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悔恨の先の欠片を掴め *23
今日はどこへ行くのかと聞いたら、両親は楽しげに笑って後部座席を振り返った。「あなたの大好きなところ」と少女のように笑ってみせた母の口紅の色は優しい桜色で、四歳の誕生日に貰ったうさぎのぬいぐるみと同じ色をしている。
母はそのまま目線で穂香が勝手にシートベルトを外していないかをチェックして──以前、苦しくなってこっそり外していたことがあった──、満足げに頷いて運転席の父を肘でつついた。
「安全運転でよろしくね」
「任せろ。ほの、うさちゃん抱っこしたか?」
「うん、したー!」
もうぬいぐるみを連れてでかけるような小さい子どもではないというのに、なぜだか今日の両親は穂香にそれを持たせたがった。気恥ずかしいから置いていきたいという穂香の主張は母のお願いに押し切られ、最初こそ拗ねたそぶりをしていたものの、ぎゅっと抱き締めてしまえば友人を久しぶりに外に連れ出す高揚感に頬が緩んだ。
カーステレオから流れる音楽は父のお気に入りのバンドのもので、それに合わせてたまに両親の大合唱が始まるのが穂香の密かな楽しみだった。ふわふわのピンクのうさぎを抱えながら、流れる景色を目で追っていく。
どこに行くのかは教えてもらっていないから分からない。ショッピングモールか、もしかすると水族館か植物園かもしれない。
だって今日は特別な日だ。水族館で足がだるくなるまでアザラシやペンギンを眺めるのも、植物園で汗だくになるまで温室を歩き回るのも大好きだった。普段なら両親にもう行くよと手を引かれてしまうけれど、今日はもしかすると穂香が飽きるまで自由にさせてくれるのかもしれない。
だって今日は、本当に特別な日だから。
しばらくすると記憶にある建物がいくつか見えて、そこで穂香ははっとした。小さな身体をぴょこぴょこと弾ませて窓の外を見ていると、軽く振り返った母が笑いながら「どうしたの」なんて聞いてくる。
父も一緒になって笑って、どうしたどうしたと歌うように言った。これは間違いないだろう。この道は見覚えがある。代わり映えのない景色が続く高速道路を抜けてしばらく走れば、驚くほど広い駐車場に滑り込むはずだ。
心が弾む音楽に、色とりどりの花。そこにはお城があって、何度も夢見た魔法の国が広がっている。まだ二回しか行ったことがなかったけれど、穂香はあの場所が大好きだった。
「おいどうする、うちのバースデーガールは気づいたようだぞ」
「ほのはわたしに似て賢いから〜」
父が信号待ちの間にディスクを入れ替えて、穂香の大好きなプリンセスが出てくる映画の音楽をかけてくれた。
期待が確信へと変わる。マシュマロのような頬を紅潮させ、同学年の子ども達よりも一回り小さな手でぎゅっとピンクのうさぎを抱き締めて、穂香は満面の笑みを浮かべた。
「ねえ、ママっ! きょう、もしかしてディ、」
浮かれた声は突然途絶えた。
絶句したのか、あるいは悲鳴を上げたのか。今となってはもう思い出せない。
覚えているのは、身体を吹き飛ばすような凄まじい衝撃と耳をつんざく轟音、そして一瞬でひっくり返る天地と、夢も希望もすべて飲み込まれる昏い絶望だけだった。
* * *
「ほのっ!」
遠くに妹の姿を見つけた瞬間、奏は人目も気にせずに駆け出していた。
奏が今まで保護されていた空渡艦よりも幾分か狭い通路を必死に駆け、アカギの隣ではっと顔を上げた薄い身体を、力の限り思い切り抱き締める。先のトラブルで擦り剥いたりぶつけたりしていた身体のあちこちが痛んだけれど、そんなものはもうどうでもよかった。
「お姉ちゃん」そう呼ぶ声が震えていた。ぎゅうぎゅうと縋りつくように抱き着いて、無事を確かめる。
──大丈夫、ここにいる。
重ね合わせた胸の奥から、どくどくという穂香の鼓動が伝わってきて泣きそうなほどに安堵した。冬だというのにお互い汗ばんでいて、鼻先を埋めた首筋からは少しだけ汗の匂いがする。その色濃い生の証拠に、涙腺がじわりと緩む。
穂香の高校が感染者に襲われたと聞いたとき、気が気ではなかった。ナガト達に救出されたと聞いて喜んだのもつかの間、今度は彼女のいる空渡艦が白の植物に襲われたと聞かされたときは、ついに心臓が潰れるかと思った。
だが、無事だ。目立つ怪我もない。パッと見た限りでは、穂香よりも奏の方があちこち怪我をしていて満身創痍の状態だろう。いっそ無様とも言えるほどに無茶苦茶に暴れ回った自覚はあったので、名誉の負傷だと軽口を叩くこともできやしない。
泣き腫らして赤くなった穂香の目を覗き込んでいろいろ尋ねようとしたが、唇だけが動くばかりで結局言葉は出てこなかった。言葉の代わりに零れそうになる嗚咽を必死で飲み、もう一度強く抱き締める。
「おねえ、ちゃん、……よかった、よか、ったぁ……!」
「うん……!」
奏の背中に回された細い腕が、今までにないほどぎゅっと強くしがみついてくる。もうそれだけで十分だ。背後からナガトの小さな溜息が聞こえた気がしたけれど、擦れ違いざまに頭を撫でていくだけで彼はなにも言わなかった。
会わなかった時間はたった数時間のはずなのに、もう何年も経っているかのような気がする。穂香も同じなのか、しばらく彼女も離れようとはしなかった。ようやっと身を離して顔を見合わせ、二人して泣きながら小さく笑う。頬を流れる雫をお互いに拭い合い、また新しい涙が指先を濡らすのを見て笑った。そうしてたまらずもう一度だけ強くハグをして、名残を惜しみながらも身体を離す。
奏をこの艦まで連れてきてくれたヒュウガは、アカギの向かいにいた大柄な男性を手招いて奥へと消えていった。ちらと見た服装や徽章が同じだったから、彼もこの艦の艦長なのだろうか。