昨日から、苗字の様子がおかしい。
いや、「おかしい」というのは少し過ぎた言い方かもしれない。普通に見ているぶんには特に変わりないのだ。だけど、なんとなく違和感がある。
もしかすると思い過ごしかもしれないが……しかしどうも引っかかる。
俺が彼女の違和感に気がついたのは、昨日の勉強会が終わった頃だった。俺は志摩につきっきりで苗字の様子はほとんど一日中見ていなかったが、その間に何かがあったのだろうか。
「……なあ、苗字」
徐に声をかければ、苗字はどうしたの?と笑顔で返事をした。やはりどこか空元気に思える。
「昨日、なんかあったんか?」
「へ……」
「勉強会から帰ってきてから、なんか違和感ある言うか……元気あらへんやろ」
「えへ……、そうだった?」
苗字は困ったようにはにかんだかと思えば、珍しく浮くのを止めて椅子に腰かけた。俺もその隣の椅子に腰掛ける。
「言いたなかったら言わんくても構わへんけど、お前がそう元気ないとなんや気になってまうんや。俺にできることならやってやれるし」
「ありがとう竜士くん……えっと、でもね!全然そんな大したことじゃないんだよ!」
苗字は目の前で広げた両手を大袈裟に強く振ってみせた。
「ちょっと…………その、家族のこと、思い出しちゃって」
苗字は双眸を僅かに揺らめかせながら静かに息を吐いた。
「……わたしね、3日前に
「……」
「でもね、それはきっと……、……無意識のうちに、お父さんや……お母さんのこと。考えないようにしてたんだろうなって、思ったの」
一言話すごとに苗字の顔が下を向いていき、途切れ途切れのその声はだんだんと小さく掠れたものになっていく。
「昨日ね……しえみちゃんのお母さんと、ちょっとだけお話ししたんだ。そしたら、お父さんとお母さんのこと、思い出しちゃって」
震えた声が一音一音をゆっくりと繋いでいく。
ぽたぽたと机上に雫が零れ落ちた。
「もう……お父さんやお母さんと話せないのかなって考えたら…………涙、止まんなくなっちゃって……」
そう言って顔を上げた苗字はぼろぼろと涙を零しながら、「おかしいでしょ」と言って苦しそうに笑ってみせた。その拙い笑顔が俺を沈痛な思いにさせる。
何もおかしくなんかない。
ある日突然わけもわからないまま死んだと言われ、別れの挨拶も心の準備もできずに二度と両親と接することができなくなるなんて、普通の少女に耐えられることだろうか。現に彼女は自分の思考に蓋をすることで両親への思いを誤魔化し、自分を守っていたのだ。
苗字の両親に会おうと思えば、それは不可能ではない。彼女は自身が住んでいた場所をしっかりと覚えているのだから、その場所に連れて行ってやればいい。
しかしそんなことをしたところで彼女は今は
そう思い声を掛けあぐねている間にも苗字はボロボロと涙を零しそれを必死で拭うものだから、俺は咄嗟にその細い両の腕をそれぞれ掴んでいた。
「め……目ぇ擦ったらあかん」
「…………っ、……」
ばちとかち合った彼女のひどく潤んだ瞳が俺の胸を突き刺す。それを見ているのはどうにもたまらなくて、苗字の頭を胸元に押し付けた。
触れた部分から彼女の身体が嗚咽に揺れるのが伝わる。空いた左手で背中をゆるゆると摩ってやれば、僅かに落ち着き出したような気がした。
「りゅ……じ、くん」
不意に俺の名前を呟いた苗字は息を整えようと深呼吸しつつ、そっと背中に手を回した。
俺の腕の中に収まる苗字がなんだかとても小さく思えた。
「……苗字。なんか俺にできることがあったら言いや」
俺が、彼女を守ってやらなければ。
「うん……ありがとう。じゃあひとつ、いいかな……?」
「……! ああ。どないした?」
「あのね……その、名前で呼んでほしいなって」
「名前で……?」
彼女の頭を掌で支えたまま身体から少し離し、視線を交わらせた。
苗字は家の名なわけであるし、家族のことを思い出してしまうから気分が良くないのだろうか。
彼女の涙が引いた瞳をじっと見つめたまま、名前。と、小さく呼びかけた。なんだかこそばゆい気恥ずかしさだ。
すると苗字……もとい名前は、にこと目を細めて笑った。
「えへへ……っ、はぁい」
間延びした返事をする彼女は実に満足げで、そのゆるやかな笑顔がかわいいと思った。
そうしたところで不意に、今の自分の体勢はもしや名前を抱きしめるような形になっているのではないかと気がついたものだから、咄嗟に彼女に寄せていた手を解放させた。その行為に名前はきょとんと首を傾げる。
しかしすぐに「ずっと名前で呼んでもらいたいなって思ってたんだ」と言って微笑んだ。
「だって、わたしは竜士くんの使い魔なのに苗字呼びなのってなんかよそよそしいもんね!」
せやな、と一瞬頷きかけてしまったが、すぐに思考が停止する。困惑で眉間に皺が寄るのを感じた。
「は……?!そないな理由なんか?!」
「えっ、ウン」
至極当然のことかのようにこくりと首を縦に振る彼女に開いた口が塞がらない。
普通、今の話の流れでそんなことを提案するだろうか。彼女はタフなのかただ単に抜けているのか、もはやよくわからない。
ふと、目の前の名前に改めて目を向けた。
すぐにその視線に気がついた彼女はどうしたのかと僅かに首を傾ける。
たしかに彼女の性質は些か不思議なものだが、俺が名前と呼ぶことで笑ってくれたのは事実であるし、これで彼女が喜ぶのならそれでいいだろう。名前くらい、いくらだって呼んでやる。
「名前。そろそろ昼時やさかい、昼メシ行くか?」
「うん!」
元気よく返事をした名前と一緒に、俺は部屋を後にした。