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「あたしはね、最初から羽なんかなかった。ずうっと、昔から。飛べるわけがなかったの」

 当たり前だ。僕らは人間で、鳥ではない。天使や天狗のような、ファンタジーの世界の住人でもない。ごくごく当たり前の生活をするしかできない、日本に暮らすただの人間なのだ。
 彼女は僕から少しだけ離れると、海を見つめながら手首のシュシュで髪を結わえた。馬の尻尾のようなそれが目の前で揺れる。羽なんかない。そう言った彼女の背は、薄っぺらかった。

「でもね、あたし、飛んでみたかった」

 空を。
 そんなことは無理だと分かっているけれど、誰しもが考えるある種の夢だ。不思議ではない。けれど、彼女は空だけではないのだと言った。空を飛びたいだけじゃない。比喩的な意味で、『飛びたい』のだと。

「アンリと出会って、あたしは『飛べた』んだよ」

「……意味が分からない」

「初めてだったの。自分からなにかやってみようって思ったの」

 展示会に出展するのも、被写体を人間にしたのも、おはなしを書いたのも。
 彼女の声は、波や風に負けてしまいそうなほど小さかったのに、はっきりと僕の耳に飛び込んできた。

「ひとりぼっちの世界で誰かと出会うって、とっても幸せなことなのよ、アンリ」

 慈愛に満ちた眼差しは母のようであったが、痛みも、暗い部分も知っているであろうそれに、胸の奥の方がぞわりと撫でられた。ハンドクリームによってしっとりと潤った指先で目元をなぞられる。眼鏡はまだ返ってこない。それなのに、彼女の瞳がやけにはっきりと見えた。

「羽がなくたって飛べるんだもの。片方だけでも翼があれば、きっとどこへだって行ける。片羽同士が集まれば、一対の翼になって大空を羽ばたける。きっと、そうだよ」

 風に揺れるミルクティ。
 僕は黒い髪も好きだった。まっすぐで、吸い込まれてしまいそうなあの髪が、大好きだった。

「……君の発想力が、たまに怖くなる」

「未来を担うお偉い学者さまにそう言われるなんて、光栄です」

「褒めてないよ」

「Dolly Birdだもんね」

 偽善だ綺麗事だと言ったところで、彼女はきっと「それがどうしたの」と笑い飛ばすだろう。

 ――ひとりぼっちの世界で、誰かと出会う。

 ああ、そうだ。
 確かに、すごく幸せなことだった。

「ねえ、」

 強風に煽られて目尻の端から剥がれかけたつけまつげを気にする彼女を、僕は少しだけ強引に抱き締めてみた。薄っぺらい身体だ。彼女が驚いて声をあげたせいで、水族館へ向かうカップルの視線がこちらに向いた。どうでもいい。見たければ見ればいい。どうせ彼らも、あとで同じようなことをするのだろうから。

「――Ne me quitte jamais.」

 小さなハート型のピアスが飾る耳に、そっと流し込んでみる。震えた肩が愛おしかった。抱き締めて、甘い香りのする身体を、頭から食べてしまいたくなった。
 頬を染めて彼女が僕を睨む。

「……フランス語、話せないんじゃなかったの」

「いままで僕がどこに行っていたと思っているんだい」

 少しも勉強してなかったのだと思っていたのなら、やはり彼女はおばかさんだ。
 ことりことりと音を立てる心臓と、あまりの狂おしさに、首が締められているような気がした。


 ――Dolly Bird.
 どうかずっと、離れないでいて。


*Fin

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