着替えを済ませて戻って来たアルトの顔色は、ベランダへ移動して来た時に比べれば多少良くなっていた。ただし髪は表面しか拭いていないのか全体が重たげに濡れている。大方悠長に身だしなみを整えられる心境ではないのだろう。

 無造作に肩へかけられているタオルを取り上げ、アルトの頭に被せて布地越しに左右から両手で髪を拭く。他人が髪を拭くとどうしても本人の頭は小刻みに揺れがちになる為一応力は抑えてはいるものの、アルトはされるが儘に黙して顔を俯かせるばかりだ。

 どう落ち着かせたものか。
 悪魔の実を食べたのだと思って疑わなかったこいつが水中を自在に泳げた事には何なら此処数年で最も驚愕したし、もしも能力者でないのなら自分が食べた実について何も語らなかった点は腑に落ちる反面、アルトが有する三つの能力は一体何なのかと純然たる疑問も沸く。

 だがそれは、この男にこんな顔をさせてまで口を割らせたい程の知的欲求ではない。

「親含め、自分以外の他人に対して一つも隠し事をしてねェ人間なんざ居ねェよ。勿論ウチの連中も俺も、何かしら腹ン中に在る。中身はくだらねェモンから重てェ奴まで人によるだろうがな」

 先に俺が口を開くと、アルトが僅かに身動いだ。
 その拍子に黒髪の何処かから水滴が一粒落ちる様子が視界に映り、まだ大分水気による纏まりが見受けられる襟足にタオルの端を伸ばす。

「お前を拾った島で妙な輩に絡まれた時、ベポが俺の方を気にしちまって動きに迷いがあった。あそこでお前が連中の動きを鈍らせたのは良い判断だったな。…判断が良かったと言や、今更だがあの図書館で俺の体力を補ったのもそうか。その後の酒が酔い過ぎずに旨く呑めた」

 布地の上から髪を包んで掌の中で握ると、水分の冷たさがタオルを介して伝わった。

「特に助かったのは海侠屋と麦わら屋の手術中だな……執刀する際に一定の緊張はするが、お前の能力のお蔭で二人の容態が急変する懸念を念頭から除外して良いってのは、俺の精神的な負担の軽減に一役買った。……ああ、それから。この間お前、俺の手の怪我治しただろ。物を書く時ペンに当たる位置に傷があったから助かった」

 これ等の事は今まで、思うだけで言葉に換えてはこなかった。口にしてみると案外長い。
 だがこうして声に出しながら思い返すだに、要所でアルトには世話になっている。助かった、という一言は、意識をせずともきちんと音に成って唇から生まれた。

『──薬もなしに傷治っちゃうとか、気持ち悪いだろうけど』

 図書館のある島で、アルトは苦笑いの声色で以てこう言った。即座に、馬鹿を言えと返した。

 道具も薬も要らずに他人の傷が癒せる、まさに魔法のような力。十一年前、誰より尊い人の体温を連れて雪原に染みゆく鮮血を眺める事しか出来なかった俺が当時、心底求めたものだった。
 もし俺が食べた実が"それ"であったならと、心臓の裏側を掠めた少しの羨ましさが言わせた台詞だ。

 だがそんな羨みも、此処に来て様相を変える。
 悪魔の実を食べた人間が能力を披露した場合、目撃した一般人の大半は恐れや嫌悪を露にする。容姿や力の内容に関係なく"能力者"だというだけで忌避する奴も多い。だからこそアルトの口からそういった言葉が出た事自体は、何も不思議ではなかった。

 しかしアルトが本当に悪魔の実を食べてなどいないなら、例えば血筋により受け継がれるような、生まれつきの特殊な異能を授かっただけだとするなら。"能力者"はいずれ諦観と共に受け入れる中傷も、こいつにとっては切れ味の鈍らない刃物であった事だろう。

 自分達とは何か一つでも異なるものを、人間は軽んじる。疎む。蔑んで貶めて、「やれやれ自分達は"ああ"でなくて良かった」と下卑た笑いを共有したがる。

「お前は、悪魔の実は食ってねェんだな」

 至近距離が故、アルトが微かに息を吸う音すら存外はっきり聴こえた。
 鼓動三回分の沈黙の後で、俺の問いに一度だけ首が縦に振られる。

「能力は生まれつき持ってたのか」
「多分。…周りにも、同じ効果のある力じゃないけど、そういうのが使える子は居た」
「…それは正直興味があるな。島の環境だとかが影響してるのか」
「解らない。もう、故郷は無いんだ」

 静かに零された言葉に、髪を拭う五指から力が抜けた。飲み込んだ筈の空気が塊と化して喉の途中で引っかかっている気がする。
 両親が居ない事は本人から聞いていた。だが故郷も失っていたとは初耳で、──水路でアルトが見せた、一切の望みが絶たれたかのような呆然とした表情が思い出される。

「そうか」
「……うん」

 よく思い出してみれば、能力の説明を求めた時にもアルトは自分の力の事を「体質のようなもの」と称していた。俺がアルトを無知だと決めてかかっただけで、こいつは最初から嘘はついていない。

 ならば怯えていたのか。この世界でただ一人、自分が単なる人間とも噂に聞く"能力者"とも違うと自覚しながら、周囲からは化け物と同等に扱われてきた筈だ。
 俺が居る船に乗って俺達に"能力者"として受け入れられたからこそ、此方の誤解を知りつつも事実を明かしたくはなかったのか。「たった一人」になる事に怯えて。
 そう思うと、自然と片手は動いた。

「お前を気にかけてるペンギンが水の中にお前を落としても溺れやしねェと知ったら、どれだけ安心するだろうな」
「……っ、」
「言わねェよ、例え話だ。本当の事を知らせてェなら俺達の誤解に気付いた時点で言うだろ」

 実際ペンギンに事実を告げてみた場合を想像すると喉奥から短く笑いが漏れたが、俺が話すべき事ではない。いつかアルトがそうしたいと思った時に自ら唇を開けば良い。

 アルトは物覚えも悪くなく、手先が割と器用で料理の腕に長け、近接格闘の技術も高い。木刀を使った組み手にも数日で慣れてきている。武装色の覇気の扱い方も巧い。鍛えれば伸びる余地もある。

「此処に居ろ」

 だが不器用だ。似た能力を持つ俺との違いを見つける度、より自分の特異性を自覚する羽目になるだろうに、肩書きを偽って生きようとした所がどうにも。

 アルトの髪に触れる掌や手首には湿った髪の冷たさが伝わるが、額を押し付けさせた首元には淡い体温が伝わってくる。見下ろす先に在る肩がポーラータングの船内で疎外感に震えた事もあったかもしれないと思えば、脳裏に浮かんだ言葉がその儘外気に溶けた。

「お前が自分の素性について黙ってた事には別に怒っちゃいねェ。言ったろ、隠し事のねェ人間なんざ居る訳ねェんだ。それにお前が黙ってた事で何かマズい事が起きた訳でもない」
「でも、ロー、」
「お前は此処に居ろ、アルト」

 俺を船長と呼ばないこいつの儘で良い。俺の"部下"にならなくとも良い。俺の前のみであっても今後はアルトが息をしやすくなるのなら。
 極論、死ぬまででも嘘に付き合おう。


 



( prev / next )

back

- ナノ -