秋を連れ、冬に戻る [ 11/39 ]

*「夢見月」の朔ちゃんとのプチ企画
*お題を出し合って書いてみよう!
 始まり:湖畔に佇む(朔)
 眠れる森(倭姫)
 夕立(朔)
 終わり:手のひらを重ね合わせる(倭姫)



秋を連れ、冬に戻る



 湖畔に佇む金木犀が、優しく星を散らしている。
 秋を告げる風が吹いた。柔らかな風にふわりと混ぜ込んだ甘い香りは、橙の小花が色づけたものだ。吹き抜けた風に煽られて、小さく甘い星が散る。ぽつぽつと湖面に落ちていったそれが、幾重にも波紋を描いて広がっていった。
 零れた髪を掻き上げ、女は落ちて間もない星を拾い上げた。鼻先に近づければ、甘い香りが色濃く香る。
 夏が終わり、秋が始まる。やがてこの地には冬が訪れ、湖は凍りつくだろう。雪によって閉ざされた森は眠りにつく。一面が白く変わり、すべての音が止む。静寂の中で一人、新雪を踏み締めて歩く幸せは、凍てつく冬にしか味わえない。それは女の暮らしていたところでも同じことだった。
 冬の前。土の匂いを孕んだ風は甘く変わり、燃え立つ木々を揺らして葉を散らす。赤や黄に彩られた地面を蹴れば、さくりさくりと歌を奏でる。虫の音が好きだ。
 胸が苦しくなるこの香りが、なによりも。

「そちらはお寒うございませんでしょうか」

 あの家は、家と呼ぶのも心配になるほどのおんぼろ家屋で、隙間風が絶えなかった。冬ともなれば凍りつきそうな寒さが襲ってきたが、あそこには身を温めるだけの温石も着物もない。ゆえ、女はかの人の膝に乗り、じっくりと互いの熱を通わせて温めあった。
 かの人はとても優しかった。長者の屋敷を放り出された女が身一つで戸口の前に立ってさめざめと泣いていても、百姓の男は嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。あの日は、ちらちらと雪の降る日だったと記憶している。
 長者の屋敷にいる間、女は飢えたことも凍えたこともなかった。愛され、慈しまれ、大切に可愛がられてきた。ところがある日、「働きもせず飯だけ食い散らかすような者を屋敷に置いておけるか」と言い捨てた長者に、女は屋敷を叩き出されてしまった。暗い夜のことだった。雪の降る夜のことだった。
 慣れない寒さに身を震わせる女に、かの人は疲労によって掠れた声で言った。「いいか。うちにゃ向こうとは違って、お前に十分食べさせてやれるだけの余裕なんざねぇ。それでもよけりゃあ、好きなだけいるといい」その声は、随分とぶっきらぼうだったけれど、女の耳にはまるで金木犀のように甘く優しい香りのする声のように聞こえた。
 かの人の言うとおり、そこでの生活はとても苦しいものだった。いつだって腹が満たされるようなことはなかったけれど、かの人は女のために魚を釣りに出かけたり、今まで以上に働いて得た金でちょっとしたご馳走を買ってきてくれた。
 焼いた魚を分け合ったことを思い出し、女は小さく笑った。かの人は、脂ののった腹の部分を女に譲り、自分は端の身ばかりをつついていた。

「わたくしがおりませんで、ご不便はございませんでしょうか」

 懐に女を抱きながら、かの人はある日「お前が石臼を引いてくれたら助かるのになぁ」と零した。それは本気の口ぶりではなかったけれど、そうすることでかの人が喜ぶのならと、女は喜んだ。かの人が留守の内に、重たい石臼を引いた。初めての作業はおっかなびっくりだったけれど、男の傍らでいつも見ていたのだから要領はすぐに得た。
 帰ってきたかの人は、女が石臼を引いているのを見て大層驚いていた。けれどすぐに喜色満面の笑みを浮かべ、初めて女が引いた粉で団子をこしらえて腹を満たしたのだ。それからというもの、石臼を引くのは女の仕事になった。その分、かの人は畑仕事に精を出せる。いくらか金にも余裕が出て、二人の生活は前ほど苦しくはなくなった。
 とても幸せな日々だった。
 かの人の膝に座って眠るその瞬間が、かの人の腕に抱かれて歩くその瞬間が、なによりも幸せな時間だった。
 けれど女は、そんな安寧の日々をも振り払い、望みを叶えるために家を出た。かの人は、女と真摯に向き合って「気をつけて行きな」と、それまで必死に溜めていた金を持たせてくれた。狐や犬には気をつけろと言ってくれたかの人は、今頃なにをしているのだろう。
 望みは叶った。あとはかの人のもとへと帰るだけだ。

「今、戻ります」

 風が吹く。
 一際強く吹き抜けた風に煽られて、金木犀が一斉に散っていった。橙の星が降り注ぐ。まるで夕立のようだった。甘い香りが全身を包み込み、星々が髪に絡まって香りを移していく。
 ――ああ、ちょうどいい。このまま帰ろう。
 女は長い黒髪に指を滑らせ、形良い唇で上品に笑った。急いで帰らなければ、あっという間に冬が訪れてしまう。この森が眠りにつく前に、あの村へ帰らなければ。
 秋の間に山を越え、川を渡って、冬を連れてかの人のもとへ。
 辿り着く頃には、あの日のように雪がちらつくのだろうか。それとも、まだこの香りが残っている頃に帰ることができるのだろうか。
 どちらでもよかった。かの人のもとへ戻ることができるのなら、どちらでも。
 からころ、から。下駄が鳴る。
 夕立のように降り注ぐ金木犀の香りを纏って、女は秋を抜け出した。


* * *



 ぬくもりが消え、すべてがつまらなくなった。
 男の顔からは自然と笑顔が消えていった。
 一人で暮らすことには慣れていたはずなのに、あの子がいなくなってからというもの、静寂に包まれた夜が苦痛でしかなくなった。あれほど精を出していた畑仕事とて、今ではもう身体が勝手に動くに任せるだけだ。
 食べることも、寝ることも、すべてが味気ない。生きるために仕方がなくこなしているだけだ。
 ――あの子は無事だろうか。
 隙間風が男を芯から冷やす。身も心も冷たさに囚われ、今にも氷漬けになってしまいそうだった。
 外には冬が訪れた。ちらちらと鵝毛のように降り注ぐ雪が、あの日のそれと重なった。真っ暗闇の中、あの子は哀しそうに泣いていた。長者の屋敷のものだということはすぐに分かったけれど、ここでは贅沢をさせてやれない。それでもあの子は不満一つ零すことなく寄り添ってくれた。
 もういい。過ぎたる願いなど、これ以上は望まない。
 お前が帰ってきてくれさえすれば、それで。
 沈みゆく思考を引き戻すかのように、戸口が静かに叩かれた。一回、二回。初めは風の音かと思ったが、三回目に「ごめんくださいまし」と見知らぬ女の声がついてきた。
 こんな夜更けに誰だろう。
 男は疑問に思いつつも立ち上がり、そうっと戸を開けた。途端に冬の風が男を叩く。突風に暴れる髪と着物の裾を押さえ、見知らぬ女が男を見上げた。
 美しい女だ。年の頃はまだ若く、赤い唇が寒さで震えている。大きな瞳は吊り気味で、まるで猫のようだった。雪すら恥じらう白い肌に、思わず目が釘付けになった。この村では、こんなにも美しい娘は見たことがない。

「――こんばんは。ただいま戻りました」

 鈴を転がすようにそう言われ、男は仰天した。

「この家には、『ただいま』と言って帰ってくる奴はいねぇよ。ここに住むのは俺一人だ。あんたのような別嬪さんも知らねぇ。家を間違えちゃいねぇか」
「いいえ。わたくしが間違えるはずがございません。なにゆえ、あなたさまを見間違えることができましょうか」

 唖然とする男に対し、美しい女はころころと笑って身を摺り寄せてきた。長年一人の暮らしに慣れていた男にとって、女の身体は毒にも等しいものだった。この女は、不思議な香りがした。冬だというのに、甘い秋の香りがする。柔らかな橙の小花が放つ香りだ。すべての女がそうなのか、それともこの女だけがそうなのか、男には判断がつかない。
 胸を締め付けられる秋の香りに、優しいぬくもり。躊躇いなく男の首に腕を回してきた女は、そのふっくらとした唇で男の名を呼んだ。

「え……」
「わたくしを迎えてはくださらないのでしょうか。せっかく戻って参りましたのに」

 今にも泣きそうに瞳を潤ませて、女は言う。
 困惑する男の前に、女は懐から汚れた財布を取り出して見せた。藍色の布に、枯れた金木犀と白い毛がついている。
 ――まさか。
 男は絶句した。
 あれは夢だと思っていた。そんなことがあるはずはないと、そう思っていたのに。

「……お前、もしや、おたまか」

 雪の降る日に戸口で鳴いていた、小さな白猫。
 膝に抱いてやればごろごろと喉を鳴らし、懐に入れてやれば幸せそうに眠っていた愛らしい白猫。長者の家では珠緒と呼ばれていたあの猫は、ある日「人間になりたいから伊勢参りに行かせてください」と言ってきた。男は愛猫の首に財布を巻きつけて送り出したのだ。
 確かにその記憶はあったけれど、男にとってそれは夢だった。猫が口を聞くはずがない。石臼を引けるだけの賢さはあったけれど、喋り出すわけがない。珍しく酒を飲んだせいで酔っ払い、そんな夢を見たのだろうと思っていた。
 猫は逃げたのだ。ずっと、そう思っていた。

「はいな。ただいま戻りました」

 白いかんばせに花を咲かせて、女が――珠緒が笑う。
 その美しい黒髪から、みずみずしい金木犀の花が零れ落ちてきた。不思議なこともあるものだ。秋はとうに過ぎ去り、外には雪が降るほどの寒さだというのに、彼女はまだ秋を纏っている。
 彼女は秋を連れて、冬に戻ってきた。
 耐え切れず、男は目の前の身体を掻き抱いた。胸いっぱいに甘い香りが広がっていく。姿かたちは変わっても、伝わってくるぬくもりは変わらない。

「人の子というものは、よいものですね」
「え?」
「猫の手では、こうしてあなたさまを包むことはできません」

 珠緒の手がそっと男の背を撫で、ゆっくりと離れて頬に触れる。覗き込んでくる漆黒の瞳が、濡れた夜のようにきらめいていた。

「――それに猫の身では、あなたさまの嫁にはなれませんもの」

 擦り寄る甘さが頭を痺れさせる。
 かつて一人と一匹だった二人は、愛おしいぬくもりを分かち合いながらそっと手のひらを重ね合わせた。




(このお話は、昔話「人の嫁になった猫」「猫の嫁様」を参考にしております)
(2014.0927)


[*prev] [next#]
しおりを挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -