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明ける逆夢

「あったかい…」

ぽつりと、誰に言うでもなく溢れた独り言が届き目を開けた。いつの間にか眠りに落ちてしまっていたらしい。寝かしつけるように頬を撫でていた細い指の感覚と手の内にある体温が心地良く、力を入れて更に抱き寄せると鎖骨の辺りに名前の柔らかな呼吸を感じた。

「お前は冷え易いな。少し気温が下がるとすぐに手足が氷になる」

「貴方が朝方に訪ねて来るなり服を脱がせるんだもの。冷えて当然よ」

「別に着たままでもできるが」

「嫌よ、皺になるから」

「とにかく身体を冷やすなよ」

「裸にしておいて説得力の欠片もないわね」

笑い声が耳に優しく響く。名前の纏う穏やかな空気が伝染してまた眠気がやってくる。まだ薄暗い早朝にこの部屋を訪ね今は太陽が登り切ったところだ。このまま深く眠ってしまいたいところだが今日は予定がある。

「……行くか」

「もう少し休んでいったら?仕事で疲れてるでしょう?」

「慣れた物じゃないと落ち着かん」

「良い機会だから止めたらいいのに。サングラス」

「そうだな」

肯定しながらも身を起こしシャツに袖を通しているとその後ろで呆れが混じった溜息をついた名前も起き上がり、下着を身に付けクローゼットから無地の白いシャツワンピースを取り出した。薄く繊細な筆で描いたような身体の曲線のやや下、脇腹に咲く百合は季節や気温など関係なく今日も美しく咲いている。虐待の跡の上に描かれたそれは長らく彼女の精神を蝕み続けた過去と決別した証でもある。
名前の持つ服の多くは白く柔らかな素材の物だ。今日はそれに細身のデニムを合わせ軽く化粧をし髪を緩く纏めると身に付ける手作りのアクセサリーがより一層際立つ。合間に淹れられたコーヒーを飲みながら一部始終をじっと見ていると流石に見過ぎだと文句を言われた。

「もしかしてまた脱がす気?」

以前『白い服を着ると脱がせたくなる』と言って以来着替えの際は警戒されている。何なら黒い服でも脱がせたいとは思っているが口にしないことにする。

「お前が白を着て並ぶと目立つ」

対照的な黒いジャケットを羽織り隣に立つと真逆の服装の男女が鏡に写った。

「でも、河上さんもそれを羽織る前は白いシャツを着ているからお揃いね」

「そういうことを言ってるんじゃない」

最近の名前の言葉は常に前向きだ。ここに越してきて暫く経つが夜中や朝方に訪ねればきちんとベッドに入り睡眠も取れているようだし体調も安定している。

「ねぇ、やっぱりこれ返したいんだけど」

「口座に直接振り込んだ方がいいか?」

「そうじゃなくて、人のお金を勝手に使うのは気が進まないわ」

取り出した黒いカードは俺名義で自由に使って良いと渡した物だ。ビルの火事で屋敷に置いていた物以外全て燃えてなくなってしまった為、身の回りの物や商売道具の多くを失ってた名前にできることと言えばこれくらいしか思いつかない。俺は幸い金には困っていない為何の支障もないが彼女には気が進まないようだった。

「なら買い物には出来るだけ同行しよう」

「…あまり変わらないけど」

「とにかく万が一の事を考えて持っていろ」

この話は終わりだというように名前の手の中にカードを戻しマンションを出ることにした。新しいサングラスを受け取る為店舗に向かう。あの一件で無くしてから直ぐに代わりの物を買ったがどうも落ち着かない。結局またアレと同じ物を取り寄せることになったのだった。

「二人で昼間に出歩くのは初めてね」

「午後はお嬢と約束があるんだったか」

「そうなの。この間一緒に作ったドライフラワーをレジン加工してアクセサリーにしようと思って」

名前が屋敷を出てからもお嬢との交流は続いていた。頻繁に会うことは叶わないがそれでも限られた時間を有意義に過ごしているようだ。お嬢もいい気晴らしになっているだろう。その時、背中に馬鹿みたいにデカい声がかかった。

「おい!久しぶりじゃないか!」

明らかに自分に向けて声をかけられているが足を止めることはしない。面倒な奴に見つかったものだ。肩を叩かれ嫌々振り向けばにやけ切った男の顔。

「お前が真昼間に出歩くのは珍しいな!」

「往来で声をかけて来るな」

まるでこちらの話を聞いていない平賀は私服姿にコンビニの袋を下げていた。休暇か張り込み中のどちらかだろう。

「こっちは仕事中なのにデートとは羨ましいことだ。俺なんてもう三日も家に帰ってないんだよ」

「こんな所で油を売ってる場合か?」

「買い出し担当なんだ」

そこでようやく隣の名前に視線を移した。しかし初めから本題はこっちなのが丸わかりだ。パーカーの紐を無駄に引っ張り伸びかけた髭を隠すように顎に手を当て話しかける。

「もしかして貴女が例の彼女かな?噂通りの美人だな!初めまして、平賀と言います」

「名字名前です。初めまして」

穏やかに微笑む名前に此奴は麻取だぞと言ってやればどんな顔をするだろう。平賀は例の件で取り調べに直接関わっていない為二人はこれが初対面だ。

「初めて河上さんのお友達にお会いしました」

「友達かー、いや腐れ縁とも言えるなぁ」

明るい声色に名前も警戒なく言葉を返す。人の良さそうな話し方と人懐っこい振る舞いが平賀の武器とも言える。

「万斉のこと宜しく頼むよ。かなり無茶をするんで周りも手を焼いてるんだ。この間の件も後処理が本当に大変で…おっと、まぁでも、最近は静かになった方か」

「……?はい」

「仕事はまだ落ち着かないのか」

「ああこの件が片付くまで酒を飲むのはもう暫くお預けだな。晋助さんに宜しく。どうだい名前さんも一緒に」

「断る」

「そうカリカリするなよ。大丈夫だ、どこからどう見ても仲の良いカップルに見えるよ」

「…それはそれで問題だ」

「ははは、最近のお前は人間味があって良いな」

じゃあまたなと笑いながら去っていく男の背中を眺めている名前の手を取り再び歩き出すと半歩後ろで「意外だったわ」と呟いた。

「組の人以外にあんな明るいお友達がいたのね」

「友達とは違うがな」

「でも良い関係なのは分かるわ」

それは仕事上致し方ないことだと言ってしまえばそれまでだが確かに組の人間以外で本質を疑わなくて良い数少ない人間のうちの一人ではある。意外にも興味を持ったらしい名前はしばらく平賀の事についていくつか質問してきた。

「…そんなに奴が気になるか?」

「平賀さんとどんな風にお酒を飲むのか想像してるだけよ」

怒らないで、と何故か楽しそうに笑い腕を絡ませた名前の指に収まっている細いゴールドのファッションリングが輝いた。眩しい。やはりこのサングラスはダメだ。

それから滞りなく新しいサングラスを受け取り、少し早いが組の屋敷に戻ることになった。門をくぐった所で名前が呟く。

「ねぇ、少し顔を見せて」

無言で黒い縁を下にずらすと飛び込んできた光に思わず目を細めた。名前はごめんなさいと笑い両手の指の腹で優しくそれを戻した。

「かけるのを止めたらって言ったけど、河上さんの素顔を独り占めできると思うと悪い気はしないわ」

「独占欲か」

「悪くないでしょ?」

「…悪くないな」

不意にキスしたい衝動に駆られ顔を近づけると名前も目を閉じた。あと少しで唇が触れ合う、という時に視線を感じ顔を上げる。丁度後から門をくぐってきた晋助とお嬢の姿があった。

「気にするな。続けてくれ」

にやりと口角を上げる晋助。その横でほんのり赤らんだ両頬に手を当て何度も首を上下に振るお嬢。

「…遠慮しておこう」

一歩引いて距離を保つとお嬢は名前と挨拶を交わし楽しそうに会話を始める。晋助の手には紙袋があった。ああそうだ、二人は病院から戻って来たんだ。今日は彼奴が戻る日だから。

「只今戻りました。いやぁ、病院食の不味さには驚きましたよ」

「…武市」

門をくぐり砂利を踏み締めた武市は未だに頭に包帯を巻いていたが足取りはしっかりとしている。

「武市さん!良くなって本当によかった…!」

「ああ名前さん、ご心配をおかけしました。この機会にと晋助さんから休暇を頂いて楽しみましたよ。お嬢からたくさん本を差し入れていただいたものですから有意義に過ごせました」

名前が心底安心した様子で武市に駆け寄った。二人が顔を合わせるのはあの事件の日以来だった。重症で病院に担ぎ込まれた後は組の者以外の面会が出来ずずっと心配していた。今日の退院のお陰で顔を合わせる度に『武市さんの具合いはどう?』と聞いてくる日々がやっと終わる。内心俺は別の意味で退院が待ち遠しかった。

「わたしのせいで大怪我をして本当にごめんなさい。……ありがとう。武市さん」

「高杉組の男なら誰でもああしますよ。何より今貴女が無事でいる事を誇りに思います。五体満足で戻って来てしまったので早速明日から仕事に復帰しますよ」

「お前も護身術か何か習ったらどうだ?」

「そうですねぇ。まずは鎧でも着て運転しましょうか」

「鎧を着た運転手なんて変なの」

お嬢と名前が顔を見合わせてくすくすと笑うと武市もいつものように笑い声を上げた。




その日の夜は武市の快気祝いが行われた。お嬢や来島と並んで楽しそうに話に花を咲かせていた名前は酒を飲んだようで俺の部屋のソファでうとうとと船を漕いでいる。

「酒が弱いのは意外だな」

「…今日は特別、久しぶりだったから」

「泊まっていくか?朝には送って行ってやる」

「………だめ、帰らないと…。ただでさえここに出入りするのは良くないのに…」

そう言うが話しかけていないと今にも深く眠ってしまいそうだ。肩に預けられた身体にはほぼ力が入っていない。甘えるようにもたれ掛かる重さが愛おしい。抵抗しないのをいいことに髪や頬を撫でていた手を下ろし白いワンピースのボタンを3つほど外して滑らかな肌の温度を確かめる。普段よりもしっとりと熱の篭ったそれは誘っているのかと思うほど手によく馴染む。

「…ん…、」

鼻から抜けるような艶かしい声が耳に響いてすぐに消えた。その甘い余韻が頭にこびりつく。もう一度聞きたいという欲求に従って薄く開いた唇に触れ舌を滑り込ませれば応えるように熱く濡れた舌が絡まる。

「だめ……」

「起こしてやってるんだがな」

「だめ、だってば……、ん…ふ」

溢れそうになる唾液を吸いあげると肩が震え、拒否する為に持ち上げた腕は結局俺の首の後ろに置かれ寧ろ引き寄せられているかのように見える形になった。角度を変えてキスをしている間にシャツのボタンを全て外し終えた。柔らかな胸を包む下着の縁を指でなぞり、時折わざと素肌に触れると焦ったいと言わんばかりに息を吐く。次にジーンズを中途半端に下げ布の上からゆっくりと擦り上げれば悩ましげに眉を寄せる。碌に触れてもいないのに次第に湿り気を帯びてくるのがわかる。今度は親指で押し込めるように圧をかけた。

「っん、ん…」

「止めるか?なら服を着ろ」

「…、ぁ、止めないで……」

ついに理性に負けた名前は脱がせてと言うように腰を浮かせた。ジーンズを足から抜き取り膝を立たせると白い肌にはだけたシャツワンピースがこれ以上ないほど良く映える。

「素直が一番だな」

「んん、ぁっ」

指を突き立て中を解し十分に濡らしてから自らも前を寛げ名前の中に滑り込んだ。止まらずに奥まで押し込めビクッと腰が跳ねるのを抑えてから馴染ませるように少し揺らすとようやく薄らと目を開けた。

「目が覚めたか?」

「…河上さん、…」

「どうした」

「お嬢様が貴方に懐いてる理由が分かったの」

「……その話、長くなりそうか」

行為の最中に他の女の話を持ち掛ける女が何処にいるんだ。しかも繋がっているというのに。

「お嬢様が貴方の事を好きな理由はね、初めて二人で話した時に頭を撫でる手つきが若頭さんに似ていたからだそうよ。不器用で慣れてなくて、でも優しい人だって伝わってきた。だから安心したんだって教えてくれたの」

素敵な話だったから忘れないうちに伝えたくて、と言われ記憶が引き戻される。確か…初めて触れたのはお嬢がこの屋敷に来てしばらく経ってからだった。まだ殆ど花のなかった庭で池をぼうっと眺めていた小さな背中。まるで捨て猫が行き場を探しているかのようだった。その頃はまだ晋助との関係も距離があり、周りも突然連れてこられた『隠し子』への扱いに戸惑っていた頃だ。

『鯉を見るのは初めてか』

『…うん』

会話に意味はなかった。この子は鯉なんて見てもいないし興味もないだろう。ただ思い出の中を泳いでいただけだったのだから。

『家に帰りたいか』

『『おとうさま』が…ここがわたしの家だからって…ここの人達は家族だからって…だから、ここにいる』

大層聞き分けのいい子どもだという印象だった。父親の教育の賜物か。それでも丸まった背中は寂しげで視線を彷徨わせまた池に視線を落とした睫毛も所在なさげに伏せられている。いっそ子どもらしく泣いて嫌だと駄々をこねられた方が大人としては対応が楽だというのに。そういえばここへ来てからまだ泣いた顔も笑った顔も見たことがなかった。特に俺への警戒心を感じていた。笑うことは苦手だし目つきも悪いから怖がっているんだろう。

『中に入らないと熱を出すぞ』

『……うん』

『俺が怖いか?』

『………ちょっとだけ』

一向にこちらを見ようともしない子どもを見下ろしいっそこのまま置いていこうかとさえ思った時、胸ポケットに車を運転した際に使ったサングラスがあったことを思い出した。それをかけ、足を折り、お嬢に目線を合わせる。

『まだ怖いか?』

やっとこちらを見上げ零れ落ちそうな瞳を丸くしてぱちぱちと瞬きを繰り返すお嬢はまさに年相応の子どもの反応だった。それを見て無意識のうちに小さな頭に手を置いた。本当に、置いただけ。子どものあやし方など知らない。ただ一度、晋助がこの子にこうしている所を見かけたことがあった。あれの見様見真似だ。その時は後ろ姿でどんな表情をしていたのか見ることはなかったが…。

『…こわくないよ。ありがとう』

そう言って花が綻ぶように笑った。胸の内で何かが溶けたようなじわりとした温かさが広がってすぐになくなった。そうだ、あれからだ。俺が屋敷の中でも常にサングラスを掛けるようになったのは。他の理由なんて後付けに過ぎなかった。今となってはあまりに些細な出来事ですっかり忘れていた。


「何か思い出した?」

「…あんな昔のことを…」

「その昔の思い出を、お嬢様はずっと大切にしているのよ」

微笑む名前の表情に心臓がじり、と焦げたようにひりついたのはきっと彼女の心の温かさが何倍にもなって届いたからだ。

「その話を聞いて何故かすごく嬉しかった。貴方の優しさがお嬢様の心を解いたのね」

「…そうか」

そう言う名前の優しさこそが、何度俺自身を救っただろう。何度も暗闇に飲まれそうな心を照らしてきただろう。手離そうと、突き放そうとしても…何度も。

「…ねぇ、そろそろ動いて?」

「止めさせたのはお前だ」

焦らされたのはこちらの方だと言うのに。大切な話ではあったが何も今するような内容では無かった筈だ。意地悪心が働いてただ見下ろしていると動く気はないと悟った名前は首の後ろに腕を回し身体を密着させて腰を浮かし上下に揺すり始めた。同時にきゅう、と肉壁が収縮する締め付けにぞわぞわと背筋が痺れる。動きはゆっくりだがそのお陰で神経がナカの感覚に集中する。

「ん…きもちい」

「酔うと積極的になるタイプか」

「とっくに醒めてるわ」

「そんな顔をしてか?」

うっとりと解けた表情はいつもより血色良く、色づいた頬は幼さも感じられる。快感に対して素直に甘えてくる姿は貴重だ。見つめてくる視線さえ取りこぼさないように顔を近づける。

「好きよ」

「その言葉も随分良い慣れたな」

「気持ちの安売りはしてないつもりだけど」

「分かってる」

「あっ、待っ、て!」

今までゆっくりと動いていた腰を抱え自身で中を掻き回す。突然激しく動き始めたことで驚いた名前は必死にしがみつき甘い声を上げた。

「やっああ、だめ、声、が」

「どうせ広間でまだ飲んでる最中だろう」

「でも、あっ!あぁっこれじゃ直ぐ…っ」

「イキそうだな。絡み付いて締め付けてくる」

「おねがい、止まって…っ!あぁ、あっかわかみさ、」

「っ、名前」

酒を飲んで敏感になっていた身体は何度も絶頂を迎えた。当然ながら行為が終わる頃には体力と眠気の限界で眠りに落ちた名前をベッドに寝かし目が覚めた時のために水を取りに部屋を出て歩いていると、同じように宴会を一足先に抜けていた風呂上がりのお嬢に出くわした。

「お姉さんは?」

「部屋で休んでいる。大分酔ったらしい」

「また子さん、女の人と一緒にお酒飲めるの久しぶりだって嬉しそうだったからお姉さんもたくさん飲んだんじゃないかな」

「そうか」

記憶の頃より随分大きくなったその頭に手を置いてシャンプーを終えた髪を撫でた。

「…どうかしたの?お姉さんと喧嘩した?」

「…いや」

名前を抱きその髪を撫でた後に何気ない顔をしてお嬢の頭を撫でることにえも言われぬ罪悪感があった。これで良かったのだろうか。自分だけが名前という光によって暗闇から救われ、満たされているのではないか。お嬢は少なくとも数年後には許婚と結婚しここを出て行く。俺にも、晋助にさえも届かない距離へ。そうしたら一体誰がこの子の頭を撫でてやれるだろう。身体の弱いこの子はまた小さな背中を丸めて池の鯉を眺める生活になってしまうのではないか。
お嬢は無言で頭を撫でる俺をじっと見上げていた。

「どうしてそんなに寂しそうなの?万斉さんにはお姉さんがいるのに」

「そう見えるか」

「何かが変わってしまいそうで怖いの?」

「…お嬢は何でもお見通しだな」

手を下ろすとふわりと花の香りが舞う。シャンプーのものか、それとも庭から香るのか判断がつかない。

「前にも話したけど…、万斉さんは自分以外のことを考えすぎなんじゃないかな。今まで晋助や組のことばっかりだったでしょ?これからはお姉さんのことをもっともっと考えてあげて。万斉さんが自分で見つけた唯一の人を大切にして」

「………」

「サングラスももう、しなくていいんだよ。怖くないよ。優しいよ、万斉さん。貴方が自分で思っているよりもずっと」

今度はお嬢が俺の手を取り持ち上げた。はめられた指輪を見て浮かぶのは……。

「大切なものって手に入ると無くなっちゃうのが怖いでしょ?でも大丈夫だよ。形さえ失わなければ直せるから。もしも、いつか形が無くなったとしても…一緒にいた時間は絶対に消えないから」

…それは彼女自身が自分にも言い聞かせているかのようだった。お嬢は高杉組に引き取られたあの時からずっと大人の言いなりになって閉じ込められているわけではない。籠の中でも何ができるか考え続けることがこの子の強さだ。

「お嬢、何度も背中を押してくれてありがとう。俺は名前を大切にする」

「うん。万斉さんとお姉さんなら大丈夫だよ」

「それと、サングラスはもう暫くかけていることにする。外した時に喜ぶからな」

「だったらずっと外してればいいのに」

「男の気持ちは複雑なんだ」

「ふふ、女の子もそうだよ」

最後にもう一度、お嬢の頭を撫でた。




早朝、名前を送る為に組の玄関の戸を開けると雨が降っていた。しとしとと落ちる雨粒は初めて会った日のことを何度でも思い出させる。

「河上さん、これ…」

名前が手に取ったのはお嬢がくれた蛇目の傘。あの日、乱闘で壊れた筈だ。しかしそこにあるのは紛れもなく何度も使い手に馴染んだ傘だった。

「お嬢の仕業か」

お嬢から貰った物だと知っている舎弟が現場から持ち帰って来たのを修理に出したのだろう。

「『形さえ失わなければ直せる』…か」

敵わないと、つくづく思う。与えてやりたいと思いながらいつの間にか抱えきれない程のものを与えられている。流石、高杉組若頭の妹だ。

「行こう」

広げた傘は二人入っても十分で、まるで初めからこうする為に造られたかのようだった。雨粒が傘に落ちる度にぽつぽつと立てる音が不思議と不快ではなかった。

「雨が降ると初めて会った時のことを思い出すわ」

「俺もそう思った所だ」

「梅雨の間、この傘をさした人が店の前を通らないかって窓の外を眺めていたのよ」

「…名前」

「なに?」

「いつか…この指に合う指輪を作ってくれないか」

空いた片手で名前の左手を取り何も付けられていない薬指を撫でた。意味を悟った名前は突然のことにその指に目を落としたまま固まった。

「…そういうのは男性が用意するものじゃないの?」

「オーダーメイドを受け付けているんじゃなかったのか?」

「いくらなんでも自分の結婚指輪を作るのは複雑だわ」

「それもそうだな」

「婚約指輪なら作っても良いけど」

「違いがわからないが、それを頼む」

「いつまでに?」

「俺が死ぬまでに」

「急がなくちゃ」

いつかこの関係が壊れるかも知れない。近いうちに自分がこの世から居なくなるかも知れない。そんな下らないことを考える意味は無い。目の前に名前がいる、そしてこの心臓が動いている。それだけで充分だ。

「名前」

「どうかした?」

「俺の物になってくれ」

「なってるけど…?」

不思議そうに見上げ言葉の意図を探す名前の唇に触れてから雨に濡れないよう腰を引き寄せて歩き出す。

「河上さん、たまには万斉って呼んでも良い?」

「ああ」

雨音と足音がまだ誰も歩いていない朝の曇り空まで響きそうだ。二人の会話は秘密ごとのようにその音に掻き消されていった。


title by 誰花
おまけでした。2021.1.21