(時間軸2年前/この話のシャチ視点)



 
 
「キャプテェン…」

 ゴンゴン、という篭った物音と弱々しい呼びかけに、顔が自然とそちらを向いた。
 背後でペンギンが簡単な診察用に常備されている器具を拭く音も、船長がカルテにペンを走らせる音も揃って止む。

 声はベポのものだ。扉の隅から音が聞こえた辺り、爪先でノックしたのだろう。
 どうして手を使わないのかと疑問に思う前に、手が使えない状態であるという連想が働き、オレが一番近くに居た事もあって扉を開ける。

「!? なっ、……どした、何があった!?」

 困り顔のベポが、瞼を閉ざしたアルトを横抱きにしていた。
 予想外の光景に第一声が大きくなってしまい、咄嗟に声量を抑える。アルトが誰かに運ばれているところなど、シャボンディで機械人形に脚を撃ち抜かれた時しか見た事がない。

「時々唸ってるんだ。熱はねェと思うんだけど、おれの手じゃ正確には分からないし、唸ってる時間もちょっと長いから心配になって……」
「入れ」

 船長の一言にはっとしてドアの前から退く。
 ベポが入ってから扉を閉め、船長がアルトの口元へ片手を翳して動かない様子に落ち着かない心地で二人と一匹を見つめていると、ややあって「っ……ぅ」と小さな呻きが聴こえた。

「カタスレニアの特徴とは一致しねェな」
「何スか、それ」
「睡眠障害の一種だ。息を吐く時に無自覚、無意識で唸るが、大抵は短くても二秒以上声が出る。……この距離でこれだけ話しててもコイツが起きねェのは珍しいか。ベポ、抱えたまま其処座れ。ペンギン、口頭鏡。シャチは体温計寄越せ」
「はい」
「アイアイ」

 船長はアルトの顎を掴んで口を開けさせると共に真上を向かせ、先端が平たい円に成形された器具を差し込んで咥内を診ると「舌根沈下でもねェな」と呟いて直ぐに引き抜く。

「う、ぅ」

 僅かに開いた唇がまた小さく呻く。地声より少し音が高く、終わりに向けて細くなる、頼りない声だ。
 身体の何処かを掴んだり押さえる素振りもないし、発汗も見られないが、だからと言って呑気に眺めていられるものでもない。アルトの表情が妙に苦しげと言うか、例えるなら「嫌そう」なのだ。

「……コイツ、魘されてるだけか?」

 体温計も三十六度六分と平熱の範疇を表示し、船長の"スキャン"でも特に病変は見つからない。
 いよいよ容態が分からなくなり内心で焦りが膨れる中、アルトの手首で脈を測っていた船長がぽつりと言った。

「へ? そうなん……って言っても、なァ……」

 ペンギンと顔を見合わせる。
 身体的な苦痛に苛まれていなさそうなのは一先ず喜ばしいが、魘されているという事は、即ち現在進行形でアルトは悪夢を見ている。
 こんな状態のアルトを目の当たりにしたのは初めてで、何をしてやれば良いのか見当がつかない。

「あの、船長。起こしちゃ駄目っスか。ヤな夢見ちまってるんなら、一回目ェ覚ました方が…」
「…………そうだな。ベポ、呼んでやれ」
「え? おれ?」
「仮にお前に抱き抱えられてる体温や感覚が夢の内容と深くリンクして、それが本人にとって良くねェ事なら多分藻掻いたり暴れてる。その兆候はねェし、」
「ッう」

 そこまで船長が言ったと同時に、アルトが思いきり眉間に皺を寄せた。

「アルト!」

 思わず、といった声色でベポが呼びかける。
 真上からそれなりの音量で名を呼ばれたアルトは一発で目を覚まし、ベポを見上げて無防備な面持ちで何度か瞬きをし、次にゆっくり船長の方を見た。

「……やっぱり魘されてただけだな。脈は落ち着いた」

 手首を離す船長の一言に、深くて長くて大きな溜め息が出る。ペンギンも隣で似た反応をして天井を仰いだ。

「焦ったァ〜……! アルトお前、唸ってたぜ。ベポが気付いて此処に運んできたんだ」
「怖い夢でも見たか? 船長が一応能力で診てくれたが、何処か気になる所ないか?」
「……ううん、大丈夫…」

 驚いたように周りを見上げているアルトは、何処かぽかんとしたままだ。魘された自覚もないようだし、日々の中で継続して悪夢に苦しめられている事はなさそうで安堵の嵩が増す。

「ちょっと、嫌な夢見ちゃった。唸ってたとは思わなかったけど……」
「どんなの見ちまったんだ?」
「昔の事」

 船長と相棒から、乾いたばかりの洗濯物を床へ落とした挙句に土足で踏んだ犯人を見るような眼差しで刺された。「お前なァ……」という副音声も聞こえる。

「いやいやいや今の予想すんのムリでしょオ!? えっ、あーアレだ、もうこの際話してスッキリするか!?」

 本当に軽い気持ちで、何の故意も他意も、勿論悪意も一切なく訊いてしまった。
 アルトが明確に悲鳴をあげて嫌がる筆頭は他でもないトラファルガー・ロー特製人体パズルだが、船長が能力を使った夜に必ず夢見が悪くなる訳でもないし、虫は好きではないようだが毛嫌いとまではいかないし、怪談話もリアクションが大きい方ではない。
 何にそんなに怯えたのかと、単純に気になってしまったのだ。迂闊だった。

「お前の頭髪をスッキリさせてやろうか」
「イヤァアアア日焼けしたら帽子被ってたとこだけ色違っちゃうーーー!!」

 薮をつついたら蛇の代わりにペンギンが出た。じりじりと寄ってくる顔が照明との位置関係で逆光になっている様がこれまた怖い。

「心配するの其処? 別に話すのは良いけど……失敗談みたいなものだから」
「え。……オッケー、なのか?」

 思いがけない台詞に、その場の視線がアルトへ集まった。

 船長に拾われる前の事を、アルトの口から聞くのは初めてに近い。幾らなんでも世間話の延長で掘り返して良い内容ではない点に加え、本人が記憶やフラッシュバックに悩まされているのでなければ他人が触らずにいるべきだろうと、アルトの過去に言及しないのはハートの中での暗黙の了解にもなっている。

「うん。多分、自分のミスが元になった出来事だから未だに覚えてるんだろうし……皆だって今まで色々トラブルとか苦労とかあっただろ。話聞いて、まあそういう事もあるよなーって言って貰えたら気にしなくなるかも」

 それは前の船の連中に「お前のミス」だとなすりつけられて思い込まされただけでは、とは言えない。

「……お前がそう思うんなら、耳を貸す分には構わねェが」

 船長が傾聴──もとい受容の姿勢を示した。オレもペンギンも迷わず倣う。

 全ては過去の事だ。記憶を消せはしなくとも、薄めて沈めてやる手伝いなら出来る。時間が解決するにしても、これからの時間はオレ達がアルトの傍に居てやれるのだから、無法者なりに目一杯好き勝手に、楽しい事へ手を伸ばして生きれば良いのだ。

 回顧するように宙を見上げたアルトは唇を開き────ほんの一拍、間を空けた。
 その仕種でにわかに緊張を煽られる。どんな話が飛び出そうともアルトの味方で居る自信は揺るぎないが、人間を最低限の食糧だけ持たせて無人島へ置き去りにするような連中の話だ。冒頭から右ストレート並の衝撃がくるかもしれない。

「俺、その時仕事の途中で血まみれになっちゃったんだけど」

 開幕ボディーブローだった。

「あ、俺の血じゃないよ」

 そうじゃない。「あっ変な言い方しちゃった」みたいな半笑いで手を振っているがそうじゃない。
 先ず海賊やってても血まみれにはそうそうならない。おまけにアルトはハートの海賊団に入るまで自分専用の武器はなかった筈だ。刃物はそのまま自決や反逆の手段になり得るのだから、"仕事"の時だけ与えられていたとも考えにくい。

 ならば包丁はと言うと、アルトを見ていれば料理が好きな事は直ぐ分かるが故に、食材を刻む為の道具で人を害せないアルトの優しさにつけ込んで好きに使わせていたのだろう。アルトもなまじ心が自由になれる時間があっただけに、脱走を決意する意志が育ちきらなかった可能性はある。
 当たり前だが、"何"の血を浴びたのかは誰も突っ込んで尋ねない。

「好きな木の実が成ってるの見つけて、採ろうと近付いたら……あー…怒らせちゃって」

 ガキ大将が図体だけ大きくなった、自信過剰タイプの海賊だ。この手の奴は大声で相手を威圧して萎縮させ、暴力と恐怖で支配するのが無駄に上手い場合もある。
 自分達にとっての便利な道具である対象が、自分達の許可なく何かをしようとすると怒鳴るし手を出す。被害者は苦痛を避ける為に従順になり、主人気取りの加害者は優越感と全能感で調子に乗る。

 男尊女卑の価値観が根付いている島でも、夫が往来で妻を雑に扱ったり、とても対等な関係には思えない言葉を吐く光景は割と見かける。男という生き物は案外みみっちいのだ。とは言え此方の感想は「その木の実はテメェが苗から育てたモンでもねェだろうがうるせェな」でしかない。

「騒がれて仲間呼ばれて」

 既に聞くのがつらい。
 働かされて血の匂いにまみれて、ふと目に入った好物へ手を伸ばそうとしたら怒鳴られる。アルトが何をしたと言うのか。
 しかもまるで大層な悪行を働いたかのように人数で圧をかける辺り、屑共が手馴れている。其処も気分が悪い。アルトのような性格をした人間は、自分に非が無いケースであっても、一度謝ってしまうと思考が自罰的な方向へ沈んでゆきそうだ。

「……呼ばれて?」
「囲まれそうになったから逃げようとしたんだけど、地面の穴に落とされちゃって」

 耐えきれなくなって一旦しゃがんだ。
 果物採ろうとしただけで其処までするか普通。いや屑の思考は分からないが、そしてオレ含めハートの海賊団は決して善人でもないし道徳と倫理を横に置く場合もあるが、人を飼い殺しにして尊厳を踏みつけようなどと言い出すクルーは一人も居ない。

 本当にアルトが去年まで居たのは海賊船なのだろうか。前職は何かの弾みで人語を喋れるようになったチンパンジーの群れを担当する動物園の飼育員だったと言って欲しい。

「まあ幸いそんな深い穴じゃなかったから、壁に窪み作って登れば良いやって思ったんだけど」

 落とされ慣れている。穴に落とされ慣れている。
 普通は大声を出す、手持ちの道具で鈎つきロープの代用品が作れないか試す、とかだろうに、訴えも努力も嘲笑われ潰されるからか「落とされたら登る」に行き着いている。まさかこれが武装色の覇気発現エピソードなのか。

「蛇入ってきてさ。あ、ヤベ、俺血まみれじゃんって思って」

 ペンギンが膝を折った。床の上で握った手の甲にはかつてない程くっきりと血管が浮いている。今なら精度百パーセントで採血可能なぐらい青々とした血管が隆起している。
 あと歯を食いしばってどうにか堪えているようで「スゥーーーーーーッ……フゥーーーーーーッ……」という呼吸音が延々聴こえる。

 それにしても屑共の姑息さが振り切っている。穴に落として、蛇をけしかけて、結果アルトに何があっても「直接手を出しちゃいない」と宣うのだろう。そんな奴等が戯れに投げ込むのが毒蛇でない訳がない。アルトが無事で居てくれて本当に良かった。

「"いざって時"の為にナイフは持ってたんだけど、こんなとこで使いたくないなって鞘から抜けなくて」

 最悪の二択を提示される事にまで慣れている。デッド・オア・ダイの状況下に置かれる事に慣れてしまっている。
 愚弄されて不幸な事故扱いで死ぬ位なら自分の意思で両親の元に向かう方が遥かに良いだとか思っていそうだ。オレが親なら怒りと恨みで化けて出て屑共を憑き殺す。幽霊が生身の人間に取り憑いて殺せるかは分からないが気合いで屠る。

 そもそも、悪魔の実の能力をきちんと扱える上に肉弾戦も出来るアルトが穴に落とされる事自体、本来なら有り得ない筈だ。
 海楼石の錠か鎖で以て負荷をかけられ、碌に抵抗も出来なかったに違いない。同じ連想が働いたのか隣でペンギンが静かに胃の辺りの服を掴んだ。分かる。

 図書館で上の階の賊へ単身特攻したのも、シャボンディでパシフィスタ相手に一人で片をつけようとしたらしいのも、もしや先鋒を"務めさせられる"事に慣れていたからなのかと思うとやりきれない。

「結局血の染み込んだ上着を蛇に被せて、その隙にどうにか脱出……」
「分かった、もういい。寝ろ」
「え? あ、うん。今のでもう話終わりだし、脱出した後オチは特に無い」
「あって堪るか」

 船長によって昔話が断ち切られた途端、肩の力が抜けた。
 想像以上に屑共の程度が低くて、だからこそ酷かった。ボールを崖に向かって何度となく小突いて転がし、落ちそうになれば「おっと危ない」とにやついた顔で拾うような、身体よりも精神を削る虐げ方だ。

 これ以上語られればペンギンは血圧が上がり過ぎて倒れるか血の涙を流すか呪殺の勉強でも始めそうだし、船長も先程から静かに苛立っている。顔は見えないが、足を組んだ姿勢で浮いている方の爪先をゆらゆらと動かす様子がその証拠だ。

「心配かけてごめん、皆ありがとう。ロー、それにペンギンさんとシャチも、疲れてるなら回復するから手……」
「お前が今すぐたっぷりぐっすり安眠しろやァ! アロマ焚いてローソクの火揺らして適度な暗さで子守唄奏でるぞコラァ!!」

 最年少の新入りの性根が良過ぎて最初にキレたのオレだった。


▼ ▼ ▼

旗揚げ組も他のクルーもアルトに気を遣って「これってこういう事?」のような確認や掘り下げをしない為、アルトは自分がとんでも勘違いをされてる事に気付かないんですが、偶然知ったら知ったで
「ヤバ……えっ…どうしてそんな解釈に……? 海賊船に居たとも海賊に捨てられたとも一回も言ってないよな? 話の流れでそれっぽい返事とかしちゃった事あったっけ? でも結局念の罠の事は言えないし乗っかり続けるしか……うわ嘘ついて同情引いて皆の優しさ利用してるみたいで後ろめたさエグい吐きそう」
って顔真っ青にするので、周りは自分達の話聞いちゃったアルトがフラッシュバック起こしたのかと慌ててやっぱりアンジャッシュする
22.01.12


 
back

- ナノ -