尋ねると、アルトは何を言われたか分からなさそうな顔をした。
 次にその目がうろうろと泳ぐが、二の句も乗車も急かさず足を止めて待つ。

「…………甘い香りの芳香剤とかが、使われてなければ……」
「煙草は」
「煙草? あー……分かんないや、気にした事なかった。周りに吸ってる人居ないんだ」
「一緒に住んでる人が運転手だが、喫煙者だ。本人も車の中じゃ基本吸わねェようにはしてるが、俺もある程度鼻が慣れてる。匂いが全くしねェとは言いきれねェぞ」
「それだけ気を付けてくれてるならきっと大丈夫だよ。でも、何で俺が結構匂いの好き嫌いあるの分かったの?」

 何を今更、と言いかけて止まる。思い返せばアルト本人が今日の中で香りの好みについて話した事などなかった。ただ何となく、自然に尋ねていた。

「分かったと言うよりは、知ってた。ペンギンが言っていたのはこういう事だろうな」
「……なるほど」

 先にドアを開けて車へ半身を入れる。ミラー越しにサングラスをかけたコラソンが片手を挙げた。

「お疲れ、ロー。その子は?」

 一拍、何と答えたものか迷って言葉に詰まる。

「……今しがたまで一緒に飲んでた内の一人だ。コイツの家がシャボンディ三十番台に在る、近くまで行ってくれねェか」
「おう、良いぞ! ローが誰か車に乗せたがるなんて珍しいなァ」

 奥に詰めて座り直し、人差し指を揺らしてアルトを呼ぶ。

「急にすみません、助かります」
「いやいや、気にすんな。三十番グローブなら良けりゃ家まで送ってくぞ? こっちの家はスート地区だから、そう遠くもねェしな」
「いえ、そこまでして頂くのは悪いですよ。そちらの帰りが遅くなりますから」
「運ぶから住所を言え」
「俺は積み荷なの!? えっと、三十番グローブ五丁目の……」

 アルトが告げる住所をコラソンがカーナビゲーション端末に入力している間に、手の中でスマートフォンが数回震える。
 連絡の差出人はペンギンで、メッセージアプリ内に四人のグループアカウントを作成した事とその招待コード、「もしユニット名の希望があれば、代表そっち優先してくれると思いますよ」という内容が送られてきていた。

「コラさん」
「何だ?」
「今日の話だが、請ける気でいる。組む相手がコイツだ」
「えっ!?」
「……、えっ!? ロシナンテさん!?」

 勢い良く此方を振り向いたコラソンが、俺が何か言う前に片手でサングラスの弦をつまんで額側にずらす。露になった容貌に隣のアルトが声を上擦らせた。
 本名を呼ばれたコラソンは目を丸くしているアルトの反応に小首を傾げる。

「ロー、おれの事言ってなかったのか?」
「後日で良いかと思ってた。アンタが外でサングラス外すと思ってなかったのもあるが」
「う……すまん、つい」
「いや、いい」
「最後にサワー飲まなきゃ良かった……運転代わる事も出来ない……!」
「お前は黙って運ばれろ。コラさん、取り敢えず車出してくれ」
「だから何で荷物扱いなの!?」

 少々予定が狂った。コラソンはその金髪と長身で正体を看破される事も多く、家の外ではサングラスを滅多に外さない。アルトが乗車時点でコラソンに気が付いた様子がなかった為、どうせならアルトが横に居る内に紹介も兼ねてと口火を切ったが早まった。

「まァでも、身内に芸能人居るって分かってる状態だと話に影響したかもしれねェか……。ローの保護者やってるドンキホーテ・ロシナンテだ、よろしくな。コラさんで良いぞ」
「初めまして、シルバーズ・アルトと申します。『ラストブレット』観てました、失声症のフリをする演技が本物の患者のようで凄く印象に残ってて……」
「観てくれたのか! 嬉しいな。あのドラマはやり甲斐あったし今でも大事な作品なんだ。アルトって呼んで構わねェか?」
「勿論です」

 アルトの横顔は幾らか緊張した様子ではあるものの、コラソンの出世作にもなった過去の連続ドラマの感想が直ぐに出てくる辺りは素直に感心する。そういえば人を嫌味なく褒めるのが巧い奴だった、と再び頭の中に何処からともなく実感が湧いた。

「おれとしてはローが色々な経験と体験を積んでくれる事自体は勿論嬉しいが、別に即日で答え出さなくたって良いんだぞ? デビューするにも、活動を休んだり辞めるにもタイミングを見極めねェとならねェ仕事だし……」
「本格的にデビューするって訳じゃねェんだ、先ず研修期間みてェなモンが設けられる。帰ったらきちんと話すよ。それに、もしアルトがどうしても途中で無理だと言ったらリタイアも視野に入れる」
「えっ……」

 アルトが小さい声を出して心細そうに眉を下げる。自分の肩へいきなり二人分の責任を乗せられたかのように受け取ったらしい。

「さっきも言っただろ、俺はお前に無理をさせてまで芸能界に入りてェ欲は持ってねェ。契約段階でこっちのスタンスや振る舞いについてはもう少し細かく詰めて確認するつもりではいるが、いざやってみりゃ俺の方がこれっきりで良いと思う可能性は充分ある」
「……うん」
「芸能界は自分の役目や活動に対して、後ろ向きな気持ちがあったら仕事が続かねェ場所なんだろうとコラさんを見てて思う。だからこそ、下手に俺に気を遣うなよ」

 言い終えて、やや経ってから、アルトがゆっくり頷いた。

「……何かとローに甘えちゃいそうだなあ……」
「コラさんにも甘えてくれて良いんだぞ、二人共。特にローは最近すっかり大人っつうか、しっかりして……それはホントに良い事だしおれも長期の地方ロケとかが始まっちまうと中々家に帰れねェ場合もあるが、同じ業界に居る事になるなら力になりてェからな」
「じゃあコラさん、ユニット名決めてくれ」
「大役が過ぎねェか!?」
「ユニットの名前?」
「特に用意はされてねェらしい」

 俺の発言を反芻するアルトに、ペンギンからのメッセージを見せる。
 アルトは浅く眉を寄せて口元に手を遣り、数秒画面を眺めてから俺を見た。

「……事務所から名前の候補を提示して貰ったとして、それで良いって即決出来るは分からないんだけど……自分達で決めて良いよって言われるのも困っちゃうね。既存のグループと被らないようにしなきゃいけないし、もし今日聞いた企画だけで終わったとしても、名前は残る訳だし」

 些かトーンの落ちた声で紡がれる言葉には頷きを返す。
 適当に決めてしまえば一時的にでもその名を身に付けるにあたって愛着が持てないだろうし、その点を気にするなら事務所に名を与えられた方が楽なのかもしれないが、音楽に携わるグループの名前は本当に多種多様だ。特に<アイドル>のジャンルは自分が名乗るとするならば避けたい系統の名称もあるにはある。

「名前かー……。何か、ダ行とかパ行とか、濁点がついた音が入ってると売れやすいみたいに聞いた事があるな」
「そうなんですか?」
「いや、きっとジンクス的な話なんだけどな。売れてるグループはその傾向が多いって、ネットかテレビで見た覚えがあるだけの話だ。そういう要素がなくたって売れてる人達も沢山居る」

 赤信号で停まる合間、ミラー越しにコラソンと目が合う。先程サングラスを上げたきりかけ直すのをすっかり忘れているようだが、前方を横断する通行人が気付いたとしてもせいぜい手を振る対応しか出来ないだろうと指摘はせずにおく。

「テレビで歌手の人が答えてる名前の由来って、メンバーの頭文字繋げたり、未来像とか理想像から命名してるイメージあるけど……」
「音楽活動を通して将来を描いていきてェかどうかが先ず定まってねェのに、その辺からどうにか捻り出してもすっきりしねェだろうな」
「だよね」

 こんな話になると思っていなかったので、俺もアルトも名前の案など元から持たない。
 暫く後ろへ流れてゆく夜景を眺めるだけの時間が過ぎる。

「なァ、ロー。前に俺がブランドとコラボしてリップケース出すってなった時、一緒に何個か商品名考えてくれただろ」
「? ……ああ」

 唐突に前方から振られた話には一先ず相槌を打つ。

 アルトが名前を挙げたドラマ『ラストブレット』で主演を務めたコラソンの役柄は、自らを失声症だと偽り、本来の容姿を曖昧にする為口紅を口角の外にまで伸ばす事で黙っていれば常に笑っているかのような化粧を施した変わり者として、犯罪組織に極秘潜入する警察官だった。
 人気が出るにつれコラソンの使う口紅に関する問い合わせが増え、実際に使用していたブランドからコラボデザインの専用ケースを発売する事になり、コラソンが商品名に頭を悩ませていたのは覚えている。

「最終的に別の奴にはしたが、あの時ローが考えた『BEPO』にするかも最後まで悩んだんだ。短くて覚えやすいってのもある。もし何日経ってもどうしても決まらねェ、ってなったら候補のひとつとしてどうだ?」

 その言葉にはアルトへ視線を遣る。元々世に出して構わないと思って考えた名前なので、アルトが首を縦に振るなら採用する事に異論もない。

「あまり聞いた事ない響きだけど、何か可愛いね。ローとロシ……コラさんが構わないなら、寧ろそれが良いな。仮契約の期間中から使うだけに、ローの言うように先の事を名前に絡めにくいよ」
「……そうだな。さっきペンギンからグループの招待が来てた、お前も参加しておけ。契約と名前の件は俺から連絡しておく」
「ありがと」

 各々が端末を弄り、束の間車内が無言になる。
 やがてカーナビから現在地が目的とする住所の周辺である事を告げる音声が流れると、アルトが顔を上げた。

「其処のコンビニまでで大丈夫です。家も直ぐ近くなので」
「そうか? じゃあ後ろに車来てるから駐車場入るな」

 気付けば窓から見える辺りの景色は戸建ての家々ばかりで、他に目立つ建物もない住宅街に変わっていた。街灯が等間隔に地面を照らす周囲の道に人影はない。これ以上進めば確かにエンジン音が意外と響きそうな、夜が深まると静けさが約束されそうな所だ。

「遠回りなのに、本当にありがとうございました」
「いやいや。ローの事よろしくな」
「精一杯頑張ります」

 駐車場の端に停めた車を降り、開けたままの扉から車内を覗きつつ会釈を繰り返すアルトに向けて手を挙げる。
 アルトは視線を俺の手へ、それから顔へと移すと、何処となくこそばゆそうに瞳を細めて小さく手を振り返してきた。

「また、連絡するね。おやすみなさい」
「ああ」

 車が駐車場を出るまで律儀に見送るつもりでいるのだろう、数歩離れた位置に立って歩き出す様子のないアルトを視界の端に入れつつ再びタイヤが転がり出す。

「いい子そうだなァ」
「裏表は無いに等しい。少し女に対して甘いと言うか、強く出られねェ所はあるが、その辺は職業的にそうマイナスにもならねェだろう」
「ん? 元々知り合いだったのか?」

 今日初めて顔を合わせたにしては具体的な表現を述べた事で、コラソンが首を傾げる。
 車は二車線の道路に出て、深夜まで営業している飲食店やチェーン展開の居酒屋が不規則に横を通り過ぎてゆく。物心ついた頃から見慣れていた筈の無機質な電灯や照明が、今夜に限っては少し目新しい物かのように感じられた。

「──ああ。今日会って思い出したが、昔に知り合った奴だった」
 



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