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* * *



 火災警報装置が鳴り響く。絶え間なく聞こえてくる阿鼻叫喚の渦の中、逃げ惑う人々の波を掻き分けて、ドルニエは温室を目指していた。遠くからは感染者の唸り声が響く。耳の奥でけたたましく掻き鳴らされる音は、己の胸から発せられる鼓動だった。
 こうして瞬く間にも、研究所内が地獄へと様相を変えていく。
 焦燥を掻き立てる焦げ臭いにおいと煙の充満する廊下を突き進み、やっとの思いで温室へ飛び込んだ。途端に灼熱の炎が牙を剥き、放たれた熱風がドルニエの頬を舐める。足早に駆けてきたせいで、かすかに膝が笑っていた。
 スプリンクラーは作動している。それでも消火は追いつかない。一緒に飛び込んできた防衛員達が、抱えてきた消火器を炎に向けた。
 降りそそぐ水の音、消火剤の音、そして人々の喧騒。燃え盛る炎が植物を呑み込んでいく。
 その逆光に照らされて、長躯の影が揺れた。煤けた白衣が熱風に揺れる。炎を受けて赤銅色に輝く癖の強い金髪は、ドルニエのものとよく似ていた。
 吐き気がするほど憎い男が、そこにいる。

「あーら、随分派手にやってくれたじゃない。どういうつもり? 焼いちゃえば終わると思ったワケ? だとしたらざーんねん! ここはほんの一部よ。サンプルなら他にもあるわ」
「なら、どうしてそんなに慌てて来たの?」

 ぷるぷる震えてばかりの、まるで臆病な羊のようなハインケル。そのくせ、あの男は常軌を逸した策を生む。記憶にあるよりもずっと高くなった背を見上げ、ドルニエは唇を噛んだ。
 ガシャン。大仰な音がしたと思ったら、ハインケルが火器を捨てた音だった。その代わりに、彼は足元からなにかを拾い上げた。──割れたガラスだ。周囲の防衛員達が途端に警戒の色を濃くし、銃を構える。けれどハインケルは怯えない。震えることなく、まっすぐにドルニエを見つめてくる。
 ハインケルの後ろで、炎が吠えた。

「こんなサンプル、必要ないことくらい分かってる。きみが心配だったのは、この僕だよね」
「はあ!? アンタなに言ってんの!? 思い上がってんじゃないわよ、言ったでしょう! アンタなんかどうでもいいって!」
「本気でそう思ってるなら、きみは研究者には向いてない」

 困ったように笑ったハインケルに、苛立ちが募る。
 なにを、──なにを、勝手なことを。
 緑が燃える。しかしそんなことはどうでもいい。失ってはいけないものは、これとは別にあるのだから。
 何度目か分からぬ小さな爆発のあと、ハインケルが苦しげに胸を押さえた。それもそうだろう。彼は無理やり核を抑え込んでいる。身体を元に戻したということは、いつあの核が防護壁を突き破って彼を支配するか分からない。

「ハッ、なによ! 虚勢張っちゃって、臆病なアンタには似合わないわよ!」
「そうだね。きみが言うように、僕は臆病なんだ。死ぬのは怖い。殺されるのはもっと怖い。……だから、殺されないための布石くらい、用意してる」

 そう言って突き出された手のひらには、遠目に見ても葉脈が浮かんでいるのが分かった。ギリギリのところで抑え込んでいるのだろう。あとほんの僅かなきっかけで、ハインケルは完全に感染し、発症する。あの状態で“未感染”状態と呼べるのがおかしいのだ。核を有し、皮膚に葉脈の浮かべて健常人を名乗る方が狂っている。
 荒い呼吸は彼が崩壊へ向かっている証だった。ハインケルの身体は、もうすでに限界を感じて悲鳴を上げている。
 彼が握ったガラス片の切っ先をドルニエに向けた瞬間、傍らにいた防衛員が引き金を引いた。凄まじい破裂音と共に、ハインケルの足元で弾が跳ねる。短い悲鳴が上がったが、それを掻き消したのは他でもないドルニエの怒声だった。

「バカっ、撃つな!」

 反射的に怒鳴りつけてしまい、慌てて口を覆ったがもう遅い。驚く防衛員とは対照的に、ハインケルは苦痛を乗せた顔に僅かな余裕を浮かべてみせた。
 ──駄目だ、落ち着け、冷静になれ。どくどくと脈打つ心臓を落ち着けようにも、深呼吸をすれば熱気が喉を焼くのでままならない。早くここから出て行きたい衝動に駆られるが、それすら叶わない。
 とにかく冷静な思考を。頭を冷やせ。言い聞かせるそばから心臓は急いていく。

「よかった、ちゃんと分かってるんだね」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れっ! なに知った風な口聞いてんのよ。アンタなんか別にっ」
「じゃあ、なんで今、止めたの?」

 ともすれば感情などないような瞳でドルニエを見据え、ハインケルは手にしたガラス片を己の首に宛がった。

「僕なんて死んでしまった方が、きみ達には都合がいいはずでしょう?」

 焦燥は判断力を容赦なくこそぎ落としていく。──止めなくていい。動きかけた口を理性で戒め、ドルニエは唇の端を吊り上げた。どうせ彼にはできない。死ぬのが怖いと嘆く人間が、自らの命を絶つことなどできるはずもない。

「アンタがどうやって抜け出したのか、話が聞きたかったからよ。それだけよ!」
「テールベルト空軍が助けに来たよ。ねえ、ドルニエ。これがどういうことか、分かるかい? ──僕の勝ちだ」
「はあ!? バカ言わないでよ、データさえあればどうにでもなんのよ!」
「データデータ、さっきからそう言ってるけど、きみは一体どのデータのことを指しているの? 一番大事なものを、きみは持っていないのに」

 ざわついたのは、ドルニエを守るように囲んだ防衛員達だ。どういうことかと訝る眼差しでドルニエを見る者もいれば、馬鹿げたことをとハインケルに嘲笑を向ける者もいる。そのどれもが今は煩わしい。今この場にいる全員を、一斉に焼き払ってしまいたかった。
 そんなことはないと言い切れば、ドルニエはこの世の誰よりも憎い相手に心底嘲笑されるだろう。あの男に無能の烙印を押されることだけは耐えられない。だが、そう容易く認められる発言でもなかった。


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