「……ちょっと、さっきから何か酷くないですかァ!? わたし仕事相手だし、ファンですよ!? なのにその対応って……!」
「此処は仕事現場じゃねェ。そして人のプライベートの時間にずかずかと踏み込んできてテメェの浮ついた私欲を押し付けるような、尊重のその字も見当たらない振る舞いを平気でする奴を、ファンとして扱う気は微塵も起きねェ」

 己の立場が盾にも矛にもなるという傲慢な思考が透けて見える女の態度に、消化したと思った苛立ちが嵩を増して腹の中で膨れる。

 投げつけた言葉に女はさっ、と顔を赤らめた。恥を知ったと言うよりは、カウンターと客用の席は多少離れているものの第三者も居る公共の場で真っ向から非難された怒りや屈辱故だろう。最早取り繕いもせず俺を睨みつけている。

 女の目がちらりとアルトの方を見る。後ろから聞こえるやり取りはまだ会計の途中で、何やら店の公式アプリのインストールを勧められているようだ。
 アルトが此方の会話に集中して耳を傾けていないと分かった女が声のトーンを上げた。

「……そんな、そんな言い方酷い! わたしはただ、アルトさんと一緒にお食事出来たらって……!」

 更にはこれ見よがしに両手で顔を覆う。呆れてものも言えず溜め息を吐くと、呼吸した拍子に趣味の悪い香水の匂いを吸い込む羽目になった。

「どうしたの?」
「さァな」

 番号札を受け取ったアルトが戸惑いがちに声をかけてくる。

「あっ、アルトさァん……!」

 今が泣き落としの成功可否に繋がると意気込んだのか、女が懲りもせずアルトへ距離を詰めてきた。片腕を肩の高さまで上げて遮ると、またもや腹立たしげな視線を注がれる。

「え、ロー? 何かあったの?」
「アルトさん、この人すっごく冷たいですよ〜! わたし、ただお食事誘ってただけですよねェ? もうっ、こんな人と組んでたらアルトさん勿体ないですよ!」

 どうやら媚びを売る作戦に変更したらしい。そろそろペンギン達が来る頃合いかと自動ドアを肩越しに見るも、ふと手首に体温が添えられ、そっと下方へ力を込められる。従って腕を下ろすとアルトが一歩前に出た。

「ファンになってくれた事は、とても有難いです。ライブに一般で来てくれたのが本当ならそれも。……だけど、俺の大切な人を貶すような方と、食事の席を共にしたいとは思えません。もしこの人の言い方がキツく感じたのなら、それは俺からも謝りますが……」

 今度こそきっぱりと断られた女が、自分でこの事態を招いた事を全く理解していなさそうに呆ける。

「それはあくまで言い方に対してです。ローは厳しい所もありますが、他人を傷付ける為に口を開くような人じゃない。……冷たく感じたとしたら、それは誤解です」

 アルトが人に、それも女相手にこうも声を低くする事は珍しい。
 そういえばアルトの怒りが滲んだ声など、再会して以降初めて耳にした。"相変わらず"自分より他人の事で感情を揺らす奴だ。

 その傍ら、最初に女から話しかけられた時点ではどうにか穏便に断ろうと思案していたであろうアルトが俺を少し悪く言われただけで語気を硬くさせたのは────褒められたものかはさておき、小さくない優越感が湧いた。

「二十三番でお待ちのお客様、お待たせ致しましたー」

 呼び出しにアルトが応じてカウンターへ戻る。丁度やり取りが途切れた折、店のドアが外から開かれた。

「あれ? シャチ」
「よっ、お疲れさん。髪イイ感じじゃんか」
「ホント? サボさんが丁寧にやってくれたんだよ」
「……っと、居た居た。悪ィ、局に戻れっか? 編集長が急ぎで相談したい事あるってよ。対面で意見が聞きてェって。近くでメシ食うっつってたって聞いて探してたんだ」
「え……あ、はい」

 見知った顔の合流に目を丸くするアルトと短い会話を交わしたシャチが、女に焦点を移してそう告げる。

 急に呼び戻されたにも拘わらず、女は食事を切り上げる事を躊躇う素振りもなく席に向かうと金色のチェーンがついた肩掛けバッグを手に戻ってきた。
 改めて女の居たテーブルを見ると、中身が少し残っているドリンクのグラスと、空になった木製のサラダボウルのみが在る。

「いやー、見つかって良かった。そんじゃあ二人共、帰り気ィ付けて」
「シャチもお疲れ様」

 被っているキャップのつばを軽く上げるシャチに、片手を挙げて応える。
 同時にポケットの中で振動を感じてスマートフォンを取り出すと、ロック画面にペンギンからのメッセージが表示されていた。

『足止めありがとうございました』

 意図しての事ではなかったが、二人が到着するまで女が店内に居たのは行方を更に追う手間が省けたようだ。
 店の前に停められた白の軽自動車へシャチと女が乗り込む。

 発進するまで見届けてから店を出て、隣の有料駐車場前に移動しつつ、ブラウザサービス経由でタクシーを呼ぶ。到着予定は七分後だと液晶に映し出された。

「……正直、ローが入ってきてくれた時ほっとしちゃった」

 車もあまり通らず風のない夜は、肩口の高さで零される声が拾いやすい。

「気付くのが遅れて悪かった」
「ローが謝る事じゃないよ。俺がもう少し強めに跳ね除けられてれば良かったんだろうけど、アカシアホールのライブに行ったとか去年の『ビンクス』八月号持ってるとか言われて……あからさまに困りますとか嫌ですとも言いにくくなって。『ビンクス』八月号の名前が出てくるなら、興味持ってくれてたのは本当なんだろうし」

 確かに、初めてBEPOが表紙を飾った雑誌の名を出すのは、活動の軌跡をつぶさに追っていると主張する材料にはなる。だからと言ってあの馴れ馴れしさを看過出来る訳ではないが。

「お前のその、ファンとの間にあるべき線は越えねェが、芸能人だからとあからさまに壁を作りもしねェ姿勢がファンには好かれてるんだろ。最初にハッキリ拒絶してたらもっと騒がれてたかもしれねェぞ」
「けど、……多分あの人、俺とサボさんの話聞いてたんじゃないかって思うんだよ。撮影終わったらこの店寄るの、現場で話したのサボさんだけなんだ。丁度ローがケータリング取りに行った頃。で、あの人が部屋覗いてたって言ってただろ? 局から近い店ではあるけど、こんな風にバッタリ会うか? って……。まあ、想像の話だけど」
「……案外当たりかもな」

 俺が近付くまで黙って控え室を覗き見ていた女の横顔が思い出される。
 そこまでしてアルトの予定が知りたいかと呆れる上、尚更初めから一緒に入店してやれば良かったと些か悔やまれる。

「そういえばさっき、あの人急に泣き真似し始めたよね。何話したの」
「お前をファンだとは思わねェと言っただけだ」
「ストレート! いや……、うん……」
「あの女はファンの立場を履き違えてる。確かにファンが居なけりゃ成り立たねェ仕事だが、互いの立場に上下の概念なんざ存在しない筈だ。こんなに応援してやってるんだから、っつう顔を見ると腹が立つ」

 言葉を重ねてゆく内、苛立ちの輪郭が掴めてくる。
 あの女の、アルトへどうにか近付こう、印象を残そうとする言動が健気ではなく無思慮だとしか俺の目には映らなかった事に加え、何処かで「ファンだ」とさえ先に言ってしまえば邪険にはされないし要求も通りやすいと侮られているように感じたのだろう。事実、あの女の言動に謙虚さなどありはしなかった。

「確かにグイグイ来る人だったけど……俺が煮え切らない態度取った所為で、ローがあんな風に言われちゃった。……嫌な思いしただろ。ごめん」

 それまで俺の方を見ていたアルトが顔を俯けた事で、声が少し遠くなる。

 はあ、と息を吐くと、アルトの持つ紙箱が入ったビニール袋がガサリと音を立てた。

「それこそお前が謝る事じゃねェだろ。テメェが何か言われる位ならと、お前の顔が曇るのを見ないフリするような意気地のねェ男だと思われてんのか、俺は」
「え!? や、そういう事じゃないよ!? 最初から俺が毅然としてられたらなって」
「今は何でもかんでもSNSに書かれて拡散される。俺達は売れたとは言わせて貰って良いんだろうが、まだ大した力は伴っちゃいねェ。嘘だの誇張だのをバラ撒かれても、事務所や関係者の中では疑いより信頼の声の方が確実に多く集まるだろうと言える位になるまでは、無難な断り文句の種類を増やすだけにしておけ。しつこいのは俺が相手をする」
「だから、それがローだけ損をするんじゃないかって所が心配なんだけど」

 眉尻を幾らか下げた、己の発言通りの面持ちで俺を見るアルトに再び溜め息を漏らしそうになって留まる。
 自分は俺が暴言にも満たない程度の非難を少し言われた程度で怒った癖、逆の立場なら同じ事が起こり得るとは想像していないのだろうか。

「お前を真っ先に守ってやれる立場の、何が損なんだ」

 何か言い募るつもりだったのか、唇を開いたままでアルトが固まった。

「お前に無理をさせてまで、このユニットを存続させたいとは思ってねェよ。価値の重みが逆だ。アーティスト活動にはやり甲斐を感じちゃ居るしワンマンライブっつう目標もあるし、居場所の一つとしてBEPOを守るつもりもある。だが最優先は、お前と、俺だ」

 お前が、笑っていられるなら。
 舌の付け根に乗ったその言葉は、飲み込んだ。咄嗟の事で、何故かと自分に問うてもよく分からないが、漠然と言わない方が良い気がした。

 スタジオで思わずアルトの背を抱こうとした時と似た、意識が一瞬ざらついて、ぶれるような感覚。

「…………あり、がとう」

 恐らくは、衝動と呼ばれるそれが、胸の辺りで胎動している。

 昔の女の事を語った時の、瞳の影から憂いが薄れる様子も。
 店内で俺の存在に気付いて瞬く間に惑いが剥がれ落ちたあの表情の変化も、ごく僅かに音域の上がった声音も。
 嬉しい時は素直に笑うが、羞恥や照れに見舞われると、こうして声が小さくなって視線があちこち彷徨うか、誤魔化そうと反対に声が大きくなる所も。
 今のように、頬よりも先に耳が紅く染まる所も。

「ローに甘えてばっかりだね、俺」

 困ったような弱ったような、しかし確かに嬉しそうな気の抜けた笑顔も。

 今俺が見知っているアルトの姿をいずれ他人も知り、やがて誰か一人のものになるかもしれない。その可能性を、爪を立てて破りたくなる衝動。

 表情をころころと変えるのは構わない。よく笑う奴の方が人には好かれるだろう。
 ただ、そんな顔を俺以外の奴の前でしてくれるなと──願いと呼ぶには不純で、祈りにしては煤けた欲にいきなり肺を灼かれて、喉が詰まった。

「……テレビでもMCでも、お前に多く喋らせてるだろ。こっちもお前にフォローを任せてる場面はある」
「それは別に気にしなくて良いよ。俺ばかりが、なんて思った事ないし」
「同じ台詞をそのまま返す。……来たな」

 一台のタクシーが徐行で近付いてくる。

「安心したらお腹空いてきた」

 当たり前のように二人分の食事を持って、アルトが笑う。

 ずっとそういう顔をしていれば良いと思う。だが、俺が見ている景色を他人の目に映させたくはない。

 この感情をもしも愛だと呼ぶなら、なるほど、扱いにくい。
 見守るだけでは済まず、寄り添うのみでは足りない。アルトを雑音から守ってやりたいのは本心でも、その役を担う人間が増えた方が良いとは思わない。

 胸の奥で生まれた、庇護の皮を被った独占欲が、腹の底へと落ちて馴染んだ。
 



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