アリスドラッグ | ナノ


▼ 惑い人2


「は……は……」



 何度も何度もなかに精を放たれて、椛はふらふらになっていた。濡鷺はにやにやとしながらぼんやりとする椛を見下ろす。



「ずっとここにいようね、そないすればあんたはんはずっと幸せでいられるよ」

「はい……」



 先ほどから、なぜか頭のなかは群青のことでいっぱい。自分が柊という群青の恋人の生まれ変わりだから、と椛はこの胸の痛みに理由をつけていたが、それでも切なくて仕方ない。群青が異常に宇都木を嫌う理由を、濡鷺から聞いてしまったからだろうか。群青が自分を避けている理由が、あまりにも悲しいものだった。あの笑わない式神の抱えていたもの、それを知ってしまったから。



「同情しとる?」

「……え、」

「群青に同情したはるん? やめておけ、あんたはんがあいつを想ったトコで、あいつはあんたはんんことなんて見やせん

「……、」



 そうだ、群青は自分のなかにある柊の魂を求めている。だから……もしも優しくしてくれることがあったとしても、自分をみてくれているわけじゃない。



「元ん世界に、あんたはんん居場所なんてありやせんよ。どなたはんもあんたはんを愛どしたり、せん」

「――勝手に決めんな」

「……あ?」



 ふと、誰かの声が聞こえる。声のした方を見れば……とじられていた襖が開いていて、そこから光が差している。そこに立っているのは……



「……群青」

「……どうやってここに来た。真実の目を持っていなければここには……あ、ああ……紅か」



 すうっと濡鷺の笑顔がひいてゆく。濡鷺はゆらりと立ち上がって、群青と向き合った。



「柊は? 柊と一緒にいたんやないの?」

「……あれは偽物だろ」

「ふうん……じゃあ、本物、奪いにきた?」



 にやりといやらしく濡鷺は笑って、椛の腕を掴む。群青の求めているのは椛ではなく、柊。そうわかっているのだ。



「残酷な人やね。こうやって苦しんでおる彼ん目ん前に……そないやってまた。あんたはんが愛せるんは柊やけやろ、椛になんて興味あらへんくせに」

「……っ、」



 ぽかんとする椛を抱き寄せながら、濡鷺は言う。濡鷺の言っていることは間違いない。群青は黙り込むしかできなかった。否定しなければ椛は傷つくだろう、しかし嘘をついたところで結果は同じ。



「……俺は、まだ椛とは向き合えない、けど……椛のことは助けないといけない」

「……柊さんの生まれ変わりだから?」



 群青の言葉に、椛が反応する。震えながら、濡鷺に抱かれながら見つめられ、群青は目を逸らしたくなった。全て知られている、と気付いた群青のなかに恐怖が湧いてくる。



「俺は……正直、まだおまえのことは柊様の生まれ変わりとしてしかみれていない、だから助けたいとも思ってる。でも……おまえの帰りを待っている人は俺以外にもいる」

「……まさか。群青は僕が柊さんの生まれ変わりだから助けたいんでしょう? 柊さんが大切な恋人だから。でも、他の人が僕を待っている? その理由は? 僕に待つ価値なんてない」

「……理由なんてそんなものなくても、おまえを大切に想ってる人はいるんだよ! おまえが気付けていないだけだ!」



「……ふ、」



 群青と椛のやりとりを聞いていた濡鷺が笑い出す。ジロリと舐めるような目つきで群青を見つめると、指を差した。そして、蛇の這う如く艶かしく、囁く。



「騙されるな、椛。この男はあんたはんを自分のモンにしたいやけんために嘘をついとるんや。自分が救えおへんどした柊をもういっぺん抱きたいがために」

「……違う、俺は……!」

「そないに言うなら群青、僕から奪ってみせろ。おさきに言うておくけれど、この子が柊ん生まれ変わりやからといってあんたはんと過ごどした記憶がおますわけおへん。まるっきし別ん人格や。ほんでも……死ぬ可能性があっても僕から奪おいやしたいと思うか」



 濡鷺がスッと人差し指で畳に触れる。その瞬間――部屋に敷かれた畳が全て、黒く染まり、溶けてしまった。



「……ッ、」



 濡鷺の妖術だ。強力な毒の瘴気。あんなものを体にうけたらひとたまりもない。



「一番……あんたはんが馬鹿なトコを言うてやる。僕と、あんたはんん格ん違いをわかってへんトコや」



 ゆらりと濡鷺が立ち上がる。そして、にこ、とつくりもののような笑顔を浮かべると、まっすぐに群青を指さした。その瞬間、どす黒い瘴気が群青に向かって放たれる。群青は慌てて妖術をつかって身を守ろうとしたが――体を覆うように出した蒼い炎を、瘴気はいとも簡単に打ち破ってしまった。



「――ッ」



 右半身に、瘴気はぶつかった。黒いそれは燃え上がるように群青の半身を包み、そして音をたてて溶かしてゆく。あまりの激痛に、群青は倒れこみ悲鳴をあげた。



「かんにんどっせ、群青。あんたはんが生まれたんはいつかいな? そん妖力からしはると……千年くらい前やと思うやけど。僕はね、よう二千年は前に生まれとる。ほんでこん体内に渦巻く呪念ん強さもあんたはんとは桁違い。わかったやろう、あんたはんに勝機はへん。消えろ、僕ん邪魔をしはるな」

「……群青……!」



 群青に駆け寄ろうとした椛を、濡鷺は捕まえてしまう。そして、群青の目の前で唇を奪ってみせた。椛はびくりと体を震わせて、逃げようとする。しかし――濡鷺の放つ妖術によって、身体は快楽に蝕まれてゆく。群青を慈悲もなく手ひどく傷つけたところをみて、なんとなく――この濡鷺という男のどこか黒い本性に気付いたというのに、逃げられない。身体が勝手に、彼を求めてしまう。



「椛……群青んことなんて、忘れてしまえ。どもないや、こんな酷い男が死んやトコであんたにはなかて影響せん。僕が、椛を幸せにしいやあげるんやからね


「んっ、……や、」



「……は、なせ……椛を、離せ!」



 濡鷺の頬を、蒼い炎が掠める。濡鷺の目が、ゆらりと群青をみつめた。



「……群青、おまえ、死んどく?」

「待って……濡鷺……」



 濡鷺の妖術でふらふらになりながらも、椛は濡鷺を突き飛ばして、群青のもとへ駆け寄った。群青の溶かされた皮膚からは血が出てきていて、シャツが赤黒く染まっている。



「群青……逃げてよ、僕はもう、いいから……」

「……ざけんな、よくねえよ……」

「いいんだって……! 元の世界に戻ったって、僕は幸せになんてなれない……誰も、僕のことをみてくれないから……!」

「だからそれは……おまえが周りをみていないからだって言ってんだろ……! おまえの親も、……紅だって、おまえのことをちゃんとみている!」

「……わからない、そんなの……僕にはわからない……」

「……っ」



 椛が目を潤ませながらそう言うと、群青が椛の手を掴んだ。そして、がくがくと震える体を起こし……倒れこむようにして椛を抱きしめる。



「……俺も、わからない。俺が、どうすればおまえと向き合えるのかわからない。宇都木への復讐心も、柊様の影を追い求めてしまう心も……まだ、どうしようにもないけど……逃げたらだめだって、それはわかるから……だから、椛、……俺と、これから……一緒に戦って欲しい、自分の弱さと」



 ぐ、と椛を抱く群青の腕に力がこもる。椛の体から、宇都木の血の臭いを感じて群青はぎゅっと目を閉じた。ぞわりと心をなでられる。柊が死んだ時の映像が脳裏によぎって、また恨みがぶり返す。それでも、離さなかった。椛を抱く腕を離さなかった。



「……だって、……群青の言っていることは、苦しそう……」

「……ああ」

「ここにいれば、簡単に幸せを手に入れることができるのに……」

「そうだな……」

「……群青は、僕のことを嫌いでしょう」

「……ぶっちゃけ今は嫌い」



 自分を包み込む熱に、椛はある記憶を呼び覚ます。雨の夜、怖くて震えていた幼いころ。真っ暗な屋敷のなかで、足がすくんで動けなくなってしまったあのとき。自分を抱きしめてくれた誰かを、とても暖かいと感じた。そのとき、なぜか咄嗟に「群青」と呼びかけていたが、結局その人が誰だかはわからなかった。でも――その記憶と重なる、つい最近の出来事。屋敷を抜けだそうとした雨の夜、群青に抱きしめられた、あの出来事。その熱と、幼いころに抱きしめてくれた誰かの熱は――同じだった。ひどく優しいあの抱擁は……冷たく凍りきってしまった心を、溶かしてくれそうな気がした。



「……一緒に、戦ってなんて言うなら……」

「……うん」

「……僕が、怖くなって、逃げたくなったら……また、こうして抱きしめてくれる? 群青にとって、僕の匂いはきっと……苦しいものだけれど」

「ああ……ちゃんと、おまえが俺のところにこれたらな。……俺に頼ろうとしてくれたなら……俺も、応えてみせる」



「ねえ、お二人サン」



 濡鷺が、ゆらりと二人に近づいてゆく。貼り付けたような笑みを浮かべ、ふらふら、ふらふら、派手な着物を揺らし一歩、一歩。



「やめておきなよ。怖いものに正面からぶつかっていくほど馬鹿なことはへん。無様にぐるぐるぐるぐる惑っとるくらいなら、目ん前におます花をつかみとってしまえばええやないか。滑稽にふらついとることほど、くだらないモンはないわ」

「……うるせえ」



 椛を抱きしめながら、群青は濡鷺を睨みつけた。全身の痛みに、汗が吹き出てきて意識も飛んでしまいそうになりながら。



「くだらなくなんてない、幸せは、簡単になんて掴めない。足掻いて、苦しんで、惑って……そうやって無様に転げ回んのが、人間だよ、おまえに笑われるものなんかじゃない……!」

「はて、僕にはちょっと理解できないなあ」



 濡鷺は、指先を自らの体に這わせてゆく。着物をすっとその指が滑れば、布に更に鮮やかな模様が浮かび上がる。その指が髪を撫ぜれば、きらびやかな髪飾りが現れる。



「生きとる限り、人には無限ん欲望が生まれてくる。花は一匁じゃあ足りない。いくつもいくつも、手に入れれば入れるほど、欲しくなってゆく。そん度に、足掻くつもりかい。そないしんどいことはやめたほうがええ。愚かいな人間、これ以上無様な姿を晒しいやくれへんな」

「簡単に手に入れられないから、手に入れた時に幸せなんだよ。全て手に入れることなんて、できない。……欲しいものが、手にはいらないときもある。失うこともある。俺は……全てを失って、何も見えなくなって……だから、もう一度だけチャンスが欲しい。どんなに苦しい想いをするとわかっていても……その先の、幸せを手に入れたい……」

「……ほんと、群青は妖怪のくせに人間臭いんだよなあ……それでいて、まっすぐ。犬って馬鹿だね。はいはい、了解。興味失せた。殺す。次」



 濡鷺はすっかり、きらびやかな格好に変化していた。歩く度に風をうけてきらきらと光る着物が眩しい。欲望を寄せ集めたような、その姿は、まるで浮世の化身だった。



「椛。おまえに聞こうか」

「……、」

「こん世界が消えへんってことは、まだおまえの心に迷いがおますってことせやかて……実際んトコはどないなん? その男の口車にのせられてそないになっとるやけで、ほんまはここに残りたいって思ってへん?」

「……」

「僕は、確実におまえを愛しいやあげる。おまえを幸せにしいやあげる。欲しいモンをなんやてあげる。……そない男と一緒にいても、しんどいやけや。ねえ、椛」



 椛は、濡鷺の視線から逃げるように、群青の首元に顔をうずめた。

 現実へ戻ることは、怖い。正直、群青の言っていることはまだちゃんと理解できていない。この世界にいたほうが楽に幸せになれる、そう思っている。

 でも、自分を力強く抱く群青の言葉は、椛の心をとらえて離さなかった。痛みにがくがくと震える群青の体は、ひどく熱い。辛くて堪らないはずなのに、こうして自分を護ろうとここにいる。群青一人で逃げ出すことも可能なはずなのに――こんな傷を負ってまで、自分を救おうとしてくれている。

 ――彼を、信じたい。そう思った。これから、きっと苦しいことがたくさんあるかもしれない。でも、優しくて、強くて弱いこの人と一緒ならば、戦っていける……そんな気がした。群青の大きな体は、震える心を温めてくれる。雨の夜に震えても……彼と一緒ならば、乗り越えられるかもしれない。



「……怖い、です。現実に戻ることは……すごく、怖いです」

「やろ?」

「……でも。……向き合います。正面から……僕自身と。群青がいるから……大丈夫」

「……」



 ぱら、と壁が剥がれ落ちるようにたくさんの花びらが降ってくる。世界が、崩れ始めたのだ。濡鷺の瘴気によって黒く染まってしまった部屋が、次々と花びらへと姿を変えて、崩れてゆく。花びらは舞い上がり――あっという間に、三人を囲う世界は変貌する。紅い空、醜い景色。その景色を初めてみた椛は驚いたようにきょろきょろとしていたが、これが本当のあの世の景色だと知っている群青は、ほっとしたような顔で笑った。



「椛。おまえはもう少し愉しませてくれると思ったんだけど」

「……僕は、……帰ります。元の世界に」

「ちょっとちょっと、勝手に帰るとか言われても困るんだけど。言ったよね……殺すって」



 ふ、と濡鷺は冷たく嗤った。す、と手をかざすと、そこに花がぽんと出現する。



「この世界にいれば、その価値もない安い魂で、花を一匁もそれ以上も手に入れられるっていうのに……おまえらはつくづく馬鹿だね。いらないんだね、おまえたちは。花を貪る無様な姿を見たかったのに……もう君たちには用がないよ。ここで、死ね」



 濡鷺の体から、黒い瘴気が溢れてきた。それは土すらも溶かしていき、辺りは悍ましい空気に包まれる。群青は痛む体に鞭打ってなんとか立ち上がると、椛の手を掴んで走りだす。濡鷺の言ったとおり、自分と濡鷺では格が違う。生きた年月が長いほど強い力をもつことのできる妖怪において、千年の違いは大きすぎる。絶対に敵わない、ここは逃げるしかない。



「群青ー……逃げようとしているところ悪いけど、ひとつ、この世界についていいこと教えてあげようか」

「……?」

「……妖怪は自由に出入りできるけど、人間は僕の許可が無い限り出入りはできないよ?」

「な……」

「出口はそこだけど……逃げたいなら、そのままそこを抜けていけばいい。ただし、椛だけはここに残る。あの、柊が死んだ時みたいに……ひとりの椛を、僕が嬲り殺してあげよう」

「……ッ」



 はは、と吐き出すように嗤いながら、濡鷺は迫ってくる。そして、一気に瘴気を二人に向かって放ってきた。目の前に出口はある。でも……ここを抜ければ、椛だけが取り残されて、死んでしまう。どうすれば――考えている間にも、瘴気は目前まできていて。群青は咄嗟に椛を自分の後ろにひっぱり、椛の前にでた。



「――あ、ッ……!」

「……群青……!」



 群青が、全身に瘴気を浴びてしまう。全身の皮膚が毒によって溶け出して、服はぼろぼろになりながらも皮膚に張り付いている状態。湧き出る血で、白いはずのシャツは真っ赤に染まる。すでに一度浴びていて、ぎりぎりだった群青は、こんどこそ倒れてしまった。妖怪だから、ぎりぎり命を保っていられるようなものだ。人間だったら、もうすでに死んでいる。



「待っ……群青、群青……」



 椛は慌ててしゃがみこんで、群青の顔をのぞきこむ。まだ呼吸をしていると確認してほっとしたが、今にも事切れてしまいそうな彼の様子に涙が溢れてくる。



「もう、……もう、いいです……僕はここに残ります、どうか……群青のことは見逃してください……」



 椛はがくがくと震えながら、濡鷺にむかって頭を下げた。濡鷺はわざとらしく困ったように眉をハの字に曲げてみせた。うーんと、唸って、にやにやと笑う。



「えー? そうだなあ、椛が僕の友だちの餌になってくれるなら、群青を見逃してもいいかな」

「……友達?」

「あれ」



 濡鷺が、後方を指さした。そうすると――肉塊がこびりついた建物の隙間から、ぞろぞろと何かがでてくる。それを見た椛は、思わず悲鳴をあげてしまった。

 現れたのは、大量の、大きな蜘蛛やムカデ、蛇。ぞわぞわと強烈な悪寒が椛のなかを渦巻いて、吐き気すらも覚えてきた。



「一応妖怪なんだけど……あれの餌になってくれるなら、群青を見逃してあげてもいいよ。あいつらに群がられて、すこしずつ体を食われていって……どう? 柊のときよりもちょっと痛いと思うけど」

「……ッ」

「群青を救いたいんでしょ? ほら……椛。それとも、群青のこと見捨てる?」



 あまりの恐怖に、椛は泣きだしてしまった。……どうせ、自分はここを出ることができない。ここで頷けば、群青だけは助かるのだ。ぐったりとしてしまった群青はもう、妖術を使うこともできなさそうで――



「……ぐ、群青のこと……助けてください……」

「ん? それは」

「……餌に、なります……」



「……ッ、」



 満足気に笑った濡鷺をみて、群青は血の気が引くような心地だった。痛みに震える体をなんとか起こし、椛を抱きしめる。



「ばか……なに言ってんだよ……!」

「群青……はやく、そこの出口からでて……僕は、いいから……」

「……ざけんな!」



 ぞろぞろと、蟲たちが這い寄ってくる。かさかさと土を擦る音が気味悪い。



「……おまえが、死ぬしかないなら……俺も、一緒に死ぬ」

「な、なんで……群青は生きられるのに……逃げられるんだ、逃げてよ……!」

「もう……! ひとりでなんて死なせたりしない……!」



 ぐ、と群青が椛を抱く腕に力を込める。がくがくとその体は震えていて、椛は服に群青の血が染みてくるのを感じていた。



「……知ってるか、椛……一緒に死ぬとな、生まれ変わったとき……また、一緒になれるんだ」

「……群青、」

「……ごめんな、椛……本当は今、幸せにしてあげたかった。俺がもっと、早くおまえの叫びに気付いていれば、おまえがここにくることもなかった……ごめん、椛……」



 ずる、と群青の指先が椛の頬に触れた。椛の震える瞳に……群青の、微笑みが映る。



「……次こそは、幸せにするから」



 そっと、口付けられる。それに、恋情が込められているのかは、わからない。ただ、誓いのような口付けに、椛は声をあげて泣いてしまう。二人で抱き合って、ただ、蟲が近づいてくる音を聞いていた。



「――うッ……!?」



 そのとき……何かが破裂するような、鋭い爆発音が聞こえてきた。連続で3発。驚いて二人が顔をあげると、濡鷺が血塗れで胸のあたりを抱えている。濡鷺が攻撃を受けた影響か、蟲たちの動きもぴたりと止まる。

 何が起こった……? その場にいるものが、皆思った。じゃり、と土を踏むような音が聞こえて、その方向を見遣れば――



「ごきげんよう、お兄様」



 この世界の出入口の前に立っていたのは、鮮やかな赤い着物を着こなす、さらさらの長い黒髪を靡かせる少女。その手に持っているのは、銃。



「……紅」



 その少女は、紅。にっこりと微笑んで、呆然としている椛と群青に、言った。



「声が聞こえたような気がしたので、来ちゃいました」

「ばっ……おまえ、来るなって言ったのに……」

「満身創痍の貴方が言う?」

「う……」



 慌てる群青に、紅はふふ、と笑って言った。手に持っている銃は、恐らく行人のものだろう。なぜ、紅がここまできたのかと唖然とする椛に、紅は微笑みかけた。



「椛様。この馬鹿のこと、助けたいって強く想ったでしょ。そして、本当は生きてここから出たいって」

「え……」

「私、聞こえたんです。ずっと……椛様の帰りを待っていたから。貴方の強い想いが、なんとなく聞こえたような気がして」

「……僕の、帰り……」

「みんな、待っているんですよ。行人様も、千代様も。そして私も。みんな、椛様がいなくなってとても心配しています。ね、椛様、帰りましょう。こんなところで死んではいけませんよ」



 ぽかんとしている椛を抱きながら、群青は紅をみつめる。紅はそう言っているが……ひとつ、問題が。



「待て……紅。椛は人間だから、そこの出口を抜けたところで現世に戻れない、らしいんだ。あいつの……濡鷺の許可がないとだめだって……」

「ああ、大丈夫。私がいるから」

「え?」

「私は、あのクソ兄貴の魂を少しもらっているから、私がいれば椛様も現世に帰れるわ」



 紅は袴を揺らし、一歩、踏み出す。濡鷺と向き合って、銃口を向ける。



「……紅、……この、あばずれが。僕に歯向かうつもりか」

「兄離れってヤツかしら。お兄様。お兄様が私を助けてくれたことは、ちゃんと感謝しているのよ? でも、私……貴方よりも好きになっちゃった殿方がいるので。いつまでもお兄様にべたべたする妹なんかではいるつもりない」

「……ただで返すと思うな、この売女! おまえも、そこの二人も……ここで殺してやる」

「そうね、兄弟喧嘩とでも、いきましょうか」



 紅はトリガーにのせた指に力を込める。妖力を込めた弾丸なら、妖怪にもあたる。濡鷺の使う妖術は、万物を溶かす毒の瘴気。非常に強力な妖術ではあるが、高速で向かってくる弾丸を自分に直撃するまでに溶かし切ることはできない。撃てば必ずあたる。ただし……相手に与える傷はそこまで大きなものではない。トドメをさすには至らない。



「群青……逃げる準備! 濡鷺を仕留めるのは無理だから……ひるませたらすぐ、その出口から逃げるわ」



 今濡鷺に背中を向けて逃げようとすれば、必ず後ろから攻撃されて、殺されてしまう。濡鷺を殺すことではなく、隙をつくることに全力を注がなかればいけない。

 紅は、周りから聞こえる、蟲の蠢く音に顔をしかめる。大量の蟲の群れ。紅の妖術ではそれら全部を片付けることはできない。しかし、逃げるためには蟲は全て殺しておかねばならない。



「……群青、そいつら焼いて!」

「……むちゃ、言うな! 俺の体みてそれ言ってんのか! 立つのだってキツイんだぞ」

「いいから、やって! 終わって屋敷に帰ったらぶっ倒れてもいいから今は頑張って!」

「こ、このっ……」

「椛様の式神でしょう! 椛様を、死んでも守るのよ!」

「……っ、ああ、くそ……わかったよ、やればいいんだろやれば!」



 群青はふらりと立ち上がった。椛は慌てて群青に肩を貸してやって彼を支える。

 紅の要求はなかなかに無茶なものであるが、そうしなければここを抜け出せないことも事実。先ほどと違って、ここを逃げることのできる希望がある。最後の気力を振り絞って、群青は手をかざす――が、



「……ッ、」



 ずきりと全身が痛む。これ以上妖力を使おうとしたら、意識が飛んでしまいそうだ。蟲の集まってくる音がきこえる、早くしなければ、早く……!



「――群青……!」



 椛は咄嗟に手を伸ばし、群青の手を掴んだ。そうすれば、群青がはっとしたように目を見開く。そして驚いたようにつぶやいた。



「……おまえ、」

「え?」



 その瞬間、群青を中心に蒼い炎が放射状に勢い良く広がっていく。炎は蟲たちを一気に焼き払い、濡鷺へも届いた。濡鷺は驚いたような表情をしながらも妖術を使って身を守っている。



「……宇都木の祓い屋め」



 苦々しい表情をしてつぶやいた濡鷺は、群青の急激な力の増幅の原因を悟っているようだった。炎の勢いで生まれる風に目を眇め、濡鷺は椛を睨みつける。



「……な、なに……僕が何かしているの?」

「……ああ、「おまえ」がやってる」

「?」



 椛が無意識にしていたのは――式神の力をあげる、祓い屋の術だった。もちろん、椛は祓いの力など一切使えない。しかし、この世界から抜けたいという想いが、「術の使い方の記憶」を呼び寄せた。歴代の宇都木家で最も優秀な祓い屋だった柊の記憶を。柊の魂を所有している椛は、強い想いのよって、柊の記憶を呼び覚ましたのである。



「僕が、やってるの? なんでこれを使えているのかもわからないのに」

「俺の力になりたいって思ったから使えているんだろ。この術は柊様のものだけど……あの人、この術使ってくれたことないからな、ケチだし!」

「……、」



「群青! 火力上げて!」

「……この、言いたい放題言いやがって……! やってやるよ!」



 紅の呼びかけに、群青はやけになって応えた。気力を振り絞って、蒼い炎の威力を一気にあげる。

 濡鷺は身を守ることはできているようだが、火柱のせいで視界が遮られ行動にでることができないようだった。紅は今がチャンスだと、銃に妖力をこめて――残りの弾丸を全て放つ。



「――く、」

「走って! 逃げるのよ!」



 弾丸は全て命中。致命傷には至らずとも、濡鷺を一瞬怯ませるには十分だった。紅の叫びで、群青と椛は出口に向かって走りだす。紅もすぐに追いついて、椛の手を掴んだ。



「椛様……! 帰りますよ!」

「……うん」



 椛の足が、出口に入り込む――そのとき。後ろから、凄まじい勢いで何かが飛んでくる。群青はすぐに気付いて振り返った。大蛇の妖怪。濡鷺の妖力を纏って、飛んできている。



「――しつけえ……!」



 群青が炎でなんとかその大蛇を仕留め、椛と紅が傷を負うことはなかった。群青がじっとこちらを見据える濡鷺を睨みつけると、紅が手を引っ張ってくる。



「群青……はやく」



 紅が急かしたが、群青は動かなかった。濡鷺から、攻撃の意思を感じなかったからだ。濡鷺はだらりと全身の力を抜いた状態で立って、不機嫌そうな顔で三人をみている。



「……出て行くなら、勝手に出て行けばいい」

「……」

「ただし、覚えておけ。この世に生きている限り……自分を囲う人間たちの醜い欲望に苦しめられ続ける。生きたいなら、それに一生苛まれるのだと――覚悟しろ」



 群青は、じっと黙り込んだ。そして、濡鷺には言葉を返さずに、出口のほうへ体を向ける。



「……今まで、ずっと……俺は人の欲に苦しめられて、打ちのめされて。手に入れても手に入れてもまだ足りない、莫迦な人間たちの側にいては人生を憂いて。でも……俺にも、欲がまた生まれた。もう一度、大切な人を幸せにしたいって。生きたいって」

「……贅沢な、欲やなあ。本当に莫迦や。花は、一匁じゃ足りないっていうのかい」

「……足りねえよ。身に余るほどの幸福を、俺は求めている。その代償に、きっとこれからずっと苦しむだろうけど」



 群青は、椛の手を掴んだ。はっと顔をあげた椛に微笑みかけて、言う。



「――覚悟は、できている」






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