アリスドラッグ | ナノ


▼ 後悔

 収容室から少し離れた研究室。冷たい空気が漂うここは、ドクターが普段入り浸っている場所だ。扉を入るとまずは実験器具の並ぶ部屋。よくわからないものがたくさん置いてあり、何やら異常に散らかっている。ヴィクトールは頻繁にここに通うわけでもなく、いつもこの部屋がここまで散らかっているのかはわからない。ドクターの性分を考えればおかしなことでもないので気にせず彼を探す。



「……俺あの人苦手なんだけど……ヴィクトールを相手にしてもあんな感じなのか?」

「あんな感じ? まあ変わった人ではあるね。何を考えているのかわからない。変なものに興奮する」

「……でもいつも一緒にいるな」

「ここでは彼が一番近い存在だったからね。団員はどちらかと言うと僕を頭として見てくれているから、対等な関係とは言い切れなかったし……でもドクターは特殊なポジションについていたから結構僕と同じ目線で話してくれた。敬語は使うけどね。僕としても気が楽だったから一緒にいることが多かったかなあ」

「……ふうん。仲いいんだ」

「仲いいっていうとなんか気持ち悪いけど……まあ、大切な仲間だね」



 書類が山積みになった机、実験用の機械のようなもの……色んなところを隅々まで探してみるが、ドクターは見つからない。もしかしたら奥にある、実験部屋か。改造人間を収容する檻もあるそこは、ドクターがいる可能性が非常に高い。二人は部屋の奥にある重い扉を、ゆっくりと開ける。



「……えっ」



 目の前に広がる光景に、二人は唖然とした。あまりこの部屋を見慣れないヘンゼルでも、その異常さには気付いた。改造人間をいれる檻の扉は全て開かれ、そこには一切の生物がいない。床にはおびただしい量の血がこびりついている。そして。二人が入ってきた出入口へ、まるで助けを求めるように手を伸ばし倒れているのは――ドクター「だった」人。



「……ドクター……?」



 ソレがドクターであるというのは、髪型とメガネだけで判断できた。判断材料がそれしかないというほどに……彼の姿は変わり果てていた。背骨に沿うように歪な形の大きな刺が生え、数本の人間のものではない腕が脇腹に取り付けられ、腰からは鳥の脚が生えている。さらにはドクター本人の腕と脚の表面には大量の目玉が取り付けられていて、目と口からは蛇が飛び出している。



「――やっぱり見よう見まねじゃあできなかった。どうやってコイツは改造人間の命を一ヶ月ももたせたんだろう。僕がやってみたらあっという間に……死んじゃった」



 奥から、ぺたりぺたりと足音が聞こえてくる。恐る恐るヴィクトールとヘンゼルが顔をあげると、そこにはドールと思われる少年が一匹の改造人間を連れて立っていた。



「いつもあんたたちがやってきたことさ。罪もない人間を捕らえて、こんな風に歪な生物につくりかえる。あんたたちに僕を非難する資格はないよ」

「……ッ」

「改造される間際のこいつの無様さといったら。助けて許してくれって……きっと何人もの犠牲者がこいつに言ってきただろうことを言った。今までどんなにこの行為が悍ましいことを知らなかったのかな、こいつは。好奇心に人の心も潰された、マッドサイエンティストが」



 淡々と言葉を紡ぐ少年の瞳は、たしかな憎悪に燃えていた。そうだ、ドールたちの目的は、復讐。自分たちを虐げたトロイメライへの報復だ。どんなに残酷な制裁を受けようとも、トロイメライには何も言う資格がないのだ。それを思い知っているヴィクトールは、ドクターを殺害した少年を糾弾することもできなかった。見るも無残な姿になってしまったドクターを瞳に映し、涙を流すことしかできなかった。



「……おまえ……それが人のやることか!」



 何も言わないヴィクトールの腕から抜けだして、ヘンゼルは叫ぶ。冷たく自分を見つめる少年を、ヘンゼルは泣きながら睨みつけた。ドクターは、たしかに苦手な男だった。しかし、何度か会話を交わし、ときにはしょうもない話をし、たしかに今まで共に過ごしてきた人なのだ。彼の非道な行いも知っていたが、それでも彼には情がうつっていた。嘆くように手を伸ばし息絶えているドクターをみて、胸が張り裂けそうになってしまった。




「何? 間違っていることなんてしていない。僕たちはこの腐った組織に、今まで苦しんできた人たちの代行として復讐しているだけだ」

「復讐なんてして何になる! 復讐が何を生むっていうんだよ! 苦しみを知っている人間だったら……どうして同じことができるんだ!」

「ヘンゼルくん……すっかり君はトロイメライに毒されているね。じゃあ聞くけど、君は自分を犯した僕に恨みを抱いていないの?」

「……ッ」



 そう、目の前の少年は「C」の少年、あの部屋にいた少年だ。嗤いながら自分を強姦した人。



「そうだ、殴らせてあげてもいいよ。ほら、どうぞ。遠慮なく。罪がない君は、僕を殴る資格がある」



 少年はハッ、と吐き出すように笑う。ヘンゼルは唇を噛み締め、少年を睨みつけた。体はだいぶ回復した、殴ろうと思えば殴ることができる。本音を言えば、彼のことは恨めしくて仕方がない。穢い目で自分を見つめ、欲望をすりつけてきたときの気持ち悪さは思い出すだけで吐き気がする。……しかし、ヘンゼルは動かない。



「……殴らない」

「はぁ〜? 善人ぶってる? それこそ、何になるのさ。誰もみていないよ? 言っておくけど神様なんて存在しない、どんな善行に及ぼうが、君は幸せになんてなれやしない。神様なんていたなら、そもそも君はこんな地獄にはいないからね」

「……偽善者とでもなんでも言えばいい。あれは俺がヴィクトールの代わりに罰を受けただけだ。だから、俺におまえを殴ることはできない」

「……まるで君は聖人のような人だね。そんなクズのためにここまで体をはれるなんて、見上げた精神だ。僕は君のことは嫌いってわけじゃないから一応助言してあげるけど……そんなことしていると、人生損するよ?」

「別に……損得で俺は動いているわけじゃない。俺は……ヴィクトールのためだったら、自分がどんなにつらい目にあってもいい」

「……うっざ。君本当にバカだね。恋は盲目とはよく言ったもんだ、そんな男にそこまで君がいれこむ価値はないよ。まあ……僕は君がどうしようとどうでもいいし……。だからさ、……いっそその男と一緒に死んでみる?」



 ずる、と少年の傍の改造人間が蠢く。巨体を引きずるように身じろぐそれは、裂けた口に鋭い牙をもつ、三つ首のバケモノだった。



「改造された人間ってショックで頭が退化するから命令とかあんまりきかないんだってね。でも生物としての根本的な本能を失ったわけではないでしょ」

「……」

「……コレ、ヴィクトールへの恨みは忘れていないよ」



 三つ首の瞳が六つ、ヴィクトールをとらえる。そのバケモノは、本来はヘンゼルや少年と同じように、どこかから捕らえられてきた人間だ。運悪く改造人間として見世物となってしまった「彼」はきっと、トロイメライの団長であるヴィクトールに憎悪を抱いているに違いない。ヴィクトールを見つめる瞳は、人間らしさを失いながらも確かな殺意にあふれていた。

 本能的な恐怖に固まる二人にバケモノは狙いを定め、大きな体を引きずりながらにじり寄ってくる。そのバケモノは決して動きが遅いわけではないだろう、二人が走りだせば急に動いた獲物に頭が刺激され、一気に襲い掛かってくる。そう判断した二人は走りださず、ゆっくりと後退し、部屋からの脱出を試みる。



「そこの扉は鋼鉄製だ、閉めて鍵をかければそう簡単には出られない」



 部屋の出入口となる扉を示し、ヴィクトールが囁く。要はそこまでこの調子でたどり着いて脱出し、扉を閉めればいい。死は免れる、そう二人が思ったとき。



「……ッ!」



 少年が、ポケットから鍵のようなものを取り出す。恐らくこの部屋にある檻の鍵と思われるが、彼の狙いは――



「ま、待て……」



――鍵を床に落とす音でバケモノを刺激し、二人を襲わせること。



「逃すわけないでしょう……ふたりとも、ここで死ね!」



 少年が手を振り上げ、鍵を床に叩きつけようとした、そのとき――



「……兄さん」

「――ッ!?」



 背後から、聞き慣れた声が。驚いた二人が振り向いたその先にいたのは――椛だった。開け放たれた扉から、こちらをまっすぐにみつめている。



「……椛」

(ヘンゼルくんの弟……!)



 「C」によって全てのドールが脱走したということを知ったヴィクトールは、椛もてっきり逃げ出したのかと思っていた。よくよく考えてみれば、あそこまで兄を溺愛するこの少年が……一人で逃げ出すはずがない。椛はヘンゼルを探し、一人、お菓子の家を歩き回っていたのである。

 椛の姿をみたヴィクトールは、ひとつの考えを頭に思い描く。



「……ヘンゼルくん」

「え……?」

「弟を連れて逃げるんだ」

「……ヴィクトールは?」

「……僕はここで囮になるよ」

「……は?」



――自分自身が囮になり、ヘンゼルをここから逃す。それがヴィクトールの頭に浮かんだ考え。

 バケモノは、ヴィクトールへの恨みのみで動いている。ヘンゼルや椛に狙いを定めることは、恐らくはないだろう。ヴィクトールがここでバケモノを引き止めれば、ヘンゼルと椛の命は助かる。

 ヴィクトールは椛がここに現れてくれて、心底良かったと思った。きっと彼が現れなければ、ヘンゼルはヴィクトールが囮になると言っても一緒に死ぬなどと言い出しかねない。しかし、椛がいれば。弟を連れておきながら、兄であるヘンゼルはそれを言うことはできない。そのはずだ。



「いいかい、あのバケモノに襲われようと僕が即死するということはない。少なくとも一分は時間を稼げる。その間に君たちは、ここから出てあの扉を閉め、建物から脱出するんだ」



「……なに、言って……」

「……!?」



 ヴィクトールの言葉に驚いたのは、ヘンゼルだけではなかった。扉の側に立って聞いていた椛も同じである。ただの外道だとばかり思っていた男が、自分を犠牲にしてヘンゼルを救おうとしているのだ。自分勝手に兄を愛して、兄の未来を奪った彼が――ここまで純粋に兄を愛しているとは思っていなかった。



「ヴィクトール……大丈夫だ、一緒に逃げよう、逃げ切れる、きっと……!」

「無理だ。上の階にいけば足場が悪くなって思うように逃げることはできない。ここで僕がヤツをひきつけるから、二人はその間に脱出しろ」

「待てよ……嫌だ、だったら俺も……俺も、ここで死ぬ」

「ヘンゼルくん……! 君には弟がいるんだ! 逃げろ、二人でここを出るんだろう!」

「……っ、……椛……椛、ごめん……俺をおいて、逃げて」



「――ッ」



 ヘンゼルのことは好きだ。一緒に逃げたい、ここを一緒に出たい。しかし、このヴィクトールの姿をみて、その椛の想いが揺らぐ。本当にヘンゼルはそれを望んでいるのか、ヴィクトールを見捨てて逃げたところで幸せになれるのか、……そして、残されたヴィクトールは孤独に死んでいくのか。

 椛の脚が震え、そして一歩、後退する。ここでヘンゼルと逃げても……彼は辛い想いをするだけ。一緒に死んだほうが、いっそ……幸せなんじゃないか。



「兄さんは……兄さんは、とんだバカだ」

「うるさい、はやくいけ、椛!」

「ああ、いくよ、兄さんが……兄さんが、そいつと死ぬことを望むんだったら……無理に、引き離せない」



 溢れそうになる涙を寸でのところで堪えて、扉の取っ手に手をかける。泣いてたまるか、絶対に泣かない。ヘンゼルの心を完全にとらえたのは、ヴィクトール。敗北したのだと、宣言なんて、しない。



「……兄さん……! 幸せになれ、この……バカ!」

「……ごめんな、椛……ありがとう」



 ガコン、と大きな音をたてて、扉が閉められる。死ぬ直前にあんなに幸せそうに笑うなよ、そんなにアイツと一緒に死ねることが嬉しいか――扉を隔てて聞こえてきた大きな物音に、椛はボロボロと涙を流す。




――ジ



「……うっ!?」



――ジジ



 突然、割れるような痛みが頭の中を蝕んだ。そして、何やらぶつぶつと念仏のように誰かが独り事を言っている声が聞こえてくる。驚いて椛が振り返ると――そこにいたのは、自分。手にはカッターを持っていて、うつむき、何度も何度も自らの手首を切りつけている。念仏のようなものは、耳をすませて聞くと「愛してよ」と繰り返し言っているもののようだ。

 何が起こっているのかわからずに、椛がじっと彼をみていると、彼は突然勢い良く顔をあげて、言う。


「ココデ彼ガ死ンダラ君ヲ守レナイデショ。彼ノ役目ハマダ終ワッテイナイ」

――ジジジジジ






「ヴィクトール……大丈夫だ、一緒に逃げよう、逃げ切れる、きっと……!」

「無理だ。上の階にいけば足場が悪くなって思うように逃げることはできない。ここで僕がヤツをひきつけるから、二人はその間に脱出しろ」

「待てよ……嫌だ、だったら俺も……俺も、ここで死ぬ」

「ヘンゼルくん……! 君には弟がいるんだ! 逃げろ、二人でここを出るんだろう!」

「……っ、……椛……椛、ごめん……俺をおいて、逃げて」


「……え」


 このシーンに、既視感。そうだ、ついさっきヘンゼルとヴィクトールが交わした会話……時間が、巻き戻ったのだ。椛は驚きに固まってしまう。何がどうなっているのかわからない、白昼夢でもみたというのか。


「……兄さん」


 しかし、わからないながらも予感はした。先ほどと同じようにヘンゼルをヴィクトールのもとに置いて自分だけ逃げようとすれば、きっとまた――このシーンを繰り返す。違う選択肢をとらねばならない、ヘンゼルを――


「兄さんは、僕と逃げるんだ」

「……ちょ、……待て、椛……!」


――ヘンゼルを無理やりでもヴィクトールから引き離し、一緒に逃げるのだ。


 椛は部屋にはいるとヘンゼルの腕を掴み、勢い良く引っ張った。それと同時に「C」の少年が慌てたように鍵を床に叩きつける。バケモノは目が覚めたようにうなり声をあげ、三人のもとへ突進してきた。死に物狂いで、走る。椛はヴィクトールへ手を伸ばすヘンゼルの抵抗も無視して、全ての力を振り絞って、ヘンゼルを引きずるようにして走った。


「放せ……放せ、椛!」

「だめだ……兄さんはここで死んじゃだめなんだよ!」

「しらねえよ、ふざけんな、アイツがいない世界でなんて、俺は生きたくない!」

「一緒に生きて欲しいって思っている僕の想いを無視するな! 兄さんの体は兄さんだけのものじゃないんだよ!」

「……ッ、でもッ……、いやだ……ヴィクトール……、ヴィクトール!」


 扉まで、辿り着く。振り返ればヴィクトールが立ち上がり二人の盾になるようにしてバケモノに襲われていた。カッ、と涙がこみあげてきて――それでも椛は扉に手をかける。そのとき、ヴィクトールが静かに口を開いて、呼びかけるように言った。


「グレーテルくんだっけ。僕が許してあげるんだから、何が何でも幸せになってよ、ヘンゼルくんと」

「……ッ」

「それから」


 襲われ、噛み付かれたところから大量の血を流しながら……ヴィクトールは振り向いた。そして、椛の後ろで泣き崩れているヘンゼルをみつめ、笑った。


「ヘンゼルくん。君はお兄さんなんだから、弟を守る義務があるんだよ。いつまでも泣いてちゃだめだ」

「……ヴィクトール」

「ねえ、ヘンゼルくん。……君と出逢えて、ほんの短い間だけだったけど、夢のように幸せだったよ。出逢いはたぶん最悪のかたちだったと思うけど……僕はね、本当に君を愛していた。……ヘンゼルくん、大好きだよ」

「ヴィクトール……俺……俺も、」

「……ッ、グレーテルくん、扉をしめろ!」


 ぐらりとヴィクトールと体が倒れる。その勢いにのって、バケモノがこちらまで走ってくる。

 椛は唇を噛み締め、一気に扉を閉めた。重い音をたてて扉が閉められると、同時に中からヴィクトールの体が扉に叩きつけられた、そんな鈍い音がした。鋼鉄製の扉は、そう簡単に勢いだけで開いたりはしない。何度も何度も聞こえてくる惨(むご)たらしい音に、二人は耳を塞ぎたくなった。


「……ッ」


 ヘンゼルが扉に縋りつくようにして座り込んだ。扉の下から血がのびてきてヘンゼルの服に染みてゆく。肩を震わせて、声にならないような泣き声をあげ……あまりにも悲痛なその後ろ姿は、椛にほんとうにこれで良かったのかと、そんなことを思わせた。


「……兄さん、」

「……言えなかった」

「え?」

「……たったの一度も、ヴィクトールに……好きって言えなかった……!」


 ……やはり、彼を生かしたのは間違いだったのではないか。無理やりヴィクトールから引き離し、この扉を隔てて声も届かない安全地帯へ引っ張りこんだのは……ヘンゼルにとって幸せから程遠い選択肢だった。しかし時間が巻き戻らないということは、これが正しい選択肢だということ。

「正しい」ってなに。この世界の「正解」って、なに。


「……椛」

「……あの、兄さん……ご、ごめん」

「……ごめんな、こんな兄で」

「えっ……」


 ヘンゼルが振り返り、呆然と立ち尽くす椛を見つめる。涙に濡れた瞳が、酷く美しかった。


「……おまえがいるのに、俺はヴィクトールのことをどうしようもなく愛していた。だめだってわかっているのに、俺は俺の幸せをどうしても捨てられなかった」

「……いや……僕が、兄さんの幸せを、邪魔して……」

「今更なんだよって思うかもしれないけどさ……俺に、おまえのこと守らせて。……椛」

「……っ!」

「ヴィクトールが俺たち兄弟を守ってくれたなら……俺は兄として、おまえを守る。俺は自分自身のことがよくわからない。でも、俺はおまえを守るために生かされた……なんとなく、それはわかるよ」


 立ち上がったヘンゼルが椛を横切り、部屋に散らばる実験器具をあさりだす。メスや注射器などをみては少し悩んで、やがて銃をみつけるとそれを手にとった。そうして気丈に振る舞って小さくしゃくりをあげながら時折涙を拭っている姿は痛々しい。

「弟を守りたい」という想いと「ヴィクトールと最期まで寄り添いたかった」という想いが彼のなかでせめぎ合っているのだろう。


「ここからでたら……どうしような。椛、おまえは元の町にもどる? もう体を売る必要もないと思うよ」

「……兄さんは?」

「んー……俺はもうあの町に戻れないし……旅にでもでようかな」

「……」

 
 二丁目の銃を手に持って静かにそう言ったヘンゼルが綺麗だと、椛は思った。なんとなく、ヘンゼルの言葉の意図を感じ取る。……死に場所を探しにいきたいのだな、と。ヘンゼルのなかではヴィクトールが永遠の存在なのだ。悔しい、そう思いながらも何故か嫉妬は覚えない。


「いこうか、はやくしないと建物が崩れる」

「……兄さん」

「……!」


 椛は静かにヘンゼルの手をひいて、唇を重ねた。乾いた唇に喪失感を覚える。欲しいと思ったときにはすでに違う人のものになっていて、体だけではなく心も完全にその人のものになっていた。このキスは、謝罪と決別のキス。唇が離れたら、ほんとうの兄弟に、戻ろうか。

 特に驚いた様子もなく椛を見下ろすヘンゼルは、唇が離れるとそっと笑う。


「……ごめんな、椛。あと少しの間だけ……兄としてかっこつけさせて」


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