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今日奏達の様子を見に行くのは、アカギの担当だった。護衛という名目でハインケルの監視役を担うのはナガトだ。びくつきながらもハインケルは手際よく装置をいじり、顕微鏡を覗いては手元の紙になにかを書き込んでいく。後ろからちらっと覗き見たが、正直言ってなにを書いているのかまったく理解できなかった。呪文のようだ。
薄暗い室内を右から左、左から右へとちょこまか動き回る彼は、見た目はどこからどう見ても子どもだ。整えればそれこそ天使のような風貌だろうに、柔らかな金髪は櫛を通さないせいでぼさぼさのまま放置され、まるで鳥の巣のようだ。くたくたの白衣にはあちこちに得体の知れないシミがついている。
ナガトやアカギを前にしたときの彼は、それこそ人見知りの激しい子どものようにびくついて頼りなく目を泳がせているというのに、植物を前にしたときの彼はまるで好奇心の欠片が火のごとく燃えているかのように、目が爛々と輝いていた。
これが学者か。自分とはまったく異なった生き物のように思える。相手も少なからずそう感じているのだろう。
「あれ? え、なんで? おかしいな、なんでこんな……」
「どうかしたんですか?」
「あっ……、ああ、ここ、なんですけど。これは汚染されていない植物のはずなのに、白の植物に特有のブラン結合が起こってる。でもこの植物に白色化は見られていないし……なんでだろう、内側だけの変化なのか? だとしたらこのプレートで白の植物が新たに形態を変えている……?」
説明というより、それは独り言だった。ブラン結合とはなんだろうかと脳内辞書を開いてみるナガトを置いて、ハインケルは次々に装置を動かしていく。結局ブラン結合とはなんたるか分からぬまま、ナガトの思考は中断されることになった。自動扉が開く。部屋に入ってきたのは、どこかげっそりとしたアカギだ。
「おー、おかえりー。そっちはどうだった?」
「どうもこうもねェよ。姉の方の機嫌が悪いのなんのって。夜中に大声出すんじゃねェっての」
「や、バカなのお前。そうじゃなくて、異常はなかったのかって聞いてんだけど」
「ないない。妹のストレス値がちょっと高かったくれェだな。いつまで経っても怯えて慣れやしねェぞ、あのガキ。――ま、こんくらいじゃ発症率は上がりっこねェだろ」
「コーピングスキルなさそうだもんね」笑いながらそう言うと、アカギは少しだけ眉根を寄せた。「分かっててつけ込んでんのは俺達だけどな」ばつの悪そうな、苦々しい顔だった。
相変わらずこの男は甘い。
「別に追い詰めてどうこうってつもりじゃないし、大丈夫だろ。なにかあったときは責任持って守ってやればいい話だし。――それより、こっちはなんかあったみたいだよ。ブラン結合がどうのこうのって」
「ブラン結合? なんじゃそりゃ」
白の植物について基礎的なことは座学で叩き込まれたが、専門的知識は戦闘職種の自分達には備わっていない。二人が首を傾げている後ろでは、他者の存在をすっかり忘れたかのようにハインケルがちょこまかと動き回っている。肩に乗っている鳩が二人を見やり、くるぅと鳴いた。
そうなってしまったら、もうなにをしても無駄だった。何回呼んでもハインケルには届かない。肩を叩いても無視される。普段の頼りない子どものような顔からは想像ができないほど真剣で、口元には微笑さえ浮かんでいた。ぞっとするほどの集中力に二人がお手上げ状態になった頃、室内に甘い香りが流れてきた。それを追うように、開いた扉から人が滑り込んでくる。
げ、と悪態をついたのはアカギで、軽やかに口笛を吹いたのはナガトだった。
「こんばんは。博士の研究は進んでらっしゃる?」
「どうでしょう。なにか発見はあったようですが、俺にはさっぱりです。室長さんは随分とくつろがれていたようですね」
「ミーティアで結構よ。アタシもアナタを三等空尉だなんて呼ばないもの。あと敬語もやめてちょうだい。くすぐったいの」
濡れた髪をタオルで拭きつつ、ミーティアは下着同然の姿の上に、手にしていた白衣を羽織った。彼女が動くたびに甘い花のような香りが鼻先を掠め、そのたびにほぼ不可抗力でもたげてくる感情には苦笑せざるを得ない。ハインケルは相変わらず研究に没頭していて彼女の存在に気づいていないようだが、アカギは居心地悪そうに部屋の隅を睨んでいた。
バカだよね、ほんっと。心中で舌を出して友人を嘲笑する。せっかくなんだから見ておけばいいものを。よく“爽やか”などと称される微笑を浮かべたまま、ナガトはミーティアのバランスのよい肢体をまじまじと眺めていた。
白衣から覗く黒いレースに縁取られた谷間がナガトの目の前を横切り、ふにゃりと鳥の巣頭に押しつけられる。
「ハァイ、博士。こんばんは。精が出ますわね」
「…………へ? え、あ、ッ! ひゃああああああああああ!」
振り向きかけたハインケルの顔が一瞬で赤く染まり、絶叫が迸る。「羨ましいな、くそ」呟きを聞き逃さなかったアカギに、思い切り後頭部を叩かれた。
なんにせよ、やっとハインケルの意識をこちらに向けることができたので、機会を逃すことなくそれぞれの状況報告に入る。ハインケルは途端に縮こまり、助けを求めるように鳩を抱いていた。