アリスドラッグ | ナノ


▼ 彼には嘆く資格もなく



 地下二階はまだ煙も届いていないらしく、整然としていた。ヘンゼルには地下二階全体の清掃を頼んでいたため、彼が現在どこにいるのかヴィクトールにははっきりとわからない。もしかしたらドールの脱走の騒ぎに混じって既に脱出した可能性だってある。それでも一応フロア全体を確認しておかなければ、不安は拭えない。

 階段を降りると、まずは道具を奥倉庫や休憩室などが並び、続いてドールの収容室、そして一番奥にドクターのいる研究室がある。念のため全ての扉を開けていくが、中には誰もいない。次々と人の有無を確認し、ヴィクトールはドールの収容室まで辿り着く。


「……」


 やはり、とは思っていたが全ての扉が鍵をはずされ開いていた。これはドールの犯行で決まりだとヴィクトールはため息をつく。「A」の部屋から順番に中を覗いていき、誰もいないことを確認すると足早に研究室にむかって歩く。ドクターもできれば火事に気づき既に逃げていてくれたら嬉しい、そんなことを思いながら最後の「C」の部屋を覗いていたとき。ヴィクトールの脚がとまる。


「……!」


 中に、人がいる。まず、ひとつのベッドに、一人「C」の少年が座っている。そして、部屋の真ん中に、何かの液体まみれになった裸の青年が倒れている。うつ伏せになっているため、顔は見えない。


「……いらっしゃい、ヴィクトール。くると思っていたよ」


 抑揚のない声に、ヴィクトールは唾を呑む。恐る恐る部屋に足を踏み入れると、異臭が鼻をつく。いつもこの「C」の部屋だけはなにかツンと嫌な臭いがしたのだが、今この部屋に充満している臭いはそれとは違う。生臭い……。


「油断していたでしょう。ドールが脱走するとは夢にも思わなかったみたいだね」

「……君たちは鎖で拘束していたはずだけど……どうやって」

「鎖に毎日尿をかけて、腐らせていた。全員の鎖が脆くなったところで、タイミングを合わせて破壊して、今日に至ったんだよ」

「……この部屋からした異臭はそれが原因か」


 ちぎられた鎖をみて、ヴィクトールは舌打ちをする。が、ドールの脱走方法は知ったところで正直どうでもいい。

 気がかりなのは、部屋の中心に倒れている青年。見るからに複数人に強姦された様子の彼の背中に、見覚えがある。しかし、「彼」だと信じたくない。「彼」であると知りたくなくて、確認ができない。


「何そんなところに突っ立っているの、ヴィクトール。はやく『彼』を抱き上げてやらなくていいの?」

「……まさか、」

「ヘンゼルくん……犯されているとき、ずっとヴィクトールの名前呼んでいたよ?」

「――!」


 くらりと視界が歪む。疑惑が確信へと変わった瞬間、頭のなかが真っ白になった。ヴィクトールは慌てて青年のもとへ駆け寄り、服が汚れるのも省みずに抱き寄せる。


「……ヘンゼル……くん……?」


 青年は、間違いなく――ヴィクトールの愛する人、ヘンゼルだった。目を泣き腫らし、ぐったりと意識を失っている。


「ヴィクトール、ねえ、ヘンゼルくんのお腹とお尻の穴、みてみてよ」

「……」


 少年の声に、思わず視線は動いてしまう。下腹部がどこか膨らんでいて、そして内ももに白濁液が伝っている。ヘンゼルがここで何をされたのか、その痕が、はっきりと示されている。


「ここにいたドール17人……全員の精液をそのお腹にぶちこんじゃった。もうお腹ぱんぱんでさァ……チンコぬくとすぐに穴から精液飛び出してくんのね。女だったら確実に孕んでいたねぇ、これ。よかったね、ヘンゼルくんが男で」


 17人……その全員にヘンゼルは犯されたのか。もはや嘘としか思えないような人数に、ヴィクトールは信じることができなかった。いや、信じたくなかった。輪姦されているヘンゼルのことを考えると、あまりの悔しさと哀しみに、吐き気すらも覚える。


「なんで……ヘンゼルくんを、こんな……」

「……なんで? なんでって言った? ブッハ、笑わせないでよ! おまえのせいだよヴィクトール!」

「……え」

「自分がやってきたこと、わかるよね? 何人の命と、何人の尊厳を奪ってきた? おまえの罪は深い。ただ死ぬだけでその罪が拭えるなんて思うなよ。俺たちが味わってきた哀しみの一部だけでも思い知れ。おまえが愛するそのヘンゼルを辱めたなら、おまえが嘆き悲しむだろうと思ってやったまでさ!」

「……ッ」

「――因果応報だ、ヴィクトール。罪もないそのヘンゼルがそんな目にあったのは、おまえという悪人に愛されたからさ。運が悪かったんだ、彼は。……おまえみたいな人の魂をもっていない悪魔に、人を愛する資格なんてなかったんだよ、この外道が!」


 ――何も、言い返せなかった。ヘンゼルを辱めた目の前の少年に殴りかかることもできない。少年の言っている言葉は、何一つ、間違っていないのだ。自分は人に恨まれて当然のことをやってきた。それの報いが、こうした形でかえってきた、それだけのことだ。


「……ヘンゼルくん」


 悪人と恋に堕ちることが怖いと言ったヘンゼルを、強引に自分のもとへ引きずり込んだのは自分。きっと、自分に出逢わなければ――そうだ、ヘンゼルは弟・グレーテルと添い遂げることができたんじゃないか。こんな目に合わなかった、苦しまなかった。幸せになれたかもしれない。

 大切な、大切なヘンゼルがこんな酷い目にあって、それが自分のせいで。ヴィクトールは絶望に打ちひしがれることしかできなかった。


「ははは、たまんない、その表情最高だよヴィクトール……! ざまあみろ! いいか、おまえは『被害者』なんかじゃない、ただの『罪人』! 『罪人』が断罪されただけだ、恨みを抱くことすらも赦されない! 何かを怨みたいっていうなら、自分を恨め、自分が生まれたことを後悔しろ!……ここから生きてでられると思うなよ、 大切な恋人を傷つけた哀しみを抱きながら、死ね!」


「……ッ」


 がくりと項垂れるヴィクトールに、少年は罵声を浴びせかける。それでもヴィクトールはただヘンゼルを抱いて黙っていることしかできなかった。腫れて赤くなったヘンゼルの瞳に、胸が張り裂けそうになるくらいの悲しみを覚えた。


「……ああ、スッキリした。もう思い残すことはないや。もう火もだいぶまわっているんじゃない? 俺も外に出られる気はしないから。お先に逝っていようかな。おまえのその顔がみれて嬉しかったよ、ヴィクトール。じゃあね」


 少年は静かに嗚咽をあげはじめたヴィクトールの前まで歩みよる。恐る恐るヴィクトールが顔をあげると、少年は手にメスを持っていた。研究室にあるものだ、どうやって手に入れたのか――それをヴィクトールが考える前に、少年はそれを自分の首元にもっていき……迷いなく、喉笛を掻っ切った。

 すさまじい量の鮮血が、ヴィクトールとヘンゼルに振りかかる。ヴィクトールはヘンゼルが穢れないように覆いかぶさって、その血を一身に浴びた。血の雨だ。おまえの罪はこんなにも穢いのだと、そう言われているようだった。肉体が倒れる、重く鈍い音。気付けば少年は息をひきとっていた。

 残されたヴィクトールは、一人涙を流し自分の罪の重さを思い知る。たしかに自分はいつの間にかトロイメライの団長という地位についていた。ヘンゼルの言葉も併せて考えると、もしかしたら自分の意思なんて関係なくて、勝手に決められた「役割」なのかもしれない。

 それでも、自分は間違いなくトロイメライの団長という役割をこなしていた。たくさんの人々の命と尊厳を奪ってきた。それに罪悪感を覚えることもなく。

 自分のせいでヘンゼルはこんなに辛い目にあった。彼の側にいる権利なんて、もうないだろう。これ以上彼に辛い想いをしてほしくない。


「ごめんね……ごめんね、ヘンゼルくん」


 せめて、彼を生きてここから出してあげなくては。ヴィクトールは、周囲に散る破かれたヘンゼルの服で彼の身体にこびりついた精液を拭きとってやり、そして、死んだ少年の服を剥いでヘンゼルに着せてやる。脱出の準備だ、はやくここを出て、彼に別れを告げるんだ。

 ヴィクトールはヘンゼルを抱きかかえて、立ち上がろうとする――そのとき。


「……ヴィク、トール……?」

「……!?」


 弱々しく、消え入りそうな声が、ヴィクトールの耳を掠める。慌ててヘンゼルへ目を向ければ、彼はぼんやりと目を開きヴィクトールを見上げていた。


「ヘンゼルくん……!」

「……ヴィクトール……なんで、ここ、いんの……」

「……建物に火がつけられた、早くここを脱出しないと」

「……火? そう、じゃあ、俺も自分で立てる、から……」



 声が震えた。ヘンゼルは、自分がなぜこんな目にあったのか知っているのだろうか。自分を抱く男のせいで輪姦されたと知っているのだろうか。

 まるでなんでもないという風にヘンゼルがヴィクトールの腕から起き上がり、自らの力で立とうとする。ぼんやりとその様子を見ていたヴィクトールは、次の瞬間ヘンゼルが倒れこむのをみて、慌てて彼を抱きとめる。



「ヘンゼルくん……無理しないで、僕が連れて行くから……!」

「……」

「ヘンゼルくん……?」

「……う、」



 ヴィクトールの腕に収まったヘンゼルは、ぽろりと一筋の涙を流すと、ヴィクトールの胸に顔をうずめて泣きだした。ヴィクトールに心配させたくなくて、気丈に振舞っていたのだろう。しかし、身体へのダメージは深刻なものだった。まともに立ち上がることすらできないほどに。ガラガラに枯れたその泣き声に、身が裂かれそうになった。



「……ヴィクトール、……ヴィクトール」

「……」

「……ありがとう、来てくれて……」

「――ッ」



 ああ、やめてくれ。これ以上自分を信用しないでくれ。こんな悪党に心を許さないでくれ……!

 誰のせいでこんなことになったと思っているんだ、ありがとうなんて……言わないでくれ。



「……ヘンゼルくん、ここを出たら、もう僕とは関わらないで」



 ヴィクトールに抱かれ安心したとそんな表情をみせたヘンゼルに、ヴィクトールは酷く罪悪感を覚えた。きっと、彼は自分のせいでこんな目にあったと知らないんだ、だからこんな表情をできるに違いない。ヴィクトールはその想いから、冷たく言い放つ。



「……え」



 当然のように、ヘンゼルはショックを受けたようで、顔をあげて目を瞠る。今までで見たことのないくらいに、絶望にその目は満ちていた。小さくあげていたしゃくりまで止まり、ヴィクトールの言葉がどれほどヘンゼルに衝撃を与えたのか――ヘンゼルは取り乱したように、ヴィクトールに掴みかかる。



「なんで……なんでそんなこと……! 俺が違う男に犯されたから!? 抵抗もできなかったから!? 違う男を相手に感じたから……!? ヴィクトール、なんで……なんで、」

「……ちがう、ヘンゼルくんは悪くない」

「ごめん、ヴィクトール、ごめんなさい……許して、本当にごめんなさい……お願いだから、俺を捨てないで……これからも、一緒にいたいから……」

「違う! 僕に君と一緒にいる資格がないからだよ!」



 泣いて、何も悪いことをしていないのに謝って、それでも一緒にいさせてと請うヘンゼル。今のヴィクトールには、怨みつらみを吐かれるよりも苦しかった。これ以上ヘンゼルの口からその言葉を聞きたくなくて、今言うべきではないと思っていた言葉を叫んでしまう。



「……資格?」

「……ヘンゼルくん……君は、ここで酷いことをされたけど……それ、僕のせいなんだよ」

「……」

「僕が罪を犯してきたから……その恨みをはらすために、彼らが僕の大切な人である君を犯したんだ。きっと僕と一緒にいたら、君はまた同じ目にあうだろう。……もっと早く気付くべきだったんだ、僕みたいな男が君を愛する資格なんてないって」


 
 なるべく辛いという気持ちを悟られないように、ヴィクトールは淡々と言葉を連ねた。ヘンゼルはそれをぽかんとした顔で聞いている。

 ああ、驚いただろう。自分の苦しみの原因が、目の前にいる男だなんて。もういいから、愛想をつかしてくれ、これ以上君をつらい目に合わせたくない――



「……ああ、そんなこと」

「え?」

「知ってるよ、それは。あいつらが自分で言っていたから。その上で俺はおまえと一緒にいたいって言っているんだけど」

「……ヘンゼルくん……あのね、」

「っていうか、それなら尚更俺はおまえの側を離れるつもりはないよ。……俺がいたから、おまえが直接傷つかないですんだんでしょ。おまえの罪を、俺が被れるなら……嬉しい」



 ヴィクトールは唖然と口を開く。涙を零しながらそう言って笑うヘンゼルに、ヴィクトールは心底驚いた。ヘンゼルは固まって何も言えなくなってしまったヴィクトールの頬に手を添えて、かすれ声で囁く。



「もしも罪を償うつもりがあるなら、尚更俺のこと、離すなよ。ここまで一緒にきた俺はもう、おまえからは離れられないから……一緒にこれからを生きていこう、一緒に罪を償っていこう」

「……ヘン、ゼル」

「ヴィクトール」



 ヘンゼルの瞳が、真っ直ぐにヴィクトールをとらえる。引力にひかれるようにヴィクトールはその瞳から目を逸らせない。



「……俺のこと、好き?」



――ああ。

 自分はなんて愚かなんだろう。こんなにも純粋に自分を愛してくれる彼を、突き放そうとしたのか。側にいたいという彼の想いを無碍にしようとしたのか。もしもこれから彼に災難が降り注ぐなら、自分が盾になればいいのだ。罪を自覚するなら、彼を守りぬけばいいのだ。



「好き……好きだよ、ヘンゼルくん、愛している、この世界を敵にまわそうと君を離さない、……愛している」

「……うん」



 ヘンゼルが手を伸ばし、ヴィクトールの頭を撫でる。へへ、と心の底から嬉しそうに、はにかむように笑った。



「じゃあ、もう俺とは離れられないな」



 狂おしい。一瞬でも彼と離れようとした自分を憎んだ。もう二度と出逢うことのできないような、全てを捨ててでも愛したいとおもう彼を、なぜ自分は見捨てようとしたのか。きっと、ただ自分の罪から逃げようとしただけだった。莫迦だ、自分は本当に莫迦だ。

 情けないほどに溢れるヴィクトールの涙を、ヘンゼルの指が拭う。ヴィクトールは力いっぱいにヘンゼルを抱きしめ、何度も何度も愛を囁いた。溢れそうになる想いをすべて、余すことなく彼に伝えたい。もう絶対に君を離さない。



「……ヴィクトール」

「……ん、」



 ヴィクトールの腕のなかで、ヘンゼルが身動ぐ。少しだけ腕の力をゆるめてやれば、ヘンゼルは顔をあげ、再びヴィクトールと目を合わせる。



「……ヴィクトール、俺も……俺も、おまえのこと――」



 そのとき。激しい物音が頭上から響いてきた。そして漂ってくる煙の臭い。炎が一つ上の階を侵食したらしい。二人は一刻もはやくここを脱出しなければいけないということを思い出す。



「……ヴィクトール、あとで、言う」

「……、」

「ここを生きて出て、俺の想いも受け取って」

「……うん」



 ヘンゼルの言葉が聞けなかったのがヴィクトールは残念でならなかったが、ここを生きてでるという強い想いへの糧となる。ここを二人で脱出して、一緒に生きるんだ。

 ヴィクトールはヘンゼルを抱えて立ち上がる。自分で歩けると渋ったヘンゼルを抑えこんで、そのまま走りだした。目指すは研究室。ドクターも連れだして、ここを無事に脱出するのだ。


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