振り返ってみればデビューの決定以降、毎日、毎週、毎月、とにかくレッスンか仕事に追われていた。
 俺自身がアイドルとして芸能界でデビューする事をかねてよりの悲願としていた訳ではなく、それなのに素人目にも厚遇と判る環境や舞台を事務所側に用意して貰えた。

 一般人がレッスンを積んでデビューした点はBEPOが世に出た当初から公表されてはいても、専門スクールに通う研修生や、大手プロダクション所属のアイドルグループのバックダンサーなどを兼任しつつ自らの技量を磨いているような十代の子達への罪悪感が強かったのも覚えている。
 結果としてデビュー曲のMVが話題になった後、その一曲だけで終わらずにアルバムの売り上げとツアーの成功に漕ぎ着けられたのは決して運が味方しただけではない自負は在るものの、タイミングにも恵まれた。こうしてゆっくり外食をしたい時は個室のある店を探すようになるなど、予想だにしていなかった。

「まァ、人の目気にする職業だしなァ。有名税なんて言い方されっけどよ、人気があるからって一般人よりズケズケとプライベート覗かれて良い訳じゃねーよな」
「そう言や、新居どうです? 落ち着いて暮らせてますか?」
「過ごしやすい。引っ越して正解だった」

 プライベートという単語が出たからか、ペンギンが明太子の入った出汁巻き玉子を箸で一切れ掴んだまま尋ねてくる。それにはローが即答した。

 つい先週、あの電話を機に俺とローは住まいを引っ越した。
 ツアーファイナル公演を終えた翌日からの二週間は何本か取材を受ける事が前以て決定していたが、それ以降はオフの日も多い。環境に慣れる為の時間が取れそうだという点でも今の内に動いた方が良いだろうと意見が纏まったのだ。

 不動産のサイトを見たり実際に近場の店舗へ足を運んで話を聞いたり、何件かの内見を経て、次の住まいは魚介類の漁獲量が豊富で安定しているウォーターセブンに決まった。シャボンディへの交通の便が良いのも決め手の一つである。
 最寄りの駅まで徒歩十分弱、車を南へ三十分走らせれば海へ出られる立地に建つ、分譲マンションの五階が現在の自宅だ。出入り口のセキュリティは暗証番号の入力と指紋認証の二段階ロックで、一階エントランスにはコンシェルジュと警備員が常駐している。

 家賃は以前の倍以上に跳ね上がったが、金で最低限の安全が買えるならと、金額の面はローと揉める事なくすんなり決まった。二十四時間有人管理で、共用施設として入居者のみ利用可能なジムなども併設されていて寧ろ安い位だとさえ思うし、今の稼ぎを維持するモチベーションにもなる。

「写真で見ただけだけど、あの庭? めっちゃ広くね? やっぱり周りに緑あんのって良いよなァ」
「そう。予想以上に何か……ホント良い。公道からエントランスまで距離があるんだけど歩くのが億劫じゃないって言うか……景色がガラッと変わるから、敷地に入るとちょっと肩の力抜ける」
「へー」
「確かに車道が真横を通ってるような環境だとエンジン音とか気になるもんな」

 三棟建ち並ぶマンションは、周りをぐるりと円形の庭に囲まれている。公園ではないので敷地内には入居者しか居ないし、不動産屋によると俺達に限らず何人か他にも芸能関係者やタレントが住んでいるそうで、やたらに話しかけられる事もない。
 陽が沈んでから帰ればエントランスまで伸びる道の左右に植えられた背の低い木々と植え込みが地面に設置された暖色の灯りに照らされ、其処を歩いていると自然と緊張が弛む気がする。

「3LDKでしたっけ。色々と物の管理楽になったんじゃないですか」
「俺とコイツで一部屋ずつ自分の寝室として使って、余った一部屋は仕事関連の物置にしてる」
「ギリギリまで2LDKと迷ったけど、思いきって部屋数多いとこにして良かったよね。ただリビングが広過ぎて未だに時々『広っ……』って思う。前の家の倍以上ある」
「言ってみてェ〜! リビング広過ぎて戸惑うとか死ぬまでに言ってみてェ〜! 遊びに行きてェ〜!」

 シャチが大仰に天を仰ぐ。酔いが幾らか回ってきたのだろう。

「暫くは無理だ。連休があるなら其処で片付け済ませて家具を増やしてェ」
「えェ〜、引越し祝い贈らせてくださいよォ! 礼はアルトの手料理でお願いしますゥ!」
「材料費くれたら作るよ」
「お給料貰ってらっしゃるでしょ今年の彼氏にしたい芸能人ランキング上半期の三位クンはァ! 今度牛肉お持ちしまァす!」
「持ち込みは助かる、冷蔵庫とトースター新しい奴に買い替えたくて食費抑え目にしてるんだよ。……ていうか、何そのランキング?」
 



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