▼ 青い月-前編-2
「晴陽ちゃん…」
再び呼ばれた名前。
観念し立ち上がり、まるで錆び付いたブリキの人形になったかのようにギシギシと首を軋ませて振り返る。
そうすれば、案の定、恐怖の対象が立っていた。
「…どうして?」
私の問いかけに答えることなく、ニコニコと笑みを浮かべているだけの理人君。
真っ黒のスーツに同じく黒いネクタイをしている彼がまるで魔物のように思えてしまう。
「…帰ったんじゃなかったの?」
「帰ったふりをしたんだ。晴陽ちゃんとふたりきりでどうしても話したかったから」
人の良さそうな笑顔を崩さない彼に恐れを押し殺しながら言葉をかけても、それと反比例するように私の動悸は速くなっていく。
「私は話すことなんて何もないよ。それに、作業もあるから独りにしてほしい…」
「駄目だよ。だって、この間は話が途中で終わったでしょ?君からの返事を聞いていないから」
背中を嫌な汗が伝い、足がすくみ微かに身体が震え始めた。
本能的な危機を察知して一歩後ろへと下がる。
すると、理人君も一歩近づいてくる。
「あぁ、言い忘れていたけど、あの時、わざと追いかけなかったんだよ?いきなり色んな事を伝えて動揺しちゃったんだと思ったからさ」
勝手な優しさを押し付けてくる理人君は独り善がりで、なんとも身勝手で。
普段は巧妙に隠されているそれが、今の私には手に取る様に分かってしまう。
後ろに下がった拍子に積み上げていた資料が音を立てて崩れてしまったけれど関係ない。彼もそれを踏み越えてこちらに足を進めてくる。
逃れようと後ずさり続けた結果、とうとう壁に背中がついてしまう。
あまりの動揺に愚かにも、あの日と同じ状況に自ら陥ってしまった。
「これでやっと話せるね。最近ずっと避けられてたから僕、本当に辛かったんだ」
正面に立ちはだかる同僚に、肩越しに両手を壁に付けられて動きを封じられる。
その彫刻みたいに整った顔が、薄暗い蛍光灯の明かりで陰影で際立っている。
間近で鼻に纏わりつくムスクの香り。
本来なら彼の持つ色香を際立たせて、女性ならうっとりするであろう香水のエンドノートに胃からせり上げてくる吐き気。
「気持ち悪い!」
思わず拒絶の言葉を叫ぶ。
全てに嫌悪しか見出せなくて。
いくら見目麗しくても、優秀だったとしてもこの男は所詮異常なストーカーなのだ。
「気持ち悪い?僕が?」
私の言葉に驚いたように目を見開いた理人君。
力が抜けてだらりと両腕を下ろして呆然としていた。
「だって、そうじゃない。私のゴミを漁って、私の行動探って…そんな人と話なんてしたくないよ!」
そう言葉を投げつけて、彼を突き飛ばして扉へと走ろうとする。
ところが、腕を捕まれてしまった。
「離して!」
「嫌だよ。君が僕をこんな風にさせたんだ。責任がないなんて言わせない…!」
凄い力で引き戻され、再び壁に押さえつけられる。今度は腕を掴まれて両手を壁に縫い付けられてしまった。
「そんなの知らないよ!私は理人君は同期の友達って思ってただけだったんだし…」
「知らない!?そんな事許されると思ってるの!?」
離せと言わんばかりに腕を動かす私を力でもって押さえつけて大きな声で詰め寄る同僚。目の色が変わり、眉間に皺を寄せて歯をむき出しにする。こんな彼の表情を見たことがない。
「君のせいなんだ…!」
「んんっ!?」
そのまま、反論を許さないとでも言うように乱暴に私の唇を奪う彼。
無遠慮に舌を捻じ込まれて、歯列をなぞられて私の舌に絡ませられる。
どす黒い感情が注がれて、恐怖と混ざり合う。
マーブルの紋様を浮かべぐちゃぐちゃになっていく。
唇が解放されても舌から伸びた銀糸が彼のそれへと繋がっており、激しさを物語っている。
「…言ってるでしょ?僕は君の事を愛してるんだ」
荒げた呼吸と共に愛を告げるこの人の言葉は私に何も響いてこない。
それどころか悲しくなる。
何を訴えても、分かって貰えない。
ボールをどれだけ投げても、闇の中に転がっていき戻ってこない寂しさ。
「ねぇ、僕がみすみす逃すと思う?」
唇を離した彼が間近で歯を覗かせる。
黒いスーツを纏い立ちはだかる彼は夜の深い森で暗躍する血に飢えた獣の様だった。
「あの時言ったよね?逃がさないって」
そう告げた彼は私のスーツに手をかけた。
2017.5.22
天野屋 遥か
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