔で蒼衣を見た。
「そう言えば、」
ココは小さな宝石箱を取り出した。蓋を開けると、透明の音色が流れ出した。
「オルゴール?」
ココは小さく頷くと、蒼衣の左手にそっと自身の手を添えた。
「これを返すのを忘れていた」
オルゴールの中に入っている物をそっと指でつまみ、蒼衣に見せる。
「それは……?」
「つけるよ」
蒼衣の言葉には答えないまま、ココは彼女の手を掬い、その薬指にそっと触れた。
蒼衣はそれを無言のまま眺めた。
薬指に、銀色のリングが光る。
「蒼衣が嫌でなければ、今日は少し遠出をしようと思うんだけど」
どうかな、と尋ねるココに、蒼衣は頬を赤くして頷いた。








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