2

 グラスの中身が残り少なくなってきて、硝子の表面に汗をかいたそれを傾けると角の取れた氷が唇に触れる。
 今日はジムでのトレーニングと夏に発売予定のシングル曲の候補デモを聴き比べるだけで一日が終わったが、明日はラジオ番組の打ち合わせがある。

 だからこうして寝酒ではなく濃いめに淹れたアイスティーへ蜂蜜を入れた物で水分を取っているし、早起きする必要はないにせよ夜更かしは良くない。
 それが分かっていてもぼうっとテレビを観ていると、俺の後に風呂を済ませて髪を乾かしたローがリビングへと戻ってきた。

「まだ起きてたのか」
「何かダラダラとテレビ観ちゃってた」

 冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえる一方、画面の中では夜のニュース番組が終わった。CMを挟む事なくそのまま次の番組が始まる。芸人やアナウンサーではなく、声優が司会進行を務めるバラエティーのようだ。

 こんな番組前からやってたっけ、と流し見していると、ローが隣に座った。重みで微かにソファーが鳴る。

「で、請けるか断るか決まったか」

 ローが言っているのは、女性向け雑誌の特集記事のオファーを請けるか蹴るかの話だ。出版社の広報からペンギンへ、雑誌の編集からはシャチに熱心な電話が来たらしい。
 創刊の周年号が故に注目株を取り揃えたいのだろうとペンギンは言っていて、BEPOがそうした視点でピックアップして貰えたのは有難い話ではある。

「先方の話だと、BEPOに限らず『各出演者が秘密のベールを今回特別に脱いでくれました』みたいなコンセプトの号だけど……本音に迫る、的な見出しの奴って大体デートするならどんなプランとか彼女に手料理リクエストするならコレとか、下着の……何か、好みとか。そういう感じのだよね」
「だろうな」
「……気ィ乗らない……」

 今回オファーをくれた雑誌は二十代以上の女性がメインターゲットで、表紙の見出しに度々性的な表現が使われる事で少し有名だ。
 世の中の他のアイドル達はファッション誌や女性誌でどういう風に自分達の姿を発信しているのだろうと、月額利用料を払うだけでかなりの数の雑誌が読める電子書籍アプリで様々なバックナンバーをざっと斜め読みした時に、この雑誌はかなり明け透けな内容で驚いた。

 女性読者が恋人や夫との体験談を投稿した内容がイラスト付きで紹介されているページも、これを付録目当てで若い子が買って何気なく読んだら結構ショックを受けるのではと勝手な心配が湧く程内容が具体的だったし、特集を組まれていた独身の俳優の記事は「もしも」の体を取りつつもインタビューの後半はかなり踏み込んだ話になっていた。
 読んだ感想は、此処まで言わなきゃ駄目なのか、である。

 尤もその俳優は昔からタレントやモデルと浮き名を流す色男であると既に周知されていて、語る内容が殊更下品な訳でもなかったし、話の中身が性に奔放なイメージにある意味沿っていたので計算だとすれば巧いなと感心したが。
 そうした特集が数回に一回は組まれるのでアイドル枠の出演はごく稀だし、載れば話題にはなるだろう。だが気乗りしない。

「なら却下で良いだろ」

 更に言うと、その手の事に関するローの好み云々を、あまり聞きたくない。

「……ごめん。歴浅いのにすげー仕事選ぶ奴等だなって雑誌側に思われるかも」
「ファンに未成年者も多いんだ、生々しい部分を見せねェのも手法の一つだとコラさんも言ってただろ。オファーが来る事自体は恵まれてるが、片っ端から全部応じてりゃ売れるなら世話ねェ」
「言ってた……」

 確かに前の家にコラソンを招いた時、それは言っていた。当時は貰ったその一言で随分安心したものだ。

 見せたいものと外部から求められるものがこうして食い違うと、何処まで突き詰めて何を妥協するかのバランスに毎回悩む。
 加えて自分ではない、相方と言うべきローの露出の程度まで気に掛かり始めてしまったのは決して良い傾向と言えないだろう。

 ただ、何となく。本当に何となく、最近落ち着かなくなる時がある。

 例えばツィッターで、名前の横に「ローさんの女」と書いてあるユーザーを見かけた時。熱心なファンである事、応援の気持ちの一途さを表す表現として誰々の女という言い方が一部で定着しているのは知っているし、ローの箇所が俺の名前になっている女性のアカウントがコメント欄などで目に入ったりもする。
 俺自身に関してはそこまでの熱意で応援してくれてるのかと単純に嬉しい、有難いと思えるのだが、名前がローに変わるだけで何とも言えない気持ちになる。

 ローがいつか、たった一人の誰かを選ぶ。十二分に有り得るその未来を考えると、泥でも飲み込んだかのように気持ちが重たくなる。

「…………」

 そうして、数日前に貰った言葉を、脳裏に汲み上げる。
 俺を直ぐに守れる立場の何が損をするのかと、最優先は俺と自分だと。そう言ってくれた記憶を、どうしてだかあれ以来思い出す事が多くて、なぞる度に少し安堵する。

『──街で聞いた、イイ声ランキング〜!』

 意識の焦点が目の前のテレビに戻る。画面の中では、街頭で一般人に美声だと思う男性芸能人は誰かを尋ね、番組司会である声優の名前が挙がるのかというインタビュー企画が始まっていた。

『ローさん! BEPOのローさん! 顔がイイのに声もめっちゃイイ、なんかもう全部がセクシー! ヤバい!』

 何人目かの回答者である会社員の女性が満面の笑みで話す言葉が、そのまま文字としてテロップで流れる。

『あの声毎日聞いて毎日顔見れるんだったら、めちゃくちゃ尽くします! そんなん幸せでしかないし!』

 とてもテレビの取材だからと張り切っているようには見えない程、頬を紅潮させて楽しそうに女性が語る。

 アイドルとしての姿しか知らない筈の立場の相手でこれなのだ。ローときちんと一対一で過ごして、芯のあたたかさを知れば本気で好きになる女性は一人二人ではないだろうなと、いつか何処かで頭に浮かべた気もする感想を抱く。

 また意識が己の内側に向いて、テレビを視界に捉えてはいるが映像が頭に入ってこない感覚に陥りかけ────

 ──パチン!

「ぅわッ!? な、何……っ!?」

 突然目の前で指を鳴らされて我に返った。鼻先に在る手と隣の顔を見比べる。

「完全に目が余所に飛んでたぞ。話しかけても反応もねェし」
「え、ごめん。ローに話しかけられた記憶がない……」

 思考に没頭してはいたが、それにしてもこの距離で声を聞き漏らすとは我ながら信じ難い。焦って直ぐに謝ると、長い指が額と前髪の間へ静かに入り込んできた。

「……どうした。調子悪いのか」

 少しだけ背を屈めて、ローが覗き込んでくる。

 たったそれだけの仕種と、いつもよりゆっくりと紡ぎ出される声の抑揚で、心配してくれているのだろう事が充分伝わる。

 ────ああ、俺、幸せ者だな。

 心配をかけておきながら、急にそう実感が湧いて──次に吸った空気が喉に突き刺さって、何も言えなくなった。

 今しがたテレビで名前も知らない女性が言った言葉が頭蓋の中で妙に反響している。

 仮に、一人でこのマンションに住んでいたら。或いは今もレイリー達と暮らしていたら。それもまた違った楽しさや充実感はあったかもしれないが、今現在の感覚は得られていない。心というものが球体の器だとしたら、その中身が隙間なくあたたかいもので満たされているような、時折そのあたたかさに自然と息をつくような。

 贅沢な毎日だ。そして俺は贅沢と解っていながら、失いたくないのだ。

 肌にそうっと触れている指も、其処から伝う体温も、澄んだ灰色の瞳も、耳に馴染んだ低くて深い声も。
 起床しリビングに来てから暫くは座って瞬きだけをしている所も。
 ソファーは決まって右側に座る所も、熱めの湯舟が苦手な所も、家での食事時にはほぼ毎回冷えた緑茶を飲む所も。

 全部、いつか他の誰かのものに、なって欲しくない。

「…………ぁ……」

 声にすらなりきれない、か細い音が唇の端からぽろ、と落ちる。

 ローでなければ嫌だ。そう気付いてしまった途端に更に息が苦しくなった。

「……アルト?」

 俺を呼ぶ声に怪訝の響きが混ざる。

 自分がいかに幸福かなど気付きたくなかった。否、ローの隣を誰かに譲ってから初めて思い知るよりは良かったのだろうか。

 それでも、この人が居なければきっと俺は身体の芯まで、心の一番深いところまで幸せになれないだなんて。
 この人に愛されるのはさぞ至福だろうと、未来でローと手を取り合う誰かを羨んでいたなんて。
 そんな自分の姿を今更理解しても、しょうがないのに。

 いつの間にかこの人を誰より想っていたと知っても、仕方ないのに。

 まるで当たり前のように伸ばしてくれている掌の温度を覚えていたくて、忘れたくない記憶が増える位なら振り払いたい。その手に縋る勇気など出やしない。明日も明後日もその先もローが傍に居てくれる未来など、ロー本人でさえ保証し得ないのだ。

 けれども胸の底から、勝手に溢れてくるものがある。
 もしも。もしもローが、俺の横で「幸せだ」と笑ってくれたら。誰かではなくて俺が、ローを幸せに出来たらだとか。
 



( prev / next )

back

- ナノ -