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 そんな穂香の旅行も、今日で終わりだ。
 今日の夜遅くに、飛行機でこっちへ帰ってくる予定になっている。父がわざわざ車を飛ばして迎えに行くとメールしていたが、穂香は「次の日も仕事だから、構いません。タクシーで帰ります^^」と返信したらしい。だが、大事な愛娘を夜中に一人で帰すような父ではないので、見なかったことにして空港まで行くに違いない。
 幸い三日坊主にならず世話をし続けた観葉植物の世話も、今日が最後だった。今日のうちに飼い主――という表現が適切かは分からないが――が帰ってくるが、冷房をかけていないこの暑さでは、植物もすぐにへばるだろうから気は抜けない。
 穂香の部屋は奏の部屋と違い、とても綺麗に片づけられている。机の横にある棚にはちょこちょことカラフルな小さな鉢が並んでおり、そのすべてを枯らさずに穂香は育てていた。
 中でも一番目を引いたのが、ピンクの鉢に植わっているホワイトストロベリーだ。穂香が出発するよりも前から小さな実をつけ始めていたのだが、今では食べられそうなくらいの大きさになっている。

「メール……は、別にええか。帰ってきて見た方が喜ぶやろし」

 でも、一応写メは撮っとこ。
 一番大きな実に携帯のカメラを向けたところで、奏は違和感を覚えた。ピロリロリン。間抜けなシャッター音のあと、画面に切り取られたホワイトストロベリーの実と、鉢を見比べる。

「これって、葉っぱも白くなるんやっけ?」

 萼も、実に近いところの葉も、まるで脱色したように真っ白だ。白とピンクの組み合わせはかわいい。そこに鮮やかな緑もあるのだから、女の子らしさ満点の植物だ。
 植物など育てるよりも枯らすことの方が得意な奏にとって、「その問題」はその程度のことでしかなかった。
 それが自分達の日常を壊す最後の警報だったのだと、このときの奏は知るはずもなかった。


* * *



「空渡前のスクランブルってほんっときっついよね。あー、疲れた」
「ぼやいてる暇あんならさっさと着替えろ! やることは山ほどあんだぞ」
「はいはい、分かってるって」

 両足の裏は確かに大地を踏み締めているというのに、今だにその実感が湧かない。つい先ほどまで飛び回っていた空は、穢れた白が我が物顔で飛んでいたことなど微塵も感じさせない青さで広がっていた。
 空の上ではあれほど頼りになるパイロットスーツも、地上では締め付けが身動きを制限して煩わしい。駆けつけてくる整備士達にハンドサインを交わして、二人は更衣室を目指した。いつもの軍服に着替えれば、それだけで気持ちが切り替わる。
 もう今は、この地上にいる。道標もなにもない、不安定な空などではない。確かな地面がそこにあり、顔を上げればそこかしこに案内板が手招きしている地上だ。翼などなくても己の足で進めるこの場所は、必ず帰ると誓った場所でもある。
 ブリーフィングを終えて通常業務に戻った二人は、花の香りが色濃く漂うそこで作業を進めた。一つ一つの計器を確認し、異常がないかを確かめる。ほんの僅かなミスでも命取りだ。なにより少しでも手を抜けば、上官の大目玉を食らって脳みそが弾け飛ぶほど殴られるに違いない。

「にしても最近、本当に忙しない気がしない? 待機してんのがうちだけっていうのも、すっごいオーバーワークっていうか。こないだカガ隊出たんでしょ? ――あ、左レバー確認して」
「問題なし。そっち気圧計見とけよ。――向こうが相当な状況だってのは分かるが、言っても仕方ねェだろ。なにが起きるか分かんねェのが俺らの仕事だ」

 「そりゃそうだけど」と青年は笑い、柔和な面立ちに若干の疲労の色を滲ませた。
 突然鳴り響くアラートは、慣れたとはいえ心穏やかにいられるものでもない。けたたましく叫ぶ警報は、隊員達を急き立てる。一刻も早く空へ飛び立てと怒鳴られて狭いコックピットへ身を滑り込ませれば、樹木の翼が己の手足へとなり替わるのだ。
 忌まわしい白を狩るために、白の樹木を編んだ深緑の機体が風を裂く。
 種の弾丸を放つたび、機体は震えた。空気の振動に揺さぶられ、その揺れに負けないよう機体を制御し、空に留まる。振り落とされるわけにはいかない。
 一度飛べば、戻ってくるまで安息など皆無だ。無線を通じていくら軽口を叩いたところで、真の安らぎは地上でなければ味わえない。
 ならばどうしてこの道を選んだのかと問われても、上手い答えは見つからなかった。模範回答ならいくらでも紡ぎ出せる。人々を守りたいから。緑を取り戻したいから。この世界を救いたいから。
 そんな綺麗な理由に、自分達はなにを隠しているのだろう。

「――あ?」

 うなじを焼く妙な違和感。
 頭上からひび割れた声が降ってくる。回線を通した声は、生の声に比べれば段違いだ。けれど、それが誰のものであるのかはすぐに分かった。
 ――軍人たるもの、いついかなるときも冷静であれ。そう言ったのは誰だったろうか。叶うものならば、今もう一度この耳元で声高に叫んでほしい。すべてが白に呑まれそうになる、今このときに。
 反射的に立ち上げたモニターに、絶望が映った。
 アラートが鳴り響く。無線機から聞こえてくるそれは、命の砕ける音だった。




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