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 夢を見る。

 海と、船と、青年の夢だ。
 温度も匂いもなく、いつも声だけが響く。

 およそ二年前から見るようになったこの夢は、場面が頻繁に変わる。
 鉄パイプや配管が壁面を走る潜水艦の扉を開けると緑豊かな丘に出たり、蔵書が目一杯に詰め込まれた本棚で賑わう何処かノスタルジックな部屋に居た筈が、瞬きした直後に船の甲板の手すりから海を眺めていたりする。

 これまでに見たテレビCMや映画の映像記憶が混ざったにしては、あまりにも全てが鮮やかで、触れてもいないのに質感が解るかのようで、目が覚める度に首を捻る。果たして人は想像力のみで、夢の中にファンタジー寄りの景色を創り出せるものなのだろうか。
 何より、毎回必ず夢で逢う青年達に一切の見覚えがない事が、最も不思議で不可解な点だった。

 ────あと二駅か。

 転た寝していた所為で少し重い瞼を意識して開閉させ、自分を運ぶ電車の扉上に取り付けられた電光掲示板で現在地を確認する。
 目的の駅で降り損ねないよう、そして降りてからの足取りが迷わないようジーンズの後ろポケットからスマートフォンを取り出し、向かうべき改札口を確認する為に画面を点灯させつつも、パスコードを入力する前に思考は再び夢の名残を追う。

 今日の夢も色鮮やかだった。
 天辺に可愛らしいペンギンのマスコットをくっつけた帽子を被る黒髪の青年と、シャチを模した帽子を妙に違和感なく着けこなす、茶髪でサングラスをかけた青年。
 それから同性ながら驚く程顔の整った、黒髪で両耳に二つずつゴールドのフープピアスを着けた、目元に隈のある青年。

 彼等と共に、明らかに異国の、けれども俺が現実で訪れた事はない煉瓦造りの家々が建ち並ぶ何処かの町のレストランで食事をする夢だった。カレー粉をまぶして焼いた鶏料理を食べた気がする。
 俺という人間を第三者の視点から眺める事はなく、口を開けば自分の喉からは聞き慣れた己の声が出る。見知らぬ相手と淀みなく親しげに話すので、目覚めた後の違和感が殊更に強い。

 彼等に逢った事はない。それは断言出来る。
 特にピアスの青年に関しては親戚にも、以前の家の近くにも、学校の先輩後輩にも、アルバイト先にも居なかった。一線級のモデルかの如き顔とスタイルの良さなのでまともに関わっていたら印象に残っていそうだし、街中ですれ違った程度なら、こんなにも夢に出てくる程に脳裏へ容姿が焼き付きはしないだろう。

 もう一つ不思議な事がある。夢の中で俺の口は何度か彼等の名前らしきものを紡ぎ出すのに、毎回その瞬間に限っては声が伴わない。

 声は出している。しかし全く聴こえないのだ。
 自分がどんな発音をしていたか思い出そうにも、起きて数分もすると夢の記憶は映像ばかりが残って、他は朧げになる。
 それ故に青年達の声も現実での反芻は難しく、しかし夢の中でなら途端に耳に馴染むという、オカルトともファンタジーとも言えない体験を繰り返している。流石に内容が奇天烈過ぎてレイリーにも相談していない。俺にとっては、別に悪夢とまで称したいものでもないのだ。

『二十番グローブ、二十番グローブ──』

 機械音声のアナウンスが流れる。
 レイリー達と住んでいるシャボンディ州は、とにかく広い。
 元は自然豊かであった広大な土地を少しずつ切り拓いて人が住まう為の土台を増やす過程で、新たな区域を開発する度に管理の為に番号を割り振った結果、この州だけは駅名の前に必ずその区画番号が付けられるようになった。
 今では七十九の市と街が寄り集まっているので、実際この番号を頼りに移動しないと目的地に辿り着くのも一苦労だ。

「…………あった……」

 駅の南口から直結している歩道橋を渡って、大通りに沿って七分ほど直進すると、左手に一棟のビルが現れた。マップ案内アプリが示した道順に従って歩いてきたので目的の建物が在るのは当たり前なのだが、ついそう呟く。

 正面玄関に警備員の姿はない。自動ドアの横にあるビルの各階の案内表示の、三階から七階までの欄が全て「POH」と書かれているのを確認してからドアをくぐり、コンビニやATMの無人案内機がある様子を横目にエレベーターへ乗り込む。
 三階のボタンを押して行き着いたフロアはエレベーターの正面に受付カウンターがあり、歩み寄ると女性の受付員がにこやかに一礼した。

「こんにちは、スタジオ見学のご希望ですか?」
「こんにちは。本日の午後三時からシャクヤクさんとお話をさせて頂く予定の、アルトと申します。到着したら受付で名前を伝えるようにとお聞きしているのですが」
「アルト様ですね、……はい、確認致しました。お先に、来客証のお渡しになります。首から下げて頂き、お出かけやお帰りの際には此方の返却ボックスへお戻しください」
「分かりました」

 手元のパソコンを操作した受付員から、青いネックストラップ付きの「来客」と書かれたカードが渡される。

「此方の通路を直進して、突き当たりを左に曲がって頂きますと、『第一スタジオ』のプレートが付いた扉がございます。そちらを通り過ぎて、二つ目の扉がアルト様の控え室となりますので、お時間までそちらでお待ちください。お手洗いはそちらです」
「ありがとうございます」

 背後を示されて振り返り、エレベーター横の壁にトイレの案内マークが描かれているのを確認すると会釈をして歩き出す。
 直ぐに温もりのある木造の扉の前へ着いたが、ドアノブに指を置いたところで自然と溜め息が出た。

 レイリーの知人が重役に就いている事務所なら彼の面子もあるだろうと顔合わせを引き受けたは良いが、初めから九割方断るつもりでいる話をする為にその重役の時間を取らせるのも悪いな、と今更思う。
 おまけに電車の中で気付いたのだが、ユニットを組む候補として同じく今日呼ばれた相手が、これでデビューに近付くかもしれない等と期待していた場合は更に申し訳ない。

 先ずは稀な機会を作って貰った事への感謝を述べて、あとはレイリー直伝の持ち帰って検討しますという台詞で逃げ帰らせて貰おう、と緩慢にノブを回す。

 澄んだ灰色の瞳と、目が合った。

「────……えっ?」

 ぽろ、と舌の上から一声だけが零れ落ちる。

 室内のテーブル傍のパイプ椅子には、随分と整った容姿の青年が座っていた。
 四方八方に毛先が跳ねる短めの黒髪と、耳を飾る金のフープピアスと、全てのパーツが左右対称についている顔。世辞にも良いとは言えない目付きだが、今はその双眸が見開かれて虹彩の丸い輪郭がはっきり分かる。

 知っている。この人を知っている。
 違う、覚えている。

 頭の深い深い奥底に、しゃぼん玉に包まれた記憶が在って、目が合った瞬間にその膜が「ぱちん」と割られたかのように。これまで夢だと思っていた映像達と懐古の情があっという間に頭蓋の中と胸腔へ流れ込んできて、一気に視界がぼやけた。

「……………………、ロー?」

 何度も夢の中で呼びかけて、けれども終ぞ音に成らなかったものが、難無く自分の口から紡がれる。
 瞬きをする度にほろほろと涙が落ちてゆく。

 願うように縋るように、ただひとつの名前を選んで声に出した俺に青年は立ち上がって歩み寄ると、自らのニットの袖口で俺の頬を拭ってきた。肌が少しひんやりとする。

「……お前、そんなに涙脆かったか? ……前が変に我慢強かっただけかもしれねェが。お前が泣いた所は数える程しか見た覚えがねェ」

 何度も夢で聞いた低音が、何処となく穏やかな響きで以て直接耳朶を打つ。

 ああ、ローだ。

 初対面の筈なのに、互いに名乗ってもいないのに、心からそう思って安堵している自分が居る。
 そうしてこの人がローだと思う程に何故だか涙が止まらなくなって、ぱた、とささやかな音を立てて雫がローの袖へ吸い込まれる。

「アルト、一旦中に入れ」

 告げていない名前を当たり前のように呼ばれて、喉の辺りがきゅう、と締まる。
 促されて室内に入ると、背後で扉の閉まる音がした。

 自分の眼で見上げるローの顔の角度が夢と瓜二つだ。今やあれは夢ではなかったのだろうなと漠然と理解してはいるのだが、感動が落ち着いてくると、今度は我が身に起きている事態に今更首を傾げたくなってくる。

「…………本当にローだ……」
「……お前な、何つう顔を……あァ、いや、良い。気持ちが解らねェとまで言う程薄情に育ったつもりはねェ」
「俺だって何でこんな涙出てくるのか分からないんだよ。ただ、逢えたって……思って」
「ああ。待て、擦るな。もしかしなくとも俺と同じ用向きで来たんだろ。腫れた目じゃ不審がられるぞ」
「えっ、……あ、そうだ、でも、え!? ……言っちゃなんだけどガラじゃないよね!?」

 新規でプロデュースされるユニットの加入を検討する為の説明会、のようなものに参加するべく訪れた俺が案内された部屋にローが居たという事実に、遅ればせながらまさかの相方候補がローであると気付いて涙が引っ込んだ。

「話を断ると、こっちを紹介した側の面子に関わりそうだったんでな」
「ああ……俺も似たような感じ」

 どう見てもローは年下ではないのだが、飾らない口調でするすると喋ってしまう。旧知の間柄の人物と久々に再会したかのような感覚が強い。
 ローの、表情の表立った変化こそ乏しくとも声色が落ち着いていて存外柔い事や、発言の中に命令する物言いが自然に含まれる所を、「そういえばこうだったな」と懐かしむ心地にすらなる。

 一方で、俺は今日までローがどう育って生きてきたか知らないのに、それでもアイドルという職業を選択する人ではないだろうと不思議と確信する。ロー本人も否定しない。
 もう少し話の擦り合わせがしたいな、と思ったところで、背後の扉が軽くノックされた。室内の壁掛け時計は十四時四十七分を指している。

「……今少し取り込んでる。急ぎでなけりゃ五分後ぐらいに──」

 同様に自らの腕時計を見下ろしたローがドアに向かってそう話しかけるも、言葉半ばで背中を抱き寄せられた。瞠目して思わずトートバッグがローに当たらないよう肘で背中側へ押し遣ったと同時、後ろでドアが勢い良く開かれる。
 何事かと振り向いた先で、まるで何年も探し続けた失せ物を見付けたと言わんばかりの、驚愕と歓喜を詰め込んだ瞳とかち合った。

「…………声が、まさかと思って、……ああ、本当に……」

 キャップを被った青年が、言葉にならない、といった様子で口元を片手で覆って俯く。その横で、ドアを開けた姿勢で固まっている茶髪を外向きに跳ねさせた青年がサングラスをずらし、視線の動きからして俺だけでなくローの顔もまじまじと見つめる。
 かと思うとその両目が潤み、大きく腕を広げて抱きついてきた。

「キャプテェエン! アルトォ! 覚えてますかオレですよォ!」
「声がデケェ」
「下手したら再会の場面が事故現場になってたよ。俺の」
「期待した反応と違ェ! でもこんな感じだった気もする!」

 ローと青年──シャチに挟まれて意外と苦しいが、流石に離れてくれなどと言えない。ローもされるがままだ。

「うわ、ロー腹筋硬っ。何かやってる?」
「エスクリマ」
「何て?」

 俺の肩近くで「うぅ〜……」と涙声で呻いているシャチの気持ちはよく分かるし何なら貰い泣きしそうなので、肘に触れるローの腹部の予想外の硬さに話を逸らす。
 聞き慣れない単語を返されて首を傾げるも、暫く顔を真下に向けていたもう一人の青年、ペンギンが赤い目で姿勢を戻した事で視線がそちらに引かれた。

「……お久しぶりです、ロー船長」
「ああ」

 噛み締めるようにローの名を呼んだペンギンに、頭の天辺を撫でられる。

「アルトも久しぶりだな。どうした、先に船長に泣かされたのか」
「泣かされちゃった。久しぶり、ペンギンさん」
「誤解を招く言い方をするんじゃねェ」

 正直何が起きているのかさっぱりではあるものの、四人全員がまた逢えた事だけは分かっているのだと感じられる空気のおかげで、不気味さや不安は無い。
 ただし気になる事はある。

「あのさ。何でローが船長? なの?」
「ん? ……いや、アルトお前、オレ等の事分かるんだよな? 分かるっつーか覚えてるっつーか」
「シャチと、ペンギンさんと、ロー」
「キャプテンの名前は?」

 前からだけでなく、頭の上からもローの視線が降ってきているのを何となく感じる。

「トラファルガー・ロー……」
「フルネームちゃんと分かってんのか。じゃあ、あー、でもな、代表もう来るよな」
「お二人さん、今夜空いてるなら一緒に飯でも。出逢えた事は勿論嬉しいんだが、ちょっと現実離れしてるからな……出来ればきちんと話がしたい。もし二人には何も覚えがなかったら、ウチの会社から同性への猥褻行為で逮捕者が出るところだった」
「感動の再会がどんでん返し過ぎねェ!?」
「俺は構わねェが」
「俺も家に連絡すれば、多分大丈夫」
「なら、部屋の外で待ってますんで、代表との話が終わったら一先ず連絡先だけでも交換しましょう。とりあえず今は適当に座っててください」
「これ! 今日の打ち合わせの資料! オレ等此処の社員で、これ渡しに来たんですよ。冊子の方は社外秘なんで持ち帰りご遠慮くださーい」

 慌ただしく俺とローへホチキス止めの冊子やコピー用紙を渡したシャチが形ばかりの注意を述べ、ペンギンが一礼して廊下に出てゆく。

 残された俺は、些か気まずいながらに隣を見上げた。
 



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