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まるで欠片は火のごとく *6




 甘い香りが身体を満たしていく。指先からじわじわと染み入ってくるこの高揚感は、実験が成功したときのそれに似ていた。
 くたくたの白衣を地面に引きずりながら、ハインケルは服が汚れるものも構わずに土の上に膝をついていた。手を泥だらけにして、まるで自らを多い隠すような緑の中でうっとりと目を細める。
 見上げた空は、緑色の葉によって虫食いのようになっている。木漏れ日が地面を照らしていた。その地面には、茶色や緑といった植物がそっと息づいている。向こうで跳ねたのはリスだろうか。かさかさと音を立てて這い回るムカデは苦手だが、苦手意識よりも感動が勝った。
 瓶詰めにした植物はすべて一つの鞄に纏め、相棒である鳩のスツーカが見守っている。あとで臨時研究室に持ち帰り、一つずつ丁寧に解析していかねばならない。
 自分がどれだけ興奮しているのか、なんとなく自覚していた。頭の片隅にある冷静な部分が自制を訴えかけてくる。身体が熱い。心拍の上昇、末端部からの発汗。瞳孔も開いているだろうか。とにかく、興奮しているのだ。
 くるぅ。愛らしく鳴いたスツーカに呼ばれ、あっちへふらふらこっちへふらふらと山の中を歩き回っていたハインケルは、ようやっと臨時研究室へと戻った。
 入り口でコードを入力すると扉が開いた。それを追いかけるようにコードの入力を知らせるキーの操作音が聞こえ、今までの高揚感が一気に萎んでいく。それまで軽かったサンプルケースが、急激に重みを増した。

「どうしたんですか」

 一応敬語だが、そこには敬意の欠片もない。ならばいっそ丁寧な言葉なんて使わないでくれと面と向かって言ってやりたいが、臆病な舌は喉の奥の方で縮こまったままぴくりともしなかった。
 ハインケルの後ろで同じように全身洗浄を行ったアカギは、取って付けたように「持ちましょうか」と言ってサンプルケースを指さしてきた。

「け、結構、です」
「ああ、そうっすか」

 会話など続くはずもない。胃が痛い。自分よりも遥かに背の高い男に背後に立たれる恐怖といったら、感染者と直に対峙するのと同じくらいのものだ。知らず知らずのうちに溜息が零れる。
 この臨時研究室には、ようやく慣れてきた頃だった。案内されてしばらくは、洗浄所から個人研究室までの道のりが分からず迷子になって、何度も研究員達の世話になった。きっと彼らは、そんなハインケルを見て嘲笑していたに違いない。そうとしか考えられない。
 だって彼らは、ビリジアンの人間だ。自国の人間でも怖いのに、他国の人間など信用できるはずもない。
 ビリジアン――。呟いて、ハインケルはさらに泣きたくなった。
 この臨時研究室は、ビリジアン政府直轄の科学捜査研究室のものだ。つまりは、ミーティアが乗ってきた巨大なヴァル・シュラクト艦そのものが、研究室となっている。艦の中に必要最低限の飛行装置だけを残し、あとはまるごと研究室が割り当てられている。移動式の臨時研究室を用意しているなど、さすがは金持ち国としか言いようがない。
 とはいえ、テールベルトが研究を行える空渡艦を有していないかといえば、そうではない。そうではないが、なぜか自分はそれに乗ることが許されていないのだ。おかげで他プレートのサンプル採集は他の者に任せっきりになってしまい、思うようなサンプルを得ることができなかった。
 そのことを思えば自由にサンプルを採集できる今は快適なのかもしれないが――、いかんせん、居心地が悪い。

「……あの、そろそろ、部屋に戻ります、から」
「どーぞ」
「……あの、その。集中したいんで、一人が、いい、です」

 嘆息と同時に降ってくる視線に、泣きたくなる。
 何度同じことを言わせるんだ、この男は。四六時中交代で張り付いてくる二人の軍人のうち、このアカギという男の方がより苦手だった。がたいのいい男は、そこにただ立っているだけで威圧感を与える。それなのにアカギときたら、ぴたりと背中についてくるのだから嫌になる。まるで犯罪者にでもなったかのような気分になる。
 ナガトの方が幾分かまだマシだ。涼しげな顔立ちにはいつも微笑が浮かんでいるし、苦痛にならない程度に振られる話題の選び方も上手い。それになにより、彼は部屋の前に来たら笑顔で立ち去ってくれる。
 毎度のことながら、今日もアカギは部屋に入ってドアを閉めるまで、一時たりともハインケルから目を離そうとしなかった。日頃自分が観察する側の立場にいるだけに、観察される側というのは非常に落ち着かない。
 監視の目から解放されるのは、与えられた個室くらいなものだ。ぼふり。投げ出した身体をベッドに受け止められ、ようやっと肩の力が抜けた。凝り固まった筋肉がしくしくと痛みを訴えている。

「ああ、そうだね、スツーカ。お風呂に入らなきゃ。それからサンプルの様子も見なくっちゃ。……え? 嫌だよ、今日もこっちで寝る」

 ナガトやアカギからは彼らの乗ってきた艦で寝起きするよう言われているが、こちらの艦でもそれは許可されていた。
 くるぅ。鳩が鳴く。


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