小説 | ナノ

 三十代ともなれば性別関係なく恐怖のイベントとなる健康診断。二十代の後輩女子が能天気にスイーツなんぞ口に出来るのも、若さが多少の無茶をカバーしてくれるからだ。健康診断前日というこの日に血糖値を気にせず好き放題食べ物を口にする彼女を見れば思わずため息が漏れる。
「主人先輩気にしすぎですよぉ〜」
「私も二十代の頃同じ事を言ったわ」
「あ、でもぉ。今度来る産業医の先生が何か超カッコイイって聞いたんでぇ、アタシもちょっとダイエットしようかなぁ」
「え。明日測るのに?」
「一日あれば多少落とせますよ」
(わっ……若ぇ)
 産業医というのは企業に在中している医者のことだ。外資系のジョースターグループともなれば福利厚生の一環として職場に休憩室だけでなく保健室のような場所があるのだ。
「確か、花京院先生っていう若い男性みたいですよ?」
 そんな噂は頭の片隅に追いやられて全く思い出さなかった。本人を目の前にするまでは。
「では続いて主人公子さん、ですね。ではまずはこちらに座って……」
 男らしい力強い声で物腰の柔らかな喋り方。外見は細身ではあるがしっかりと筋肉のついた健康な体に、柔和な笑みをたたえる顔。公子は恥ずかしかった。こんな俳優のような完成された男に自分のだらしない体の情報が隅々まで知られてしまうことに。
(知ってさえいれば……こんな、出会いがあるなんて、知ってさえいれば……)
 彼氏と別れたのはもう三年も前。仕事に明け暮れ一生独り身で生きるしかないと腹をくくった矢先の出来事だった。
「決めた。私は一年後の健康診断でリベンジを果たす。これは別に花京院先生に振り向いてほしいとかそういう甘いもんじゃない。この数年誰にももう見せないからとたるませてきた己の肉体への戒めよ」
「先輩、何かかっけーっす!ウチ、定年までついていくっす!」
「よく言った吉田。それじゃあ早速駅前のジムに入会するわよ」
「あ、ウチそういう肉体労働勘弁なんで!」
「……」
 こうしてOL、主人公子のダイエット作戦が始まった。いや、ただのダイエットではない。出来ることならばあの鍛え上げられた花京院医師と素手でタイマン張れるくらいの肉体改造をしたい。
(まあそれは無理としても、あくまで理想像は持っておかなきゃね)

 駅前のジムといえばグレープヒルズジム、通称グレヒルである。
「今すぐ入会したいんですが」
「は、はぁ……ちこーっと待って下さいね。さすがに今の今ってのは……いや、大歓迎なんスけど」
 入会から担当までを受け付けてくれたのは公子よりも年下の青年、東方仗助だ。かなりの長身とジムのトレーナーに見合う分厚い体は頼りがいがある。
「もう着替えとか全部用意してますんで!」
「は、はぁ……すごい気迫っすねぇ……えーと目的は……肉体改造!いいっすね!」
 人懐っこく笑う彼の笑顔にもまたクラッときそうではあった。しかしそういうわけにはいかない。それは別に花京院に対してなんとなく後ろめたいとかそういうことではない。好きになってしまえば体重や筋力測定でまたしてもカッコイイ男性に自分の油断が詰まった身体情報を見せることになるからだ。
「んじゃ書類記入終わりましたらロッカーの方で着替えてもらって……あ、こっちが女子ロッカーっす。奥にお風呂もあるので会員の方なら自由に使ってもらって構わないっすよ。着替え終わったらロビーまで来て下さい」
 久しぶりに掃くスニーカーの靴紐をしめると、何だか気が引き締まる。長い髪の毛を束ねて化粧も何もしていない顔をパチンと叩くと臨戦態勢に入るようだ。
「じゃあまずは筋力測定から行きましょう」
 本格的な体重計がたたき出す数字がどれもこれも平均以下のものだということは普段運動をしない公子でも容易にわかる。この平均以下の数値というのは筋力のことであって決して体重ではない。
「んー、あまり筋肉に負荷をかけすぎないほうがよさそうっすねぇ……それじゃあ水泳とジムトレーニングを併用していきましょうか」
「す、水泳!?」
「ひょっとして泳げないとかっすか?大丈夫ですよ、専属とはいきませんがちゃんとそっちにもトレーナーがいますんで」
「い、いや……」
 本当は水着で人前に出たくないだけなのだが、プロの仗助がそういうのならば水泳も織り交ぜた方がいいのだろう。
「じゃあマシントレーニングは俺が担当します。また次回来た時にスイミングの方の担当も紹介しますね。じゃあ今日はストレッチから始めましょう!」

 さて、運動を始めると次は食事が気になるところ。しかしダイエット料理本なんかを買ってみて思ったのが……。
「かいわれ大根少々……これ絶対余るよね。で、余ったやついつ使えばいいの?めったに使わないし」
 量は少なくとも種類はたくさんの野菜を必要とするため、正直実践的ではない。これは複数人で食卓を囲む家族向けのレシピ本である。一人暮らしも長い公子は結局食材を腐らせるばかりで食事管理がうまくいかなかった。
 だからといってヘルシーを文句にするレストランばかりではさすがに財布が悲鳴を上げる。そこで偶然見かけたのが、料理教室である。
 メニュー内容はカロリーや栄養素に気を使ったダイエッター向けのもので、大人数で作るから食材を余すことなく使える。
 それにここは教室というよりダイエッターのための集まりなので、わざわざ知っているような包丁の使い方やだしの取り方なんかを再度復習する必要もない。教わる分には不親切だが料金は安くなっている。
(ここしかない!)
 ジムの会員権は平日のみの利用にしているので、土日祝日はこの教室に通うことにした。料理教室、パッショーネ。
「講師を務めます。ジョルノ・ジョバァーナです。僕は半分日本人ですが親の都合でイタリアで育ちました。僕の愛するイタリアンを、ダイエット中でも気軽に食べてほしいという想いでこの教室を立ち上げています……というのは建前で、本当は僕もダイエットのために食事に気を付けようと思っているだけです」
 気さくに笑いかけてくれる講師の先生は年下であったが、そうと思わせないほどに落ち着きのある雰囲気だった。
「公子さんは包丁に随分慣れていらっしゃいますね」
「自炊歴が長いだけです」
「いや、都会に住んでいて自炊を長く続けているって立派なことですよ。僕なんてこう、仕事にしないとやらないタイプですから」
「先生はご自宅では料理しないんですか?」
「あまり。食べてもらう人がいないとどうも腕を振るう気になれなくて」
「あー、分かります」
「……ということは公子さんは、今誰かのために食事を作っているんですか?」
「いえ。まあそんな頃もありましたけど……これは完全に私のスパゲッティです!」
「ハハ、とったりしませんよ」
 この教室も周囲の生徒含めいい人たちばかりだ。前回のジムでスイミングのスタッフも紹介すると言っていたが、彼らもまた気さく……いや、気さくすぎるほどの人物だった。


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