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「まあ、確かにあたしは馬鹿だけど。でもね、あたし、きみよりは大人だからね」

 あまりに予想外の言葉に、声を失った。渇いた喉を潤すように唾液を嚥下して、たっぷりと間を開けて言う。

「心外だな。君よりも子供だなんてことがあるはずがない」

「いいえ、アンリはとっても子どもだもの。大体ね、学者なんて子どもみたいなものなのよ。社会人のくせして、一般社会を知らないでしょう。ずうっとお勉強ばっかり。ああ、もちろん、それが悪いなんてこれっぽっちも思ってないからね」

「どうだか」

「ほら、そうやってすぐに拗ねる。ひとのことdolly birdなんて洒落た呼び方するくせに、自分にはちっとも洒落っ気がないんだから」

 眼鏡を奪われては、視界は途端にぼやけて歪んだ。十五センチの焦点距離は彼女の顔さえ曖昧にしてしまう。はっきりしないパーツの動きで、彼女が笑ったのが分かった。
 いつも、なにか大事なことを言う前に、彼女は僕の眼鏡を外したがった。付き合うと決めたとき、破局の危機を乗り越えたとき――恋人と別れることを危機と思ったのは彼女が初めてだった――、合鍵を交換したとき、僕がフランスに行くと決めたとき。必ず彼女は僕の眼鏡を奪い、彼女よりも僅かばかり色素の薄い僕の瞳をそのまま覗き込み、視力の悪い僕でもはっきりと焦点が合う距離で見つめてくる。吐息さえ触れ合いそうなその近さに、最初は戸惑うばかりだった。今でも少し落ち着かない。特に、人目に付きそうな外ならばなおさらだ。

「『Dolly Bird』って絵本があるんだけどね」

 よくもまあそんなタイトルを絵本につけたものだ。
 dolly birdは、流行の服や髪形をして可愛い姿をしているが、頭が悪い女のことを差す言葉だ。今の英語圏でそう言うのかは知らないが、少なくとも、僕が向こうにいたときは口語として使われているのをたまに聞いた。

「副題が『ひとりぼっちのかいぶつ』なの。真っ黒い翼の烏天狗の女の子が、外国人の男の子と出会って、それで恋をするの。まるで人形のように可愛い鳥の女の子だから、『Dolly Bird』。その子は、片方しか翼がなかったんだけど、男の子に出会ってやっと空を飛べるようになるのよ。男の子は最初、彼女を天使と勘違いするの」

「どういった話なのか皆目見当もつかないけれど、最近の絵本は斬新だということがよく分かった」

「面白そうかな」

「さあ」

 烏天狗と外国人が出会うとは、キャスティングがどうにもしっくりこない。鶴の恩返しだとかそういった雰囲気なのだろうか。今時の絵本は想像がつかない。もしかしたら、桃太郎も変わってしまっているのかもしれない。
 そっけなく返すと、彼女はつまらなさそうな声を出した。海の匂いを孕んだ風がその唇を掠めていく。張り付いた髪を払ってやれば、少し機嫌を良くしたようだった。

「読んでよ」

「なにを」

「『Dolly Bird』。絵本と、児童書と、普通の小説。どれにするか迷ってるんだけどね。まずは絵本にしてみようと思って。色々試しているところ」

「ちょっと待って。ということは、君が書いたのかい」

「そうだよ。だからね、すごくびっくりしちゃった。いま、アンリがあたしのことdolly birdって呼んだから」

 屈託のない笑みに頭が痛む。彼女はけっして作家ではないし、エスパーでもないはずだ。だのにいきなり突拍子もないことを言うのだから、こちらの思考がついていかない。

「僕の記憶が正しければ、君はカメラマンだったはずだけど」

「だから、表紙はこれでーす」

 提げていた鞄から取り出したなにかをずいっと目の前に押し付けられ、思わずのけぞった。白が溢れて分からない。なんとか引き剥がしてまじまじと見てみると、それは正方形の絵本のようだった。表紙には大きく『Dolly Bird』の文字が踊り、その背景には写真が使われている。赤く染まり始めた空を見上げる一人の青年の後ろ姿に、心当たりがありすぎた。

「ちょっと、これ」

「引きの絵だから分からないよ、大丈夫大丈夫。これね、あたしのお気に入りなの。あ、あとで読んでね。感想ちょうだい。絶対だよ」

 いつの間に撮られていたのだろう。引きたくるように絵本を回収され、僕は大きく息を吐くことしかできなかった。
 なるほど、それで烏天狗と外国人か。

「まだ僕が『烏みたいにうるさい』だとか『天狗になるな』って言ったこと、根に持っているのか」

 いつだったか、カメラマンとして仕事が入り始めて忙しくあちこち駆け回っていた彼女に言った台詞だ。確かに、我ながら大人気ない発言だったと反省している。けれど、それを根に持って絵本の題材にするなど、彼女の方がより幼稚ではないか。

「ああ、違う違う。そうじゃない、そうじゃないのよ、アンリ。そうじゃないの」

 けらけら笑って抱き着いてくる彼女の小さな身体を抱き返すこともせず、僕は馬鹿みたいに突っ立っていた。なにが「そうじゃない」のかよく分からない。楽しそうに笑う彼女は、小さな子供にでも言い聞かせるように優しい声を出す。猫なで声だ。

「そうじゃなくてね。確かに、あたしとアンリがモデルだけど、でもね、嫌味なんかこれっぽっちも含まれてないの。そこは分かって」

 見上げてくる大きな瞳は、偽りの睫毛で縁取られている。


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