ふと見れば、下から顔を覗き込まれていた。
 そうしていると身長差は頭半分だから、割と近い。
 洗顔と、あれこれ塗りつける作業が済んだらしい、ツヤツヤの頬をつまみたくなった。
 もしくはヘアバンドで癖がついて、ぴよんと立った前髪を引っぱるとか。
 前にやったらすごく怒られたのでしないが。

「何食べよう。パン? ごはん?」

 言いながら指を一本、二本と立てる。
 歯磨き中でしゃべれない俺のために、番号で示しているのだ。
 もたれたと言っていたから、パン、と人差し指を立てて答えた。
 ん、とこっくり頷き一口だけのコンロに琺瑯の鍋を置いて、

「目玉焼きとスープでいい?」

 こいつの言うスープはインスタントじゃない。
 ひとりのときはそういうもので簡単にすませるからと、人の手で作ったものを食べたがる。
 自分や他人が作ったものを誰かと食べるのが好きなのだ。
 俺は泡を吐き出して、

「かき玉汁みたいなのにすれば? 洗い物面倒だろ」
「いい? じゃあコンソメだけか、プラスでトマト、どっち? 別のでもいいよ」
「トマトってどうすんの」

 昨日見たとき冷蔵庫にトマトはなかった。
 缶やパックのものだと特売のときしか買わないはずで、戦利品の報告は聞いていないから違う、はずだ。

「トマトジュース。塩入ってないのもらったけど飲めなくて」
「じゃあそれ。ミネストローネみたいにすんの?」
「パスタもベーコンもセロリも入れないけどね。玉ねぎとレタスとミックスベジタブルの予定」
「レタス?」
「トマトとレタスと卵にコンソメって意外にあうよ。炒めたの好き。スープは初めて作るけど」

 そんな好物、初めて聞くけど。
 黙って見下ろしていたら、また覗き込んでくる。だから結構近いんだって。

「だめ?」
「いやいい。知らんかった。作ったことないよな」
「色悪くなること多いから」

 しゃべりながら淹れた俺の分のコーヒーと低脂肪乳をパックごと渡されて、ベッド横のテーブルに持っていく。
 こいつの部屋は六畳一間だから移動が楽だ。
 実家以上にくつろげて、数歩分の距離になんでもそろっている。
 三大欲求のうちふたつは確実に満たされるし、残るひとつもまあ問題ない。(なんというかつまり、毎回は許可が下りない)
 こいつが喋っているうちに寝てしまうことなんかはけっこうあって、生殺しでしかないけどそんなときだけはこいつを抱きしめていられる。
 俺が幸せかもしれないと思う時間のひとつだ。
 よくこいつと俺はひっついて座って、温かいものを飲んだり、何か読んだりして過ごす。
 そういうときに会話はないし、向く方向も違うことが多い。九十度とか、百八十度とか。
 他の相手だったら苦手な沈黙がこいつとはなぜか平気で、むしろ不思議な心地よさがある。他の人間といてそんな風に感じたことの、一度もない俺が。
 だからこいつがそのために俺を受け入れたのもわかるし、これ以上の関係なんてないのかもしれないと思う。
 だがふたりでそうしていると俺はときどき、冷水を浴びせられたように現実を思い出して気分が沈む。
 まるで捨てられた犬猫が段ボール箱の底でうずくまっているような、この現実を。

 俺はだれかと体温を分けあって長時間過ごした経験なんてなかった。
 自分以外の人間の呼吸を間近に聞いたのは、あいつのが初めてだった。
 それを言うとあいつは驚いて飛び起きて、やけに深刻な顔で親兄弟と寝ないのかと訊いてきたが、俺はお前こそどうなってるんだと訊きたかった。(当時俺たちは中三、まだ自分の家が平均だとどこかで信じていた)
 俺は子どものころからどんなに体調が悪くてもひとりで眠った。
 小一以降親には布団に放り込まれたことすらない。
 今思えば完全な放置だが、それが俺にとっての当たり前の日常だった。
 大学卒業まで学費と最低限の生活費の援助を受けたから、育児放棄だったとは言えない。
 生んでもらって自立させてもらったのだ。
 それに似たような育ち方をした人間も多いだろう。
 しかしあいつは違う。
 妹の布団が温まるまで一緒に入って絵本読んだりお話聞かせたりしてた、と言った。母親がしてくれたことをしただけだとも。
 完全に別の世界の生き物だ。出会った中学のころはわかりあえる日がくるとは到底思えなかった。
 それなのに、今は俺もあいつも同じ段ボール箱に放り込まれた犬猫だ。
 今ならあいつを、俺と理由は違っても立場がよく似てしまっているあいつを理解できる気がする。
 雨にとけ崩れる箱のなかで体温を分けあうような、そんなものだとしても。






2011.04.24 up


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