Saturday (3/3)

「高校はどんなところだったの?」
「えっ?」

 ふとグラスの中で氷が溶け、カランと音を立てた。

「名前ちゃんが通ってた高校。どんなところだったのかなあって」
「えっと……」

 記憶の中のその姿を頭に思い浮かべる。
 どこにでもある、普通の高等学校。強いて言えば少しだけ勉強に力を入れていたかもしれない。
 何か専門的な知識を学んだりするような学校ではなかったし、本当に、ただただ、平凡な学校だったと思う。

「どうだったかなあ……。中学の頃仲が良かった友達とはみんな高校が離れちゃったし、特段仲のいい子もいなくて。部活とかもやってなかったから……」

 あんまり印象に残ってないんだよね、と話したところで、しえみちゃんが眉尻を僅かに下げて黙りこくるのに気がついた。しまった、空気が暗くなってしまった。
 どうにかその雰囲気を入れ替えたくて、咄嗟に残ったミルクティーを飲み干した。

「し、しえみちゃん!すっごく美味しかったから、よかったらもう少しいただきたいな!」

 苦し紛れに小さく溶けた氷だけが残ったグラスを掲げれば、しえみちゃんはぱあと表情を明るくして笑った。

「うん!あ、でも実はハーブが切れちゃったんだ。たくさん持ってきたつもりだったんだけど……」

 しえみちゃんが立ち上がるはずみで椅子が小さくギシと鳴いた。着物の裾と袖を翻しながらくるりとこちらへ向き直る。

「他のみんなにも飲んでもらいたいし、わたしちょっとおうちに取りに行ってくるね」
「あっ!わたしも行ってもいい?今特にすることもないし、何かあれば手伝わせて!」

 わたしの提案をしえみちゃんは快く承諾してくれた。
 きょろきょろと辺りを見渡し手頃な扉の前へ移動したかと思えば、懐から鍵を取り出した。あれは、と思ったけれど、わたしが見たものとは少し装飾が違う。どうやら別の物らしい。

「私のおうちはね、祓魔屋っていって祓魔師エクソシスト向けの薬草や聖水を取り扱ってるお店なんだ」

 しえみちゃんはやはり形の合わない鍵穴にそれを挿すとガチャリと回した。何度見ても不思議な光景である。
 押し開ける扉がやけに重そうだなと思えば、開いた隙間から勢いよく風が吹き込んだ。

「わっ……!」

 思わず閉じた瞼越しに光を感じる。ゆっくりと眼を開くと、そこには細い橋が伸びていた。
 身を乗り出してみると、遥か下方に正十字学園町の街並みが見える。ここは高い塔と塔を繋ぐ架け橋のようだ。
 燦々と光の降り注ぐ空を仰ぎ見て、緩やかに登り泳ぐ。いい天気だ。
 ふと前方に目をやると、洋風な塔の頂点には不釣り合いに思える古民家が生い茂る木の中に建っていた。

「あれがしえみちゃんのおうち?」
「うん!」

 笑顔で返事をするしえみちゃんの綺麗な金の髪が太陽光でキラキラと輝いた。
 しえみちゃんが自宅へ向かって橋の上を歩き進めたものだから、わたしもその少し上空をついて進んだ。

「あれ……?お母さん?」
「おや、しえみ。あんた今日は塾の子と勉強会だとか言ってなかったかい」
「うん、だけどお茶に使うハーブが切れちゃったから取りに来たの」

 橋から祓魔屋に続く階段に落ちた木の葉を箒で掃除している恰幅の良い女性は、どうやらしえみちゃんのお母さんらしい。わたしはゆるゆると降下して、しえみちゃんの少し後ろに降り立った。
 するとそんなわたしに気がついたらしい彼女が「おや」と片眉を上げた。

「そちらは?」
「あっ……!この子は名前ちゃん。ゴーストで勝呂くんの使い魔をしてるの」
「はじめまして、苗字名前っていいます!」

 挨拶をしてぺこりと頭を下げると、礼儀正しい子だね、と言ってにっこりと笑ってくれた。目元がしえみちゃんにそっくりだ。

「それじゃあ私はハーブを取ってくるから、名前ちゃんはここでちょっと待っててね!」
「あっ、わたしも行くよ!」
「やめときな。あの子の庭は魔除けの門が囲ってるから、あんたじゃ入れないよ」
「ま、魔除け」

 お店とは別の方向に続く階段を駆け上ったしえみちゃんを目で追うと、黒光りしたやけに刺々しい門の奥へ消えていった。なるほど、たしかになんとなく嫌な感じがする。

「……あの子は塾でどんな感じだい?」
「へっ?」

 突然かけられた声に驚いてそちらへ向き直った。
 どんな、と思考を巡らせていれば、しえみちゃんのお母さんはいやね、と再び口を開いた。

「聞いてるかもしれないが、あの子は昔から外が苦手でね。ずっと引き篭もっていたから、塾で粗相していないか心配でね」

 口ぶりは少し荒いけれど、細められた目元から彼女を想っていることがひしひしと伝わった。
 胸の奥がじんわりと痛んだ。

「その……わたし、実は竜士くんの使い魔になってからまだ間もなくて。しえみちゃんと会ったのも昨日が初めてなんです」
「ああ……そうなのかい」
「でも」

 わたしは一呼吸置いて息を落ち着かせた。

「すごく楽しそうにしてると思います。昨日も今日も、しえみちゃん……ずっと笑ってて。さっきも祓魔師エクソシストになるんだって、嬉しそうに話してくれました」
「…………そうかい」

 わたしの話を聞いて顔を綻ばせたしえみちゃんのお母さんは、やっぱりしえみちゃんによく似ていた。

 ──じわり、じわりと、内臓が掻き混ぜられるような、無数の針に刺されるような、脳の奥が熱く溶けるような、何かが込み上げるような、引いていくような。

 背後から聞こえた「名前ちゃん、お待たせ」なんてしえみちゃんの言葉は、どこか遠くの世界に響いているみたいだった。

 ああ、わたしは無意識のうちに、"それ"についてあまり考えないようにしていたらしい。
 しえみちゃんのお母さんとほんの少し話しただけで、こんなにも想いが巡り巡る。

「………………お母さん……」

 絞り出すように溢れた僅かな声量のそれは、きっと誰にも届かないで、足元にぼとりと落ちた。
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