30.夜半のゼラチン
「どうしてここのブランドが好きってわかったんですか?」
代行に車を運んで貰いながら揺れる車内でさっき居酒屋で渡した紙袋を大切そうに抱えて膝の上に乗せている姫がこちらを見上げて言った。
「部屋の感じとか服装とか見て…かな」
「詳しいんですね」
「あー、有名どころしかわかんねーけどな」
君より無駄に経験あるからね、と心の中で呟く。この歳になれば異性に何か買ったり誕生日だ記念日だと強請られる機会が少なからずあるわけで。これまでは興味もなければ面倒だなと思っていた作業も、姫の雰囲気で似合いそうな物を探したり喜ぶ顔を想像するのが楽しかった。
「引っ越し終わったら新しい鍵付けて」
「はいっ」
選んだのはキーケース。これからは転居先で鍵を取り出す度に『ここは二人の家』だということを思い出して欲しい…なんてさすがに気持ち悪がられそうなので言えないが、同じ鍵を持つということが特別に嬉しいのだという気持ちはバレてそうだ。アルコールが入った姫は一見して様子が変わらないように見えるが普段よりもふにゃりと柔らかく笑ったり、眠そうにゆっくりと話すから多少は酔っていることがわかるが気分不快はなさそうなので初めての飲酒にしては気持ち良く酔えているようでほっとした。
運転席と助手席ではなく後部座席で並んでいると普段の運転中よりも距離が近くて、何度もこの車に乗せた事があるのに新鮮で、触れたくなる。
そう思っているうちにマンションに着き、「じゃあ、ほんとにありがとうございました」と自分ちの部屋に鍵を刺そうとする姫の手を上から包んで止めると不思議そうに見上げてくる可愛い顔に俺の影がかかる。おいまさか飯食っただけで解散するとでも思った?いくらなんでも健全過ぎるだろ。
「こっちだよ」
手を取ったまま俺んちの鍵を解除して姫を引き込むとワンピースの裾がふわりと揺れた。パタン、と閉じた扉に薄い背中を優しく押し付けて唇を落とす。まだ明かりをつけていない暗い玄関に「んぅ…」と鼻から甘い声が抜ける。ちゅ、ちゅ、と音を立てながら片手を伸ばし内側から施錠した。カチャンと重い音が響いて姫の肩が震えた。
「ん、ん、っふ…」
「っは、顔見ていい?」
「だ、め…っ」
シャツをぎゅっと握られる感覚を可愛く思いながら玄関の電気を付けて下を覗く。蕩けた表情に赤く染まった頬は酒のせいじゃなくてこのキスのせいだ。口角が上がるのを止められない。
「今日ほんと可愛いじゃん。どしたの、その顔。酒飲むとめちゃくちゃ可愛くなるタイプ?」
「知りません…っ、もう、袋潰れちゃう」
「貸して」
抱えていた袋とバッグを抜き取り、おいでと靴を脱いでリビングに向かう。ふぅ、と息を整えて後をついてきたのを確認してリビングの明かりをつけた。テーブルに置かれたそれを大きな瞳が映す。男の一人暮らしには到底不釣り合いで異質な白い花が置かれていた。
「紫陽花……?」
「紫陽花の仲間らしくて、アナベルっていうんだってさ。花屋で見つけて、姫らしいなって思って」
「綺麗…」
昨日、昼休みに銀高近くのコンビニに行った際に通りかかった花屋でこれを見かけて思わず足が止まった。小さな花びらがいくつも重なっていて、触るとふわふわと柔らかそうなこの花は色鮮やかな印象の紫陽花とは違い、全てが真っ白で、姫の純粋なイメージと重なった。誕生日に花を贈るなんて初めてのことで、キザもキザだなぁと苦笑しつつ、この子なら絶対に喜んでくれるんだろうなという確信もあって買った。本当なら仕事が終わってから一旦帰ってきてアナベルを持っていく予定だったが、それだと待ち合わせに大幅に遅れそうだった為にこんな形で渡すことになってしまった。でも、手渡した先でこんなにも嬉しそうに笑う姫の顔を独り占めできると思えばこれで良かったかもなんて思う。
花束を手に取り、姫へ。やっぱり気恥ずかしくて、小さな声で「どーぞ」と呟きながら。
「嬉しい、ありがとうございます」
「うん。やっぱすげー似合う」
…ウエディングブーケみたいだな、と思った。真っ直ぐ俺を見上げて、花束を抱えて嬉しさを隠さずに笑いかける年下の彼女の将来を期待しつつ、同時に歳を取っていく予定の自分にげんなりする。
「銀時さんみたいなお花ですね。白くてふわふわ」
「それミルク拾った時も言ってなかった?そのうちたんぽぽの綿毛見ても俺みたいとか言い出しそうだな」
「ふふっ、バレました?」
「マジかよ」
悪戯っぽく笑って花を置いた姫がぎゅうと抱き着いてくる。腕を回しておんなじくらいの力で抱き返す。が、どうしても力が入り過ぎてしまう。だって離したくなくて、腕の中に囲うのを止められない。
「美味しいご飯とプレゼントで大満足なのに、こんなに貰っちゃって大丈夫かな」
「誕生日に貰いすぎなんて心配するの姫くらいじゃね?その謙虚さ、生徒達に見習わせたいよ本当」
「全然謙虚じゃないですよ。普段わたしが考えてること言ったら、きっとそんな風に思えないとおもう」
「いやそれ俺もだから。姫は何考えてんの?」
軽い力で抱きしめてるこの瞬間にも、もっともっと近くで触れ合いたいし互いの服とか全部邪魔だなとか邪な考えに陥ってしまうのをどれだけ気を張って抑えているか想像もつかないだろう。
「…言ってもいい?」
「え、教えてくれんの?」
「銀時さん、明日土曜日でお仕事お休みですよね」
「ああ、明日ケーキ食べに行こうって言ってたじゃん。もしかして忘れてた?」
「ううん。えっと…それで、その」
茶化すように明るい声を出すがどんどん尻すぼみになっていく。そんなに言いづらいことをわざわざ今日言おうなんて、一体何の話だろう。
「……今夜、泊まっても良いですか?」
「……え」
「誕生日にお願い聞いてくれるって言った…」
「……」
確かに、誕生日に何が欲しい?って聞いて「当日お願い聞いてください」と答えた日のデートを思い出す。まさか、そんなことにその権利を使うなんて思っても見なかった。普通はアレが欲しいコレを買えとか何処そこに連れて行けとか、そういう我儘を通す為に使うもんなんじゃねーの。それを、彼女の希望なら今日に限らずいつでも叶えてあげられることをお願いにするだなんて正直面食らった。一瞬返す言葉に詰まった俺を見て眉を下げて不安そうにする姫を見下ろし、言葉を探しながら髪を撫でる。
「遠慮しなくていいよ。お願いのハードル低過ぎると思うんだけど。一緒に住んだら毎日泊まりだよ?せっかくの誕生日にそれでいーの?勿体なくね?」
「勿体なくない…銀時さんと一緒にいたいんだもん…」
「かっ……!」
かわい…っ!なんだそれ。えっ何今の、可愛過ぎない?酒のおかげかいつもより甘えたな感じでそれがまた的確に俺の心臓を叩いてくるので頭がバグりそうだし理性が、俺のなけなしの理性さんが溶けてしまいそうだ。角がゆるゆるのぷるぷるゼリーみたいになってるんですけど。今にも崩れ落ちそう。
「だめですか?」
「や…全然ダメじゃねぇけど、さ……」
「……だめ?」
「ようこそ男臭い一人暮らしのアラサー男性の自宅へ」
「やったー」
わざと?わざのなの?その首かしげアンドうるうるの眼差しアンド砕けた口調。新居でカメラ仕込もうかななんて思うほどに可愛い。バレた時が怖いからしないけど。そしてサッとこの家の衛生状態について意識を向ける。掃除は昨日したし、水回りも問題なし。ベッドシーツは数日前に洗濯したけど…念の為変えるか。
「じゃーとりあえず風呂入って寝る準備だけしておくか」
「はーい。着替えてきますね」
「いや、ダメ」
荷物を持ってリビングを出ようとした姫の腰を捕まえてバッグも取り上げる。油断も隙もない。
「え?」
「デートして彼氏の家に来てんのに「じゃ一旦風呂入って着替えて来まーす」なんて自分ちに帰る?帰んないよね?隣だから気軽に行き来しちまうけど姫が泊まりたいって言ったんなら、もう今夜は帰さない」
「……っ」
「泊まりたいって、帰りたくないって意味じゃねーの?なのにもう帰る気でいんの?」
「そ、れは、……」
「帰さないよ」
何か初々しいやり取りだな。適当なラブホでヤって終わりの現地集合・現地解散をしてた若かりし頃の自分が最早全くの別人に思える。アレは多分、俺の股間が第一人格者として俺を操縦してたんだ。うん、きっとそうだ。
腕の中で何か思案していた姫が「確かにそうですね。わかりました」と納得して見上げて来る。
「お風呂借りていいですか?あと、部屋着も」
「自分で言ってなんだけど、すごい積極的だなぁ」
「もう、あんまり揶揄ってると怒りますよ」
「ごめんごめん」
姫をソファに座らせてテレビを付け、風呂にお湯を張る間にクローゼットを漁り部屋着を物色する。買ったばかりの黒いスウェットと、何度も洗濯してちょっと草臥れた同じ物を取り出した。デカいだろうけどウエストはゴムだし何とか着れるだろ。あー、こういうのカレカノっぽくて擽ってぇ。新しいのあって良かった。ついでにベッドシーツも交換して洗濯機に突っ込んでおいた。
「そろそろ入れるよ。ハイこれ使って。新しいのだから」
「ありがとうございます!わーおっきい…重たい」
大して珍しくもない黒い布の塊を見下ろして嬉しそうに感想を言う女の子ってなかなかいないよなぁ…と微笑ましく見ていると、何故か不満そうに眉を寄せた。えっ、何で?煙草臭かった?
「…あの、わたし、それがいい」
指差したのは俺の手の中の草臥れたスウェット。もう何回か着たら毛玉付くんじゃね?って感じのくたくたした方。明らかに姫が持ってる方が綺麗で、着心地も良いだろうに。
「え?これ?何で?」
「銀時さんの匂いしない…」
「は?萌え殺す気?」
萌えるってもう死語だっけ?死語って言葉、そもそももう死語だっけ?こういう感情って最近では何ていうの?すんごい好きなんだけど。この子すんごい可愛いんだけどどうする気なの?俺の息の根止める為に生まれて来たの?
「やっぱ嫌だったらいつでも言って」
ご希望通り古い方と交換すると、それをさっきよりも一層大事そうにぎゅうって抱えて、「…えへへ」と少し照れながら浴室に消えていくのを見送って片膝を付いた。この戦い、完全なる敗北の予感がします。
title by さよならの惑星