58. 願いを叶えた世界の美しさをきみとみた
「あ、斉藤さーん!おはようございます!」
洗濯物を干しているとマリーゴールドのような鮮やかなオレンジ色が目に入り、声をかけた。少し距離があったけれどこちらに気付いてくれて、『おはよう』と手を上げた斉藤さんに同じポーズを返して、またかごの中のシーツを一枚取り出す。ここ数日快晴が続いて嬉しい。真っ白に輝いて光を反射するシーツの皺を伸ばしていると、誰かがこちらに向かって話しながら歩いてくる声が聞こえてきた。特段気にしていなかったものの、耳に入ってきた会話の内容はわたしが密かに気にしていた存在のことだったので、思わず顔を上げた。
「それで――久々に鬼兵隊に動きがあった。奴等、江戸に向かってるらしい。大方武器の調達だろうがデカい取引かも知れねぇ。今夜から見張りの規模を拡張し時間帯を――」
「っそれ、本当ですか!?」
大切な話の最中にも関わらず急に会話に割って入っしまったことを恥ずかしく思いながらも、でもどうしても詳しい内容を知りたくて出会い頭に隊服の端っこを掴んでしまった。土方さんはわたしを見下ろし、「げ、姫」とすこぶる面倒そうに眉を顰める。その隣では総悟くんが表情を動かすことなくだるそうにズボンのポケットから片手を出し、そっとわたしの手を土方さんの隊服から外した。
「聞かれちまったか。わっかりやすく嬉しそうな顔すんじゃねーや」
総悟くんはこつん、とおでこにげんこつを当てて、風によって乱れた前髪を手櫛で直してくれた。言葉とは裏腹に眼差しは甘くて、優しい指遣いに思わず目を閉じる。このまま逞しい胸元に寄り添ってしまいたくなるけれど、ここで誤魔化されてしまうわけにはいかない。
「あの、今のお話、わたしにも聞かせてもらえませんか?」
是非詳しくと言わんばかりに視線を向けると風下に移動した土方さんはかなり嫌そうだったけれど、やがて薄灰色の溜息を吐いた。
「…まだ噂の段階ではあるが、近々動きがあるらしい。今、ザキが裏を取ってるところだ。暫く前に宇宙に発ってから静かにしていたから何処かの天人にやられたか隠居したかと思ってたがな」
「江戸に来る時期って…いつ頃か分かりますか?」
具体的なことを聞くと怒られるだろうな…と思いながら勇気を出して尋ねてみると、土方さんは案の定眉を吊り上げて大声を上げた。
「アァ!?おい姫、お前また一人で接触する気じゃねぇだろうな?相手は観光で来るんじゃねーんだ。ホイホイ行って拉致られたら今度こそ無事じゃ済まねぇぞ」
「大丈夫ですよ、あの人達が拉致なんてするほどの関心はもうわたしにはないはずです。高杉さんは珍しい力に興味があっただけで…。現にあの後何度か会いましたけど、刀に手を掛ける素振りもありませんでしたよ」
「は!?何度か会った?いつ?どこでだ!?聞いてねぇぞ!?」
「あっ、ものすごく前の話なので忘れてください…」
怒りに火を注いでしまい、詰め寄られ、焦って弁解する。そうだった。高杉さんと江戸で何度か顔を合わせていたことは言っていなかったんだった。でも総悟くんだけはこのことを以前から察していて、敢えて何も言わないでいてくれていたのだろうなと思っていた。だから安心してつい口にしてしまった。総悟くんはまだしも、土方さんは鬼兵隊と関わることに対して過剰に反応する。立場上当然のことであるのだけど、今言うことじゃなかった。慌てて手で口を押さえるが、出てしまった言葉が戻ってくることはない。土方さんの額に青筋が生まれかけている。流石鬼の副長といったところで、その迫力は凄い。返す言葉もなく縮こまっていると、長く煙草を吸ってから地面に落として踏みつけた。
「…で、何で鬼兵隊の動向を気にしてるんだ?会いたいとか抜かすなよ」
「えっと……その通りで…。会いたい、です」
「……お前なァ」
「姫を港の辺りにでも一人でフラフラ歩かせときゃあ釣れるんじゃないですか。あの男、事あるごとにコイツに近づいて来るからなァ。…つーかお前が男に会いたいとか言ってんの、面白くねーや」
隣からじっとりと棘のある視線が向けられる。総悟くんは身長が伸びたせいでこういう時の迫力が増した気がする。でもやましいことはひとつもないから降りてくる深い赤を見上げた。
「違うの、高杉さんじゃなくてまた子さんに会ってお礼を言いたくて。船で毎日銃の扱いを教えて貰ったお陰で戦えたから…。ありがとうって伝えたいの」
「話は分かった。だがな、テロリストに礼を言いに行く馬鹿が何処に居るってんだよ。囮になる話も却下だ。とにかくこの話は終ェだ」
「俺の女を馬鹿呼ばわりするなんざここで殉職したいようですねィ土方さん」
「話をややこしくするんじゃねぇ!」
「ま、生きてりゃそのうち会うだろ」
土方さんに突っかかっておきながら無視して風船ガムを口に放り込む総悟くんを見上げていた時、ビュウッと強い風が吹いた。干したばかりのシーツがパタパタと音を立てて揺れる。もう少ししっかりと留めておいた方がいいかもしれない。
「いた、」
すると、砂が入ってしまったようで右目に痛みを感じて俯く。瞬きを繰り返しながら擦ろうとする手を取られた。
「擦んな。傷が付く」
見せてみろと総悟くんに顔を上げさせられて見上げる、けどどうにも痛くて開けられず逆にぎゅっと目を瞑ってしまった。
「…何でィ。ちゅーでもして欲しいのか」
「違うよ…もう、…」
「涙出して流しちまえ。あー弱ったなー、別の意味で鳴かせんのは得意なんですがねィ」
「…ハァー。付き合ってらんねぇよお前らには…」
タオルを取りに行くと言った土方さんの足音が遠ざかる。意識的に涙を出そうと思うと難しいものだ。必死になっていると耳元で総悟くんが囁いた。
「ザキの情報からすると奴らが江戸に来るとすれば三日後だ」
「え……」
「俺は警備があるから手伝えねェ。後は自分でやれよ」
「わたしが言うのもおかしいけれど、それ、女中に言っちゃいけない情報じゃない?」
「黙って勝手に動かれるよりよっぽどマシだ」
「さすが総悟くん。何でもお見通しだね」
は、と軽く笑う声が耳元でダイレクトに響く。そのまま薄い唇が触れて、耳の輪郭を軽く食んでから離れていった。くすぐったくて、ふふ、と笑ってしまった。
「ほら泣け。得意だろィ」
「泣けなんて普段言わないから変なの」
反対に、さっきから嬉しい気分にさせてばかりだよ。そっと目を開けて瞬きを数回すると、涙がぽろりと溢れた。思いの外、まだ近くに総悟くんの顔があってドキドキしてしまう。砂が取れたか見てくれているんだとわかってはいるものの、こんな近くで見つめられて平常心ではいられない。徐々に頬が熱くなっていくのがわかる。
「…そんな目で見られるとここで押し倒したくなっちまうだろ」
「そんな目って、砂の入った目ですけど…」
「総悟」
少し離れた所から土方さんの声がした。タオルが無造作に投げられ、何の合図もしていないのにそちらを見ることなくタオルを受け取った総悟くんは、わたしの目元にタオルをぽんぽんと当てて涙を拭ってくれた。
「ありがとう。取れたと思う」
「ちょっと赤くなっちまったな」
「すぐ治るよ。さっきのことも、ありがとうね」
「言っとくが絶対危ない所には行くなよ。真選組の他の連中にも注意しろ。テロリストと密会してる所なんざ見られたらスパイだ何だってとっ捕まって即ブタ箱行きだ。そんなことになったら…」
両肩に手を置かれ真剣に諭される。何かあったとしても総悟くんをはじめ真選組は動けない。けれど最初から一人でいく覚悟はできている。誰にも迷惑はかけないつもりだ。
「うん、気をつけるね」
「…スパイ容疑で捕まったら堂々と姫に拷問プレイができるってことか。それも悪かねーな」
「……っ悪いに決まってるでしょ!」
忘れてた。この人は正義という文字のグレーゾーンにいる思考の持ち主だってこと。それに、ただでさえ夜は激しいタイプなのにこれ以上過激なことをされたら身が持たない。
「想像してるだろ今。とんだメス豚になっちまったなァ、俺のせいで」
「してないよ!想像なんてしてないからニヤニヤするの辞めて。もう早く仕事に戻って。土方さん待ってるよ」
「お前こそそんな顔で戻る気かよ」
「どんな顔?」
「俺が欲しいって顔」
「し、してません…」
「自分じゃあ見えねぇ癖に」
「もうほんとに早く行って…」
朝から変な会話ばっかりしないで欲しい。この話はもう良いですとばかりに背を向け洗濯籠を抱えて戻ろうとすると、名前を呼ばれてしまい、数拍置いて振り返る。どうも総悟くんの声には抗えない。するとおでこに落とされたキスと「今夜覚悟してろ」という殺し文句。じんわりと体温が上がったのを気が付かないフリをして今度こそ歩き出した。
*
三日後。鬼兵隊の船が江戸に来るという噂なんて嘘なんじゃないかってくらい港は静かだった。あては無いので昼間から港の辺りをウロウロしているいかにも暇そうなわたし。さすがに時間と場所は真選組でもわからないだろう。それにテロリストが堂々とこんな所に船を停める訳がないということも薄々気付いている。本当に会えるだろうか。徒労に終わる気がしてきて焦りが募る。でも、会えるのならどうしても会いたい。
「アレ?姫の幽霊?」
「きゃっ!」
突然、肩に手を置かれ大きな声を出してしまい、慌てて自分の口を塞ぐ。顔だけ振り返ると、真っ白な肌に三つ編みにしたピンク髪のお兄さんがいた。ニコニコとこちらを見下ろしている。
「神威さん…!?」
神威さんだ。まさかこんなところで会えるなんて思わなかった。
「久しぶりに地球に来たら知り合いに会うなんて運命的じゃない?それにしても最後に見てから長いこと経つけど、キミって全然変わらないね。やっぱり不老不死?」
興味あるなぁと上から下まで全身を見つめられて、どこかに隠れたい気分になった。口の端からペロリと赤い舌が覗く。いくらお腹が空いていたとしてもわたしは食べられませんよ…。
「お久しぶりです、神威さん。これには色々あって…というかわたしはただの人間なので、ちゃんと歳をとりますよ」
「ふーん?ところでどうしてこんな場所に一人でいるわけ?」
「あ、それは…」
何て説明しよう。色々ありすぎてどこから話せば良いのやら。とにかく残夢との戦いは何とか無事に終わったことを伝えると「あーあ。やっぱりそうなんだ。俺も宇宙で探してたのに残念だなー」と本当に残念そうに言うものだから根っからの戦い好きの人って怖い。距離を取りたくなる。
「あの、鬼兵隊が江戸に来るって聞いて…。神威さん、何か知ってますか?」
「へぇ晋助に会いたいんだ。また家出?それとも今度は真選組のスパイ?」
「違います!船に乗っている友達に会いたくて」
「知ってるよ。連れてってあげようか?阿武兎との待ち合わせまで暇だし」
「本当ですか?」
「その代わり俺のお嫁さんにならない?」
「……やっぱり自分で探します」
「よーし、しゅっぱーつ」
迷子にならないようにね、なんて言いながら手を取られ半ば引っ張られる形で連れて行かれる。強引過ぎる。そのうち近道だと言って狭い裏道を通ったり高い所に登ったりと道なき道を進み始めた神威さんはわたしを米俵の如く肩に担いでしまう始末。どんどん地上が遠くなっていく。これ、帰りはどうすればいいの?う、酔いそう……。
「着いたよ」
どのくらいそうされていたのかもわからないほど意識が朦朧としてきた頃、ようやくお尻が床に触れた。ただ連れてこられただけだというのにとても疲れた。
「……ここ……?」
そこは幾つか空に浮かぶ観光船のうちの一つだった。何の変哲もないそこにテロリストがいるなんてとても思えない。それ程よく江戸に溶け込んでいた。鬼兵隊の船はもっと大きかったはず。真選組の目から逃れるために本来拠点にしている船を隠し少人数を連れてきているのかもしれない。それにしても、果たしてどうやってここまで来たのか想像するのも恐ろしい。
「ありゃ。大丈夫?」
「…ちょっと、待ってください……うぅ、」
未だにぐるぐると揺れ回る視界を落ち着ける為にしばらく座り込んでいると複数の足音がバタバタと音を立てて近づいてきた。
「おいコラ!!許可なく勝手に船に入るなって何度も言って……?姫…!?もしかして姫っスか!?」
「ま、また子さん…こんにちは……」
胃の中がかき回される感覚をやり過ごしつつ目を開けると、感動の再会はどこへやら、幽霊を相手にしているかのように頬を引き攣らせているまた子さんがいた。ああ、また子さん。やっと会えたのにまだもう少し時間が欲しいです。
「一体何がどうなってんスか!今にもゲロ吐きそうな顔して!ていうか何でお前が姫を…」
「俺は頼まれて案内しただけだよ。ここまで連れて来たらお嫁さんになってくれるって言うからさ」
「そんなこと言ってない…です」
「いや、マジで死んだと思ってたっス。前に江戸で行方不明になったって女の特徴に似てたからてっきり…」
「勝手に殺さないで下さい。確かに色々あって暫くは江戸を離れていましたけど…」
「じゃあ俺はいくよ、姫。今度はゆっくり宇宙旅行に連れて行ってあげるよ」
「ありがとうございました神威さん、できれば今度はもう少し穏やかな方法でお願いします…」
お願いには返事をせず、ヒラヒラと手を振って船から飛び降りて行く神威さん。夜兎族の身体能力には目を見張るばかりだ。手を振りかえしていると、また子さんに引っ張り上げられようやく立ち上がることができた。
「とにかくこっちに来るっス」
船の中を歩いていると、ほんのひと時だけお世話になっていた数人の隊員に会った。よく覚えてくれていたなぁと驚いた顔をするわたしに「怪我を治して下さった恩人ですから」と告げた。
「それにしても…最後に会った時と姿形が変わらなくて不気味っスね。人形は年取らないんすか」
「人形じゃないので歳は取るんですけど…なんて言うか、ちょっとタイムラグがあったというか寝過ごしちゃったと言うか…冬眠?していました」
「はぁ?相変わらず変な娘っスね」
時の狭間で迷子になっていた空白の二年間のことは自分でもうまく説明できない。向こうの世界で橋から飛び降りて、次の瞬間にはかぶき町に流れ着いていたつもりだった。失った記憶を取り戻しても当然ながらそのことについては「二つの世界を越えるための狭間にいた」という抽象的な表現をせざるを得ない。この事については一度だけ総悟くんとも話したけれど、月の神様にもう会えない以上はいくら仮説を立てたところで答え合わせをすることも不可能だということで早々に考えるのをやめた。
『…まぁ、ごちゃごちゃ考えずに与えられた現実を喜んでおくとするか』
総悟くんはそう言って隣に座るわたしの腰を引き寄せたのだった。
「ところで今日はまた一体何の用でこんな所に来たんスか?」
座敷に腰を落ち着けてやっと本来の目的を思い出した。わたしは拙いながらもこの数年間にあった出来事を話していった。
「…それで実はまた子さんに謝らないといけない事があるんです。貰った銃、無くしちゃって…。大切にしてたものだったのに、本当にごめんなさい」
最後の戦いの時に崩落していった視界の中で、残された銃弾を使い切った後、濁流と共に手を離れていったまた子さんの銃。まるでもう役目を終えたと悟ったかのように手の中からすり抜けていってしまった。総悟くんに聞いても、川の周辺では見つからなかったらしい。
「なんだそんなことっスか。武器なんて消耗品なんだからどうってことないっスよ。それに片がついたならもう必要ないでしょ。離れるべくして消えたんじゃないっスか」
「…そうですね。きっと、区切りの一つとして離れて行ったのかも。確かに、わたしにはもう戦う相手はいません。でも…その時が来たらまた武器を取ります。女中も続けるし必要なら銃だってまた握ります。力があるないに関係なく、今ここにいるわたしだけがわたしであることの証明だから」
決意を告げると、また子さんは驚いたように目を丸くした。けれど、すぐにニッと口角を上げて笑った。
「アンタみたいなお人好しに守られる相手も大変っスね」
もう、失いたくたくないから。何ひとつ取りこぼしたくないから。だから、大切な人を守る為には汚れても良いって今ならそう思える。色んなしがらみに自分を当て嵌めて、その中で生きていこうとするのは止めた。ここで生きていく為にできることをすれば良いんだ。
「それに、どうしたって総悟くんと一緒に地獄に行かなきゃいけないし、どうせなら悪いことのひとつもしておかないと」
「ハッ!とんだ盲目バカップルっスね!いっそ清々しいっス!…それよりいつまで他人行儀を続ける気っスか?テロリストに敬語使う人間なんてアンタくらいっスよ、姫」
「!っ、また子ちゃん…!」
「ちゃんはやめて欲しいっスせめてまた子お姉様で」
「では私のことはぜひ、たけちん(ハート)と呼んでくださオブッ!!」
「どっから湧いて出て来たんスかキモイんだよ死ね!」
武市さんがまた子ちゃんの豪快な蹴りによって端の方まで飛んでいってしまった。すると奥に万斉さんが立っていることに気が付いた。サングラスの奥の瞳が見開かれている。やっぱりみんなわたしが死んでしまったのだと思っていたみたい。
「――姫殿、でござるか?」
呟きに「はい」と頷いて見せると、何とも言えない表情のまま数秒の時間をかけてこちらを見ていた。そして、何もかも理解したように身体の力を抜いて、「これからも己の意思を貫くといい」と一言、言葉をくれた。
「もう行かなきゃ」
長居して良い場所ではないことはわかっている。本当なら踏み入ってはいけない組織であることも。感謝の気持ちを伝えられたのでもう目的は果たした。日が暮れるまでには屯所に戻らないといけない。
「船を寄せろ」
どこからか、部屋の外で低い声が通った気がした。甲板に出てみても姿は見えず、言葉も交わすことがなかったけれど、この船の持ち主さんはわたしがお邪魔していたことに気が付いてなお自由にさせてくれていたらしい。とにかくみんな元気そうで安心した。
「お邪魔しました」
「せいぜいしぶとく生きることっス」
「また子ちゃんもね!皆さんも、お元気で……きゃぁぁ!?」
もう少しで船が地上に降りるという時、空から爆発音とバサバサっと何かが落ちてくるような音がして身を竦めるとウエストにしっかりとした腕が絡まって身体が宙に投げ飛ばされた。突然の衝撃に驚いていれば、目の前を黒い艶髪がふわりと掠め通った。
「久しいな姫殿!こんなところでバンジージャンプか!俺は見ての通り真選組に追われているところだ!ちょうど良い、そこまで送っていってやろう!」
「えっ嘘!?やだ、桂さぁ……ッッ!!」
白いパラシュートを器用に操りながら江戸の街を闊歩していく桂さんに抱られたわたしは必死にしがみつきながらデジャブを感じていた。行きも帰りもジェットコースターのようだ。何とか振り返ると鬼兵隊の船はもう行方をくらましていたのでホッとした。暫くして路地裏の細道に入りやっと地面に足がついた。
「夜道は危険だ。気をつけて帰りなさい。また会おう!アディオス!」
「は…はい…ありがとうございました」
息を整えているうちに桂さんはいつもと変わらない高笑いを響かせながら去っていった。次第に町に明かりが灯り始め、昼間とはまた違った賑やかさが江戸を包み込む。桂さんは本当に近くまで送ってくれていたようで、表通りに出れば屯所はもう目と鼻の先だった。急いで向かっていると、見知った人が立っているのでつい笑顔になって駆け寄った。
「どこ行ってたんでィ」
「お散歩だよ。友達に会えたの。話せて嬉しかった」
わかっているくせに聞いてくる。とんだ茶番だなぁと思う。ぐしゃぐしゃに髪を撫でてくれた手を取って、握りしめた。
「そう言えばさっき鬼兵隊の船が江戸に降りてきた上、近くで桂が出たらしい。何でも、若い女を人質にして連れて行ったとか。貴公子の名も落ちたもんだな」
「案外、人質じゃなくて仲間かもしれないよ?」
「へぇ?じゃあ捕まえなきゃいけねェな」
「捕まらないよ。隠れるのは得意なの」
「姫と隠れんぼしたら年単位になるからな」
ふふ、と笑うとおでこを小突かれてまた笑ってしまった。こんな風に冗談を言えるくらいには、空白の時間を取り戻せた気がする。
「姫、渡すモンがある」
そう言って人の気配の少ない屯所を歩き、総悟くんの部屋に促された。
「あ、これ…」
机の上には、見覚えのあるピアスがひとつ置かれていた。片方だけのピアス。確かに、総悟くんにプレゼントして貰ったものだ。
「取っておいてくれたんだね」
「遺品みてぇで良い気はしなかったがな」
「そういえば、もう一つはどこにいったんだろうね。どこか遠くに流れていっちゃったかな」
「かもな」
年月が経っているのに輝きを失うことなく輝いているピアスの片っぽを付けてみる。穴に通し、キャッチをかちりと嵌めると、まるで音楽が再生されたかのように声が耳に届いた。
『アイちゃんピアス開けたの?あれ?それよく見たら左右で違うね』
『うんこっちはあたしの大好きな人の忘れ物。いつかまた会えるといいなって思いながら付けてるの』
せんせー、と呼ぶ高い声が聞こえた気がした。それ以上声は聞こえなかったし空耳かもしれない。でも、この片割れはきっとあの子が持っていてくれている。また、会えるといいね。その時にはたくさん思い出話を聞いて欲しいな。そして、夢のこともたくさん聞かせて欲しい。見守ってあげられないけど、彼女はきっと素敵な女性になるだろう。
「ねぇ、総悟くん。今度お姉さんのお墓参りに行きたいな。ずっと行けてないから挨拶したい」
「そうだなァ」
肩に頭を預け、甘えるように体重をかけると「はしゃいで疲れたんだろ」と呆れられて、それからお墓参りの日取りを立てた。結局、鬼兵隊や桂さんの足取りを掴めず戻ってきた隊士さんたちのぼやきを聴きながら、やっと手に入れた日常を噛み締めるようにして手を繋いでいた。
title by まばたき