「せんせー、死んでるの?」

顔筋、と一人の女生徒が手を挙げて発言した。

「私の筋肉は壊死しておらず正常に機能しているため、死んでいません」

せんせー、と呼ばれた男はただ淡々とそう答えた。そのやりとりを見て、周囲の生徒は小さな笑い声を漏らしたり、あからさまに笑ったり、興味が無さそうにしていたりと様々な反応をしている。
しかし男は意にも介さず、授業を続けるために再び黒板に顔を向けた。
静かに眼鏡をよい位置に直し、この問題がわかる人、と再度問いかけを始める。


「榎原せんせー」

授業と授業の間の休憩時間が、もう間もなく終わりに差し掛かるとき。榎原(エハラ)と呼ばれた男は声の聞こえたほうに顔を向けた。そこにはへにゃりとしたなんとも緩い笑顔を浮かべた生徒がいる。

「なんですか」
「すーがく、わかんない」
「そうですか」

彼女は先だってこの男に「死んでるの?」と手を挙げて聞いた当人である。その彼女の言葉を聞いて私の技術不足ですね、と榎原が静かに呟くと、女性徒―水崎(ミサキ)は、慌てたように手を大きく振った。なんだなんだと周囲の生徒が視線をちらちらとむけてくる。水崎は少し口ごもりながら、言葉をくちにした。

「わかんない…けど、榎原せんせーおもしろいから授業は好き」

にこ、と人好きする柔らかい笑顔だ、と榎原は彼女の顔を見て思った。対して自分はといえば、笑うことも悲しむことも怒ることもなく、ただただ無表情。仕方が無いとはいえ、なんと面白味のないことだろうか。榎原せんせーはねえ、顔が動かないのも面白いし、話し方も好き!そう話す水崎は表情がころころと変わっていて、どうやったらそんなに表情が変わるのだろうかと榎原は静かに首をかしげるが、ほんのわずかな角度だったので気づかれることはなかった。


人間とはなんと面白いのだろう。ほかの生物にははっきりとは見受けられない心が、人間はあからさまに、手に取るように見ることができる。喜怒哀楽、それは人間の特権だった。
カッカッ、と白いチョークが黒板の上を走る。
背後では生徒が黙々と、または熟睡して授業を受けている。生徒に数学を教える、それが私の仕事。授業が終わり、黒板を綺麗にする。白い粉が舞い、すこし空気が粉っぽい。次の授業は体育のようで、男女ともに更衣室へと移動していた。やがて黒板はもとの緑色をとりもどした。

「せーんせ」

榎原が声に振り向くと、彼女がいた。表情が豊かな、水崎。彼女は後ろに手をやりながら、見上げるように榎原をのぞき込んでくる。柔らかな髪の毛が、ふわりと動く。

「水崎さん、次は体育では」
「そーだけど、私体が弱いの」
「そんなわけないでしょう」
「えへ、ばれた?」

にっと笑う。まるで太陽のようだと、言葉の表現をあまり知らない榎原は思った。まぶしい。少し目を細めると、水崎はそれに気が付いたのか、不思議そうな顔をして「どうしたの?」と聞いてくる。

「いえ、あなたの笑顔は太陽のようにまぶしいと思っただけです」
「……く、口説いてるの?」

思ったままをいうと、水崎は寸の間呆けたようにしてから手を前で慌てるように動かし、言った。目が泳いでいる、顔が赤い。…はて。

「口説く、とは水崎さんが私を好きになるよう誘導しているということであっていますか」
「そーだけど、え、そんなはっきり言葉にしないでよせんせーのばかっ」

とうとう両手で顔を隠した彼女。なにがそんなに恥ずかしかったのか、耳まで赤くなっているようだ。面白いな、と榎原は思う。

「口説いていませんよ、それより授業に行くべきでしょう」
「…う。わかってますよー。夢見たっていいじゃない…」
「夢は寝るときに見るものです」
「はいはい!いきます――!」

そうして水崎は教室をでていった。しかし体操着などは一切もっていかなかったので、見学かさぼるのだろう。
――人間は面白い。
榎原は再度、そう思った。


その時間、もう教室は夕日で真っ赤に染まっていた。
教卓の上で学級日誌を開いた。
『今日は楽しかったです』
備考の欄に、日直だった水崎が書いた言葉だ。楽しい、とはどんな感覚なのだろう。
面白いはわかる、けれど。心躍る?それが楽しいのだろうか。考えると、自然と彼女の柔らかで、朗らかな笑顔が目の前に浮かんだ。

「笑ったら、それは楽しい、ということでしょうか」

ぽそりとつぶやいた。

「そーだよ、せんせ」

ひょいっと教卓の向かいから覗いた顔。どうやらいつのまにか移動してきて、隠れていたらしい。驚かない榎原につまらなさそうな表情をしているところから、驚いてくれることを期待していたようだ。ぱたん、と日誌を閉じる。

「水崎さん、もう帰る時間ですよ」
「そんな冷たいこといわないでください〜」

時間は五時。もし家が遠いのならば、あまり長居しているのはよくないだろうと促すとふくれっ面をされた。そう言ってから水崎は、じっと榎原の眼を見上げた。
彼女の明るい茶色がよく見える。白い肌は赤く染まり、どこか煽情的でもあった。

「せんせ」

小さい声。

「好き」

感情のこもった声。
彼女の茶いろの眼は、榎原をじっとみている。榎原も、水崎の眼をじっとみている。
いつのまにか、赤が一段と増していた。

「水崎さん、ありがとうございます。しかし、不可能です」

生徒と教師が結ばれることはありえません。あなたと私は、存在から違いすぎます。
淡々と、事実を述べる。榎原の口からでる言葉は、相も変わらず空虚で白かった。

「私たちに、感情はないのです」

だからこそ、あなたたちが私たちの代わりに感情豊かなのですから、と。

「わかってる、よ…でも…っ」それでも、好きなの。

くっと涙をのみこむように彼女はうつむいた。その彼女を見ても、榎原の心は動かない。

「私は、まがい物だとしても、先生が、好きなの…!!」

心に秘め続けていた感情、心を苦しめ続けていた感情。それを彼女は放つ。彼に届く様にと。
榎原はその言葉に、ほんの少しだけ笑った。

「私はあなたがうらやましい。…感情とは、楽しいのでしょうね」
「………、こんなの」つらいだけだよ

次に顔をあげた彼女は、悲しそうに笑っていた。その手はかきむしるように胸をさまよっている。

「こんな感情、本当はいらないのに…なんで、あるの…」
「せっかくあるというのにですか」
「ない人には、わかんないよ。私たちの気持ちなんて」

ねぇ、せんせ。水崎が呟いた。なんですか、と問うと、再度好きといわれる。
ありがとうございます、と返すと、水崎は苦しそうに顔をゆがめた。そしてくるりと振り返り、窓枠へと走っていった。

「ねぇせんせ、夕日、綺麗だね」
「そうですね、自然のものは、どれも美しいです」
「そうだね。…せんせも、綺麗だよ」

窓枠に手をかけながら、振り向いた彼女は涙を流していた。つうと透明の滴がほほを流れ、床にちいさな水たまりを作る。
赤い日差しがそれに反射して、真っ赤だ。彼女の眼も、肌も、私の頭の中も。

「じゃあね、せんせ」

ふわりと彼女が飛ぶ。スカートが夕日に赤くきらめき、舞った。
彼女は、酷く楽しそうに笑っていた。
窓枠に手を置き、下をのぞくと同時、ガシャンと音がした。彼女だ。
数メートル下の彼女は、笑ったまま壊れていた。あたりに破片が散り、周囲の生徒は慌てて教師を呼びに行っている。きっともう、彼女はだめだろう。

少し手を動かすと、窓枠に彼女が置いたのであろうカッターがあった。それが榎原の手首をひっかいている。

「なぜ、彼女は壊れてしまったのでしょう」

榎原は血の垂れた手首を見ながら、首を傾げた。
分からない、人間のワタシには。
感情を失った人間の代わりに、感情を得たロボットは、苦しいのだろうか。

「まがい物だとしても、好きなの」



彼女は、死に際笑顔だった。

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