驟雨に紛う(1/1)


 カチコチと、秒針の音だけが静かに木霊する。塾構内の医務室へ気絶した苗字さんを運んでから小一時間が経過した。
 未だ目を覚まさない彼女のそばには講師である僕の他に、同行を自主的に申し出てきた勝呂くんが神妙な面持ちで黙ったままじっと座っている。

 ちらと眠る苗字さんに視線をやった。神木さんを探すためにパンプスが邪魔で裸足になったのだろうか、足裏が細かい擦り傷や切り傷だらけになっていたのだ。そのためそれだけは手当てしたが、それ以外は特に目立った外傷もなく、気絶しているだけのようだった。
 展望広場で志摩くんが背後に従えていたのは明王クラスの上級悪魔、夜魔徳ヤマンタカだった。夜魔徳ヤマンタカの黒い炎は器には傷をつけず中身のみを滅ぼす。苗字さんが気絶した原因はおそらくそれなのだろう。しかし、一体いつの間に志摩くんはそんな悪魔を使い魔にしていたのだろうか。

 ふと壁にかけられた時計に目をやると、時刻は23時を回っていた。
 自分は講師という立場もあるため苗字さんが目を覚ますまでそばについているつもりだが、勝呂くんはそろそろ帰した方がいいだろう。そう考え、随分と思い詰めた表情の彼に声をかけた。

「勝呂くん。明日の出発は朝も早いですし、勝呂くんは先に寮へ帰ってください。苗字さんには僕がついてますから」
「え……せやけど、明日早いんは先生も一緒やないですか」
「僕は一応講師ですから。生徒を夜遅くまで引き留めておくわけにもいかないんです。心配なのはわかりますけど……」
「…………わかりました」

 渋々といった感じではあるが了承した勝呂くんは苗字さんの顔を覗き込み、掌でそっと彼女の頬を撫ぜた。そして悔しそうに眉間の皺を深めた後、手を離して椅子から立ち上がった。

「じゃあすんませんけど、あとよろしくお願いします」

 そう断って軽く会釈をした勝呂くんは、後ろ髪を引かれるように苗字さんをいくらか見つめながら医務室を去っていった。

 この小一時間で苗字さんだけでなく勝呂くんのことも気にかけるようにしていたのだが、彼は家族同然である幼馴染みの突然の裏切りを受けてかなり動揺しているようだ。それに加えて親密な間柄である苗字さんの昏睡状態で、相当気が参っているらしい。
 勝呂くんは非常に優秀な生徒ではあるが、今の状態は正直かなり危うい。明日からの任務が少々心配だ。

「ん……」

 不意に苗字さんが薄らと声を漏らしたかと思えば、その双眸をゆっくりと開いてみせた。

「あれ……ここは……?」
「よかった、気がつかれたんですね」

 むくりと半身を起こした彼女の背を支えつつ、様子を窺い声をかける。まだかなりぼんやりとはしているみたいだが、意識ははっきりしてそうだ。

「ここは塾構内の医務室です。苗字さん、展望広場で倒れていたんですよ。覚えてますか?」
「……覚えてる……そうだ、わたし廉造くんにやられて……」

 眠る脳を起こすように、苗字さんはひとつひとつ丁寧に言葉を紡いでいく。やはり予想通り志摩くんの夜魔徳ヤマンタカが原因らしい。
 すると苗字さんは突然はっと思い出したように顔を上げ、僕を見て口を開いた。

「出雲ちゃん……!出雲ちゃんはどうなったの?!それに廉造くん、ねむくんも……」
「落ち着いてください、順に説明します。まず僕や塾生の皆さんが到着した時には既にイルミナティと呼ばれる組織が展望広場にいたんです。どうやら志摩くんは……その組織のスパイだった可能性が高いようで」
「スパイ……」
「神木さんはその組織に連れられていってしまいました」
「そ、そんな……出雲ちゃん……」

 眉をハの字に下げる苗字さんはそう声を震わせた。
 あの時、僕の携帯には苗字さんからの不在着信があった。シュラさんと連絡を取っていて出られなかったが、おそらく神木さんを見つけた旨を伝えようとしたものだったのだろう。ということはもしかすると苗字さんはまだ意識があった神木さんと何かやりとりをしたのかもしれない。だとしたら眼前でそれを叶えることができず、相当遣る瀬無いはずだ。

「……フェレス卿の命で、明日から僕と候補生エクスワイアの皆さんで神木さん救出に向かいます」
「え、そんな少数で……?!」
「はい。イルミナティが撤退する際に爆発を起こしたのですが、そのせいでフェレス卿の結界や騎士團本部にも被害があったそうです。落ち着き次第援軍を送られますし、それに……宝くんが」
「? ねむくんがどうしたの?」
「……実は僕も先程聞かされたんですが、宝ねむくんはフェレス卿が外部から雇用した上一級祓魔師エクソシストだそうです。目的地も彼が知っているようで」
「え?!不思議な人だと思ってたけど、いよいよわけがわかんない……」

 混乱して頭を抱える苗字さんに、内心ひっそりと同意する。
 おそらくフェレス卿の持ち駒だろうとは踏んでいたものの、まさか上一級の資格を持っていて、それも塾生達の"監督役"だとは。フェレス卿がそのような計らいをしているのはきっと兄さんがいるからなのだろうが、それだけに留まらないような含みを孕んでいたのが気になる。
 そんなふうに考え事をしていれば、不意に苗字さんから雪男くん、と声をかけられた。

「なんですか?」
「あの……竜士くんってどうしてるかわかる?」
「ああ、勝呂くんならつい先程までここで苗字さんの様子を見ていましたが、夜も遅くなってきたので僕が寮に帰したんです。苗字さんのことをすごく心配して、ギリギリまでずっと気にかけてましたよ」
「あ……そうなんだ、ありがとう」

 そうは言うものの、苗字さんは僕の答えにいまいち納得していなさそうだ。何か別のことを聞きたかったのだろうか。そう考えたところで、ふとひとつのことが思い浮かんだ。

「……勝呂くん、志摩くんにスパイ疑惑が浮上したことでかなり気を揉んでいるみたいです」
「……! やっぱり……」

 どうやらこちらが正解だったようだ。僕の言葉に苗字さんは肩を落とし、小さく息を吐いた。

「竜士くんも子猫丸くんもきっとすごくショックだよね……。廉造くん、どうしちゃったんだろう……」
「そうですね……僕も予想していなかったことなので驚いてます」

 相槌を打ちながら視界の端に入った時計をちらと見れば、どうやらいつの間にか日付が変わっていたらしい。苗字さんは今まで眠っていたとはいえ、こんな夜中まで帰さないのは規律上よくないだろう。僕は椅子から立ち上がり、付近の机に広げた荷物をまとめ持った。

「神木さんのことも志摩くんのことも、明日からの任務できちんと確認しましょう。明日の出発は朝早いですし、体調に特に問題がなさそうであればそろそろ帰りましょうか。送ります」
「うん……ありがとう、雪男くん」

 そう言って、苗字さんは悲しそうに眉尻を下げたままゆるりと微笑んだ。



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