商店街が比較的近く、それ故に宿泊料金は多少割高ながら従業員の態度に不服はないホテルを見つけてから数十分。
 現金と荷物の番をする役目が与えられたクルーの到着を待つ間、ロビーの端で身体の重さに合わせて座面がやんわり沈む上質なソファーに腰かけながら、ふと心中で思った事を口に出した。

「ペンギンさんがローを名前で呼ぶの、初めて聞いた」
「…ああ、さっきの話か? 流石に出逢った瞬間から船長とクルーの関係って訳じゃなかったしな、一時期呼び捨てにしていたよ。あの人の下に就こうと決心した時改めた。本屋での事は正式にクルーになる前の話だったんだが…思い出しながら話したらつい、な。今でも焦った時なんかは偶に勢いで呼んじまう事がある」

 言われてみればなるほどと思える。初めて出会った時からローの部下として、或いはハートの海賊団船員としての姿しか見ていなかったので失念していたが、ペンギンも俺と同じように初めはローと他人同士だったのだ。今でこそペンギンはローに対する敬愛の色が強いが最初からそうであったとは限らない。
 この二人が気安い友人のような接し方をしている時期が在ったのかと想像すると、決して不思議ではないような、けれども今の間柄の方が俺の主観ではしっくりくるような気分になる。

 同時に、別の思考も浮かぶ。
 名前を呼び捨てにする程近かったローとの距離を態々計り直して呼称をも切り替えたペンギンの姿勢は、端から見ても良く出来たものだ。シャボンディで関わった麦わら一味のトナカイは船長であるルフィの事を名前で呼んでいたので何事にも例外はあるだろうが、やはり船長はその役職名で呼ばれて然るべきなのだろうか。

「俺はその改める機会とかを気にしないで、今日までやってきたけど…、……やっぱり俺もローの事船長って呼んだ方が良い?」

 気にしていなかった訳ではないが、あまり真剣に考えた事も無い話題だった。個人的には名前を呼ぶ方が互いの距離が近く感じる上、ロー本人も皆も何等言及しないのでそれに甘えて来たものの、今からでも変えた方が良いのではとペンギンの話を聞いてふと思い直す。
 そうして言葉と共に天井へ投じていた視線を隣に向けると、きょとんと瞳を丸めた表情が在った。

「何言ってるんだ、アルトは維持だろう。現状維持。もし名前呼びを訂正させるなら、お前の加入が正式に決まった時点でそう言ってるさ。誰かに呼び方を変えろだとか言われたのか?」
「ううん、言われてない…けど、考えたらそれも不思議って言うか……」
「……お前には失礼に聞こえるかもしれないが、最初の方は俺達もお前に対しては、同情の念がそれなりに強くてな。船長に懐いて、船長の誘いを受けて海賊になる決心をしてくれて、海賊船とは言え楽しそうに生活してくれているのが嬉しくて、……何なら、微笑ましく思ってた位だ。お前が船長を名前で呼ぶ事を悪いように捉える奴は、当時も今も居ないよ」

 俺は思っていた以上に温かな目で見守られていたらしい。苦笑混じりに頬杖をつくペンギンから語られる純然たる厚意故だろう心境を聞くとやや複雑な心地にはなるが、集団生活における不協和音の種を放置していた訳ではないなら一安心だ。

 俺自身の能動的な気持ちとして、ローを「船長」と呼びたいと思った事は無い。自分の感情は関係なく形式を重んじるか否かに視点を定めての問いかけだったので、第三者の立場に居るペンギンがこう言ってくれるのならば言葉通り今の儘で良いのかもしれない。

「それに、一人ぐらい船長の事をトラファルガー・ローという個人として扱う奴が居ても良い。これはクルーの総意じゃなく俺の個人的な意見だけどな」

 掌へ顎を乗せた儘フロントの方に顔を向けたペンギンの唇が、続けてそんな音を綴る。
 チェックインの受け付けが始まって間もない時間帯の為客の出入りが多く、談笑の気配や荷物を運ぶ音、従業員が番号の呼び出しをする声が混在している中でもきちんと耳に届いたその声色が、先程までより柔さを増している気がした。

「俺を含め、クルーはどうしても船長の事をその肩書き込みで見て判断する。クルーにとっちゃ船長っつー存在が指針に代わる部分もあるしな。ウチの船長はこっちのそういう信頼を汲み取ってくれる人だし、基本的には俺等はこの姿勢で良いんだと思ってる。…だがなァ、とは言っても、船長だって人間だ。だからこう…、あー……」

 ペンギンの頬に添えられていた指が離れ、膝の上で両手が緩く組まれる。
 どんな話題でも比較的流暢に言葉を繋げて紡ぐ印象の強いペンギンが言い淀む様は些か珍しく、つい横目で表情を窺うと視線を感じ取ってか顔を少し俯けられ、ただでさえ帽子のつばに隠れがちな目元が一層見えにくくなってしまった。

 ほんの一拍ほど黙したペンギンは、ソファーの足元に敷かれている縁飾りの付いた絨毯へ目線を落としつつ微かに吐息を漏らす。

「どんな場面でも船長、船長って呼ばれてりゃあ、時と場合によっちゃその呼称が本人を奮い立たせる事も……追い詰める事も、あるんじゃないかと。正直懸念もするんだ。…それに、俺達は能力者の心情だとかにはどうやっても共感してやれない。せいぜい想像するまでだ。だからこそアルトが船長を名前で呼ぶのは……巧く言えないが、良い事だと思うんだ」

 後半の台詞に、胸の内側が強張るような錯覚を覚えた。ローと俺は"能力者"として通ずるところがある、と思われているからペンギンがこう言うのだろうとは察しがつく。
 異質な力を有している点は確かに共通しているが、その力を行使なり研磨なりする際に伴った苦労や葛藤は恐らく異なる。周囲からの扱いも違った可能性が高い。

 あくまで"特殊能力を自分の意思で扱える人間"としてなら俺がローに対して共感出来る事も多いのだろうが、何かと荒れているこの世界を無法者として生きてきたローと堅牢な組織や肩書きに護られて好きに生きてきた俺では、そもそも人としての厚みが違いそうだ。
 ペンギンの言葉はとても嬉しい内容である筈なのに、俺が素直に受け取って良いものだと思えない。

「……俺とローじゃ、色々違うよ。性格がとかじゃなくて…これまでの経験とか、考え方とか」
「お前はついこの間まで海賊じゃなかったしな。特に物の捉え方…と、倫理観や道徳観は能力者どうこうを抜きにして結構違うかもしれない。だがシャボンディのオークションハウスでお前が"天竜人"に対して怒ってた時、船長が言ったろう? その感覚を覚えておけって。俺も同感だ。お前はそのまんまであの人のサポートをしてくれ」
「…うん」

 吸い込んだ空気が硬い気がした。
 極論、俺は死ぬまで一番深い部分ではローに寄り添えない。

 



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