瞼を持ち上げる。何か夢を観ていたような気がするものの、瞬きをした途端その名残は霞んで失せた。

 いつの間にか座った儘眠っていたらしく、殆ど真下を向いている体勢の所為で首が鈍痛を孕んでいる。
 筋を痛めてしまわないよう、ゆっくり頭の角度を上向けようと身動いだ刹那──何の前触れもなく、項に冷たく硬い感触が押し当てられた。

「動くな」

 その声を聞いて漸く、意識を落とす前に自分が置かれていた状況を思い出す。
 自然と背筋を伸ばしそうになり、けれども今しがた真後ろから寄越された一言が思い返されて、結局静止するだけに留まる。しょき、と刃の噛み合う音が耳元で鳴った。

「ごめん、寝てた…」
「構わねェ、こっちの方がやりやすい。首が疲れてるだろうがもうじき終わる、辛抱しろ」

 ローの声色に棘は無いので、俺が転た寝してしまった事で作業に支障が出た訳ではないらしい。
 中途半端なタイミングで目覚めてしまったが故に嫌な首の凝りに耐える事、更に数分。不意に視界の脇に刺青だらけの片腕が映り込んだかと思うと、首から二の腕にかけて巻き付けられていたタオルが取り払われた。

「終わったぞ。これで良いか」
「…うわ、スースーする! 涼しい!」

 かけられた声を合図に今度こそ顔を上げると、先ずは最初に肌で違和感を得た。
 頭を動かす度に首の後ろを撫でていた感触は無くなり、風など吹かない室内にも関わらず其処だけ妙に涼しい。慣れない感覚だ。

 床へ伏せて置いていた鏡を裏返し、眼前まで持ち上げる。
 此方を見返す俺の、約六年弱もの長きに渡り付き合ってきた襟足の髪がばっさりと切られていた。代わりに右の頬へかかるサイドの髪は此処一年ぐらいで以前よりも伸びている。
 自分からローに頼んだ事とは言え単純に頭が軽い心地が新鮮で、思わず片手で項を撫でる。指先が他とは少し質感の異なる箇所に触れて、目的がきちんと達成されている点も確認出来た。

「ありがとう、満足」
「アクアパッツァ」
「夕飯のリクエスト?」
「ああ」
「魚と海老は在るけど貝が無いな…本部ってまた街中に建てられたんだっけ? 市場行けば売ってくれるかな」
「どうだかな。あまり期待しねェ方が良い」
「だよね…」

 胡座をかいていた浴室の床から立ち上がり、少し強張った背中を一旦反らしてからシャワーを手に取る。
 ローがタオルに付いた細かな髪を床へとはたき落とし、それに水を浴びせ、願かけとも気休めとも呼べていた自分の欠片が排水口へと吸い込まれてゆく様を何となしに見送る。

 筋になった水が生き物のように輪郭を絶えず変えながら足に触れ、側面をひんやりとした感触が撫でたかと思うと、直ぐに足の裏へと冷たい水が忍び込んでくる。
 固い床の上で跳ねる微細な水飛沫が脛の辺りを少し濡らす頃には、足元は再び綺麗になった。

「今日になって急に髪を切りてェと言ったのは理由でもあるのか」
「前から考えてはいたんだよ。これが他の人には全く見えないのも何だか勿体ないような気になるし、髪の代わりになってたってのもあるし……もう、大丈夫そうだなって。きっかけが無かっただけ」
「……、…今日はタイミングが良い日かどうかまだ解らねェぞ」
「うん。だからそうなったら良いな、って気持ち込み」
「…ったく。鏡、もう一度顔の前まで上げろ」

 俺が告げる言葉に対し訝しげな眼差しと併せて片眉を上げたローが、短く息を零しながら口角を少しばかり吊り上げる。
 寄越された指示に従う間にローは足を壁面へ運んで取り付けられている別の鏡を金具から外し、俺の背後に戻ってそれを斜めに傾けた。

「わ、はっきり見える! こうしたかったんだよ、ロー巧い」
「今後は一回のカットにつき千ベリーだ」
「普通に払いたくなる良心的な価格…」

 およそ一年前、グランドライン前半に在る水上都市ウォーターセブン内のジュエリーショップへ訪れた際に、ローから「ジョリーロジャーを着せていない代わりにピアスを着けるか」と提案された。
 その時俺は返答として、折角なら此方が良い、とローの手を彩る刺青を指した。

 俺が刺青を施したがるような発言をした事はそれまで一度も無かった為ローには「意外だな」と言われたが、いずれにせよ身体に傷を付ける過程ありきの装飾なら、万が一にも失くす心配の要らない物を選びたかったのだ。

 現在。ローが持つ鏡の真ん中、俺の項に、黒に限りなく近い濃紺に染まるハートの絵が一つ居座っている。

『────目標視認! 潜航します!』
「あ。監視圏内に入ったんだね、間に合って良かった」
「出るぞ」
「はい」

 不意に耳へ届いた第三者の声にローと顔を見合わせ、鏡をそれぞれ元の位置へ戻して浴室を出る。靴下と靴を履き直す間に船全体が細かな震動に包まれ始めた。

 ローが扉に立てかけていた鬼哭の鞘を掴んで肩へ担ぐ横で俺もその隣にある木刀を取り上げ、腰のベルトの内側に挟み込みつつ廊下に出る。
 原材料が特殊なお蔭かこの木刀は何かに擦れる事を繰り返しても表面が削れないので、ベルトの変形を早めてしまうと分かっているが急ぎの時はついこの方法で携帯しがちだ。

 俺達以外のクルーは操舵室に集まって事の次第を見守っている影響で無人の通路を直進し、階段を昇ったところで、伝声菅越しの少し篭った音声が再び届けられた。

『前方に障害物なし。監視電伝虫も見当たりません、予定通り接近してから浮上します』

 電伝虫が居ない、との報に内心首を傾げる。

「あの戦争で"白ひげ"のコーティング船に湾内へ侵入されたのに、水中の監視強化してないんだね」
「移設しなけりゃシャボンディ諸島で定期的にシャボンに入った電伝虫を量産出来ただろうが、今の環境じゃ輸送に恐らく手間がかかって効率が悪い。魚人島から出てきた連中を取り零さず捕縛する為の位置に本部を建てた事で慢心してるんだろ」
「まあ、普通海賊の方から海軍本部に近寄りはしないもんね」
「それだけに反応が見ものだ」

 



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