小説 | ナノ

 公子と承太郎はとあるバーの扉を開いていた。地下に作られた窓のない薄暗い室内に、初老の男性がカウンター越しに立って出迎える。
「いらっしゃいませ。お好きな席へ」
 二人はロフトの下部分に作られたシートへついた。カーテンが目隠しして店内から二人の様子を伺えないようになっている。
「メニューをお持ちしましょうか?」
 先ほどのバーテンダーがカーテン越しに声をかける。
「必要かい?」
「いえ。ジントニックを」
「メーカーズマークのロックをダブルで。何かつまむか?」
「いいえ」
 しばらくすると注文したお酒と小皿に入ったナッツが届けられた。またカーテンを閉められると周囲には二人しか存在しないような錯覚に陥る。初老のバーテンダーや他の客の気配を、この布一枚が遮断してしまう。
「改めて、ご苦労だった」
 ロックグラスとコリンズグラスが遠慮がちにぶつかり、カンっと高い音が鳴った。口をつけると新鮮なライムの香りが一気に弾け、炭酸が喉を通る感覚が気持ちいい。
「それで博士。お話というのは……?」
「あぁ。論文提出も終えたし、観察経過も他の皆に任せてもいい頃合になってきたからな……そろそろ私も次の研究へ着手したいんだ。その助手として君を連れて行きたい」
「連れて行く、ですか?どこか遠方へ行くんですか?」
 ロックグラスの中に浮かぶ球体の氷を指でくるりと回した。氷の音と、店内に流れるジャズが二人の間を漂っていた。

 公子が空条承太郎のラボに配属されたのは四ヶ月前だ。親しい人を作らない主義の承太郎は常に人員の入れ替えをしていた。とはいっても優秀な人材がそうポンポン出てくるわけではない。繁忙期にだけ人をいれ、暇な時期や自分がいなくても大丈夫そうな状況であれば人を遠ざけたり自分がどこかへと行ってしまう。
 論文提出の締め切り前ともなるとパソコン前に釘付けになっていて他の職員と会うこともほとんどないくらいだったが、公子を助手に迎えてからというものの締め切り前の徹夜地獄はなくなった。
 とにかくタイピングが早く、承太郎の喋るスピードほぼそのままに、しかも文章体もきちんと修正された状態で入力する。海洋学についてはまったくの素人だったが、入力作業や雑務をこなすことで承太郎のみならず他の研究員からも重宝されていた。
「だからこそ君を選んだ。具体的な期間は分からないが、少なくとも一ヶ月はスケジュールを押さえたい」
「私の仕事は空条博士のお側でしか務まりませんからどこへなりともお供いたしますよ」
「そうか。またしばらく苦労をかける」
「いいえ。仕事ですから」

 仕事ですから。

「それじゃあ早速で悪いんだが、次の月曜日に出発するとしよう。必要なものや場所は追ってメールする」
「わかりました」
 承太郎はダブルのバーボンを一気にあおった。喉仏が上下に何度か動く。
「お強いんですね」
「君は酒は飲むほうか?」
「あまり。嫌いというわけではありませんが、飲みにいく機会が少なくて」
「仕事が暇な日にまた来よう。ここは種類も豊富だし、女性が好みそうなカクテルもある」
 その一杯以降、二人が追加注文することはなかった。一時間程ゆっくりとした時間を過ごし、店を出てタクシーを捕まえる。運転手に行き先を告げ紙幣を先に支払う。
「私は別方向だから構わない。釣りは彼女に渡してくれ」
 黄色い車体が夜の街へ溶けていく。それが完全に見えなくなるまで見送ったところで承太郎は街灯に背を預けるようにもたれた。大きく息を吐き、帽子をかぶりなおす。
 酒は弱くはないがそこまで強くもない。バーボンを一気に飲み干すような飲み方も普段はしない。だがあのとき、自分がもう戻ることは出来ないと自覚し、何かと決別するために酒をあおったのだ。
(仕事だから……か)
 仕事ならばどこまでも着いてきてくれるのならば、あれもこれも仕事にしてしまえばいい。月曜の集合場所はヒューストン港。行き先は海底である。
 これから少なくとも一ヶ月、潜水艦に男女二人で乗り込み寝食を共にする。そういう……仕事だ。


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