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「あの……本当にいいんですか?」

「うん。っていうか俺が嫌だ」

「でも……」

「いいよ。逃げられたってことにしてハル様に謝っておくから」



 ウィルフレッドが去ったあと、ラズワードとアザレアはさっそくアルビオンから脱出する支度を始めた。悪魔であるデイジーを連れて行くわけにもいかないため彼女とはここで別れることになったのだが、二人が別れを告げようとすると彼女は言ったのだ。「私を狩れ」と。ラズワードは約束どおりアザレアを救おうとしたし、ラズワードがここにきたのはデイジーを狩るためであるから、そういう理由であった。

 しかし、ここでデイジーを狩れるほどラズワードは非情ではなかった。たしかにデイジーを狩ることはハルの命令であったがこればかりはやろうという気にはなれなかったのだ。



「あの……ラズワード様はもうここには来ませんよね……?」

「……んー、まあ……来る予定は、ないかな……」

「……じゃあ、本当にここでお別れなんですね」

「……うん。……ありがとね、姉さんを助けようとしてくれて」

「……いいえ」



 しょぼん、とデイジーは俯いた。唇を噛んで、小さく体を震わせる。どう声をかけようか、ラズワードが戸惑っていると、デイジーはぱっと顔をあげて言う。



「……ラズワード様。……目を、閉じていただけませんか」

「え……?」

「――いいからっ!!」



 顔を上げたデイジーは泣いていた。ラズワードは驚いて息を飲んだが、デイジーに迫られて気の利いた言葉をかけることもできず、言われた通りに目を閉じる。あ、とアザレアが小さく隣で言ったのは、聞こえなかった。

――唇に、柔らかなものが触れる。

 少しだけびっくりしたラズワードが思わず目を開けると、そこには視界いっぱいにデイジーの顔があった。顔を真っ赤にして、潤んだ瞳でラズワードを見つめている。流石にそれをみれば何をされたのかは理解できた。すぐに離れていくデイジーにラズワードが声をかけようとすれば、デイジーはそのまま走って遠くまでいってしまう。ラズワードが慌てて引きとめようと足を一歩、踏み出すとデイジーはくるりと振り向いた。



「じゃあ――さようならですよ!! シスコンやろー!!」

「な……はぁっ!?」

「天然タラシ!! 無自覚鈍感!! その性格なおせ、乙女の大敵め!!」

「ちょっ……、おまえ、言わせておけば好き勝手……!! 俺がなんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ!!」



 あは、と後ろでアザレアが笑っていた。なんで笑うんだよ、とラズワードは恨めしげにアザレアを見つめたが、アザレアはくすくすと笑ったまま前を指差す。なんだと思ってラズワードがもう一度デイジーを顧みれば、デイジーは朝日をバックにして笑っていた。



「ラズワード様は!! こうでもしなきゃわからないからしてあげる!! 私に感謝してくださいね!!」

「は?」

「――ラズワード様……!! 好きです……私、あなたのこと、好きです!!」

「――っ」



 ちり、と朝日が目に染みる。デイジーの笑顔がやけに眩しい。それでもラズワードは真っ直ぐにデイジーを見る。



「――俺は……!」

「知ってます……ラズワード様には、大切な人がいる……だから私、ラズワード様のこと応援してますよ……! あなたに幸せになってほしいから!」

「デイジー……」

「でも……! これだけは許してください……私、もうしばらくあなたを好きでいたいです……! ずっと、あなたを想っています! だから……どうか、どうか……私のいないところで、笑っていて! 私があなたを好きだってこと覚えていて! ……自分を、大切にして……!!」

「……!」



 デイジーは、少しだけ、感じていたのだ。ラズワードの言動の中に、どこか自分を蔑ろにしている節があるということを。真っ直ぐな強さの中に、大切な人のためならば自分を犠牲にすることを厭わない、そんなラズワードの考えを。

 だから、もっと、もっと、貴方自身の幸せを大切にしてほしい。

 それが、デイジーの精一杯の想いだった。自分の想いが叶うなんて想っていない。ただ、それを伝えられれば十分だった。

 しかし、その言葉を聞いたラズワードの瞳は僅かに揺らぐ。デイジーの想いはたしかに受け取った。しかし……それを飲み込むことはできなかった。だって、……



「デイジー」



 目を閉じる。一瞬浮かんだあの人の顔。あの人の幸せは――



(俺の幸せを全て犠牲にしないと手に入れられない)



「……ありがとう。俺、ずっとデイジーのこと忘れないよ」

「……!」



 それでも、デイジーの想いが嬉しかった。だから、彼女に笑顔をみせる。デイジーにも、笑っていてほしいから。



「デイジーの言葉……ずっと、覚えているから!」

「――はい……!」



「わかった」と言わず「覚えている」と、言葉を濁したラズワードの意図にはデイジーは気付かなかっただろう。デイジーは嬉しそうに微笑んだ。微かに胸が傷んだが、手を降ってきた彼女にラズワードもそれを返す。

デイジーが去ってゆく。それを見つめるラズワードに、アザレアは静かに声をかけた。



「……ラズワード。私も、デイジーと同じ想いよ」

「……そう。ありがとう、姉さん」

「……ラズワード、貴方はあまり自覚ないでしょうけど……貴方を大切に想ってくれている人はたくさんいる……! その人たちは、みんな貴方の幸せを願っているの。もっと……自分を大切にするべきよ。ラズワードはもっと自分自身の幸せを求めてもいいのよ……!」

「……うん」



 落ち着きをもってアザレアを見つめる瞳には、確かな決意がこもっていた。ああ、強くなったね……自分の答えを見つけたんだね……アザレアはそう思ったが、喜べなかった。その答えは……やがて、ラズワード自身を壊してしまう、そんな予感がどうしても拭えない。



「……でも、姉さん」



 デイジーに言えなかったことがある。もう会うことのない彼女には言えなかった。しかし、アザレアには言ってもいいと思った。ラズワードは静かにアザレアに一言、こう言った。



「これが、俺の幸せなんだ」



 その顔は迷いはなかった。穏やかに笑っていた。その表情をみて、アザレアはこみ上げてきた言葉を全て飲み込む。大切な弟の未来を想像してアザレアは胸が痛くなったが、彼自身がそう言うなら。アザレアはただ、笑ってこう返した。



「そっか」



 朝の冷たい風が頬を撫ぜる。「いこう」、ラズワードがそう言ってアザレアの手をひいた。自分のよりも大きな手、大きな背中。きっと、彼は誰よりも強いだろう。アルビオンを抜け出すことなんて、難しいことでもなんでもないだろう。……でも、貴方のその強さは何に使うの? 大切な人を守るため……いいえ、



(貴方自身の、幸せな未来を破壊するため)
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